指を咬む泥馬
夜が深く沈み、砦の羽目板を叩く雨音が重く低く響いていた。
足音を殺して最奥の馬房へ進む。灯火の届かない暗がりには、湿った藁の匂いと淀んだ馬たちの体温が満ちていた。
柵の途切れる一番奥の区画に、その馬はいた。
北方特有の小柄な泥馬だが、毛並みは汚れ、あばら骨の形が浮き上がっている。異様なのは左前脚だった。繋ぎの関節が丸く膨れ上がり、黒く変色した皮膚から膿と腐臭が漂っている。壊疽だった。軍馬としても荷馬としても使えず、ただ肉としての価値すら失い、役人が処分を下す日を静かに待つだけの粗大物だった。
マールトが近づいても、老馬はいななき一つ上げなかった。耳を力なく後ろに伏せ、濁った灰色の眼球をゆったりと動かして視線を合わせただけだ。甘えも同情を乞う気配もなく、ただ時間を摩耗させてきた家畜の冷たい目だった。
老馬が荒い鼻息を吐き出す。息の中に、胃の腑から込み上げる酸っぱい草の臭いと、死にかけた肉の放つ重苦しい腐敗臭が混ざり合っていた。
マールトは右手の包帯を胸元に抱え直すと、暗闇の中で老馬と向かい合ったまま、静かに呼吸を整えた。
一度振り返り、外の雨音が兵舎からの足音を掻き消しているのを確認すると、粗末な布子の胸元に手を入れた。
引っ張り出したのは、夕刻に厨房の勝手口から掠め取ったライ麦の殻と残飯の入った粗布の小袋だ。見つかれば兵卒に蹴り飛ばされるどころか、盗みの罪で鞭打たれる。
袋の口を解いた瞬間、老馬の耳がピクリと跳ねた。濁った瞳の奥に、飢えから来る鋭い光が宿る。壊疽した脚の激痛も忘れ、首を低く下げて鼻面を柵の隙間から突き出してきた。
マールトは掌に残飯を載せ、差し出した。
灰色の包帯を幾重にも巻きつけた、右手だった。
無機質な動作だった。だが、飢えた獣に人間の都合など通じるはずもない。老馬は黄ばんだ臼歯を剥き出しにし、手ごと貪り喰おうとむしゃぶりついた。
ガチリ、と重い音が暗闇に響く。
固い歯牙が、麦殻ごとマールトの右手を強い力で噛み砕こうとした。包帯を押し潰し、肉と骨へ破壊的な圧力が加わる。包帯の下で、押し潰された肉が嫌な音を立てていた。
馬の強い顎は大人の指など簡単に噛みちぎる。包帯が裂け、中の異形が露わになれば、その瞬間にすべてが終わる。
「――っ」
マールトは歯をくいしばり、血の引いた顔で自らの右手に食らいつく鼻面を睨みつけた。
反射的に動いたのは、左手だった。握りこぶしを作り、老馬の濡れた鼻面を力の限りぶん殴る。
「ぐ……っ!」
老馬が頭を振り、隙が生じた瞬間、右手を力任せに引き抜いた。
激痛が腕を駆け上がり、マールトは膝をつきそうになるのを耐えた。灰色の包帯の表面に、じんわりと黒ずんだ赤が広がっていく。
「この肉喰い馬が……」
喉の奥から絞り出したのは、冷たく荒んだ呪詛だった。
だが、老馬は意にも介さず鼻を鳴らした。地面に落ちた残飯を見つけると、壊疽した脚を泥に擦りつけながら、ボリボリと泥混じりの麦殻を無心で咀嚼し始める。感謝も謝罪もない。ただ眼前にある栄養を胃袋に叩き込む本能があるだけだ。
マールトは短く舌打ちをした。
包帯の上から左手で固く締め直し、溢れる赤を押し潰す。布地に血と泥が交ざり合い、黒赤色へと変色していった。
泥まみれの床に落ちた残飯を貪り食う、老いた背中を見つめる。
役目を終え、処分を待つだけの肉塊。右手の包帯の下に「異形」を抱え、ただの「泥」として生きる自分。馬を見捨ててしまえば、己の中にある最後の輪郭すら失われてしまう気がした。
この駄馬が生き延びていることだけが、自分が明日も人間としてではなく、ただの「生の塊」として息を繋ぐための、暗黙の証明だった。
外では雨が一段と強まり、隙間風が馬房を吹き抜ける。
マールトは血の滲む右手を胸元深くへ押し込み、遠く王都へと続く街道の方向を見つめた。湿った風の匂いの中に、まもなく何かが至る気配を感じ取りながら。




