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大草原の徴(しるし) 〜タルトシュの馬飼い〜  作者: 武陵隠者
《第一部》序章

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右手の包帯

 雨は、音を奪うように降っていた。


 空を覆う低く重い雲から落ちてくるのは、水というよりも、冷えた泥の霧に近かった。北方の最果て、黒泥《こくでい》地帯の底にへばりつく黒泥砦(とりで)は、立ち昇る湿気と獣脂の匂いに満ちている。ここではあらゆるものが湿り、腐ち、黒ずんでいく。人間の皮膚も、着古した毛皮も、砦を囲む土塁さえも。


 マールトは木桶の取手を握り直し、足元に視線を落とした。


 履きつぶした革靴の隙間から、凍えるような泥水が滑り込んでくる。爪先の感覚はとっくにない。膝まで沈み込む泥の海を歩くのは、呼吸をするのと同じくらい当たり前の苦痛だった。


 立ち止まり、右腕を胸元へ引き寄せる。


 灰色の、汚れ切った粗布。手首から掌にかけて幾重にも巻きつけられたそれを、マールトは左手でゆっくりと締め直した。結び目は雨を吸って固く強張っている。爪を立て、皮膚が鬱血するほど強く引き絞る。


 痛みがあった。痛むということは、まだ解けていないということだ。


 皮膚の境界を押し潰すようなその疼きだけが、彼に安息をもたらした。


「おい、無口」


 土塁の上から、濡れた革鎧を羽織った兵卒の声が降ってきた。空腹の犬を追い払うような、投げやりな響き。


「馬小屋の肥やしを出し終えたら、北の厩舎の泥を叩け。あの老いぼれが、また腹を下して泥の中で転がってやがる」


 マールトは応えなかった。顔すら上げず、泥の中でただ頭を下げ、木桶を抱え直して歩き出す。


 口を開けば、余計な空気が腹に入る。言葉を発すれば、誰かの目に留まる。存在を消すこと。泥の一部になること。それが、この砦の最底辺で生き延びるための、唯一にして絶対の掟だった。


 馬小屋の庇《ひさし》の下に入ると、雨音がわずかに遠のいた。


 暗がりの中に、低く重い息遣いが満ちている。湿った藁と、馬の体温が混ざり合った熱気。奥の馬房で、一頭の泥馬が短い嘶きを漏らした。この地の小柄で足腰の強い馬たちは、泥炭地に生きる人間にとって歩く鉄塊であり、唯一の脚だ。だが、役に立たなくなった途端に、ただの肉と骨の塊に成り果てる。


 マールトは馬房の前に歩み寄り、膝をついた。


 右手の包帯に、冷たい雨滴が伝い落ちる。布の下で、押し込められた肉が脈打っていた。まるで、そこに閉じ込められた別の生き物が、外に出ようと喘いでいるかのように。


 マールトは左手で固く右手の手の甲を押さえつけ、目を閉じた。


 見られれば、終わる。


 雨が庇を叩く音が、次第に強くなっていく。


 マールトは息を潜め、暗がりの中で静かに右手を抱きかかえた。この黒い泥の底で、気配を殺し、ただ明日を迎えるためだけに。

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― 新着の感想 ―
1話拝読させていただきました! 序盤から重厚な雰囲気が伝わってきました。 続きが楽しみです。
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