黒泥の日常
まだ夜の明けない薄闇の中で、マールトは目を覚ました。
厩の隅で体を丸めたまま、かじかんだ指先に息を吹きかける。床に転がした革靴のかかとを地面に打ちつけると、カツンと硬い音を立てて固着した泥が崩れ落ちた。すり減った革の中に足を滑り込ませると、昨日の湿り気が容赦なく足指を締め上げる。マールトは眉一つ動かさず、そのまま立ち上がった。
棚の角から、削り残したライ麦パンの端切れを取り出す。石のように硬く、縁にはうっすらと青カビが生えていた。
爪先でカビを削ぎ落とし、素焼きの壺に溜めた冷水へ放り込む。ふやけてすえた酸味が立ち昇る塊を、噛むのではない。上顎に押しつけ、胃の底へ流し込む。腹が底から冷えていく感覚と、引き換えの微かな満腹感。生きるための食事に味わいなど存在しない。
かまどの隅から掬い上げた煤を、右手に巻きついた灰色の包帯へ擦りつけた。汚れ、煤け、誰の記憶にも残らない色であってはじめて、この手は隠される。布の結び目を歯で噛み、皮膚が鬱血するまで固く締め直した。
(今日も、何事もなく暮れる)
心の中でだけそう呟き、首に毛皮の切れ端を巻きつけると、静かに雨の中へ足を踏み出した。
馬小屋の扉を開けると、泥炭と馬糞が混じり合う濃厚な臭気が鼻腔を突いた。低い梁の下、背の低い泥馬たちが荒い息を吐き、足元を踏みかえるたびにぬかるみが不快な音を立てる。
マールトは黒ずんだ木製の鍬を手に取り、膝近くまで溜まった肥やしへザックリと突き立てた。粘土のようにねっとりとした泥を掬い上げ、木桶へ叩きつける。重みで腕の筋肉が強張り、跳ね返った泥水が頬を汚した。三十分も経てば、右手首の包帯に黒いヘドロが滲み込んでいく。
だが、手を止めない。視線すら向けなかった。思考を殺し、ただ腕を上下させる機械と化す。馬たちの息遣いと、己の荒い吐息、そして屋根を叩く雨音だけが世界を埋めていた。
昼近く、交代を告げる鐘の重い音が響いた。
肥やしを満載した木桶を抱え、庇の外へ踏み出した瞬間、雨宿りをしていた三人の兵卒と鉢合わせた。濡れた革鎧から安酒と獣脂の臭いが漂う。
「おい、またこの『口無し』か」
真ん中の男が、靴についた泥を擦りつけるように胸元を押しやった。マールトは無言で一歩引き、深い頭を下げる。視線は兵士の履く泥まみれの革靴だけに注いだ。言葉を発してはならない。目を合わせてはならない。
「くせえんだよ、泥豚が」
鬱屈を紛らわせるような声とともに、硬い靴底が脇腹を打ち据えた。
ぬかるみに膝をつき、手から落ちた木桶が跳ねる。集めた肥やしが雨水の中に散らばった。兵士たちは鼻で笑い、転がった桶をさらに蹴り飛ばして立ち去っていく。
腹の底に走る痛みを前に、マールトは動かなかった。顔を上げれば反抗とみなされ、叩きのめされる。包帯を巻いた右手に手が伸びれば、待っているのは処分だ。指一本動かさず、泥の中に額を押し付けたまま石のように硬直する。
足音が完全に遠のいたのを確認し、ゆっくりと体を起こした。痛む肋骨を押さえ、散らばった肥やしを見つめる。せっかく削り取った泥を、再び拾い集めなければならない。
怒りも屈辱も、とうに存在しない。生き延びるとは、過分な雨のように不当な暴力をただ受け流すことだ。屈辱を感じさえしなければ、心は壊れない。マールトは黙々と木桶を引き寄せ、再び肥やしを拾い集め始めた。
日没を知らせる太鼓の音が濁って響く。
外の雨水受けで両手に冷水を掬い、泥と煤に塗れた顔を洗った。冷気が皮膚を刺し、感覚の失われかけた頭を冷やしていく。乱れた水鏡の中に、削り切られた己の冷ややかな眼光が一瞬だけ浮かんだ。マールトはすぐさま指先で水面をかき乱し、不気味な影を消し去った。自分を映す鏡など、この地には必要ない。
炙った塩豚の脂の匂いが漂う賑やかな食堂には近づかない。彼は馬小屋の最奥にある薄暗い藁の山へ戻った。
膝を抱え、湿った藁の深部へ身体を沈める。右手を胸元に抱きかかえ、布越しに伝わる微かな熱を感じ取る。
今日を、耐え切った。
明日もまた同じように靴の泥を払い、パンを流し込み、肥やしを掻き出せばいい。
まぶたを閉じると、屋根を叩く雨音だけが残った。マールトは泥の静寂のなかへ、静かに沈んでいった。




