静寂の静脈
夜明けの訪れとともに、天地を削り取っていた咆哮は、まるで巨大な布を被せられたかのように、ぴたりと止んだ。
叩きつける雨は消え去り、あとに残されたのは、乳白色の濃厚な霧と、耳が痛むほどの静けさだった。
「……っ……」
崩落した穴ぐらから這い出たマールトは、冷たい水たまりの横に這いつくばったまま、泥の中に顔を埋めていた。
強ばった肩を怒らせ、荒い息を殺しながら身構える。
今にも甲冑の擦れ合う重い音が届くはずだった。捜索犬の狂暴な咆哮、松明を掲げた兵士たちの罵声――脱獄した重大罪人として喉元を槍で突かれるか、泥の中に引きずり倒されて鉄の鎖を打ち込まれる衝撃を、全身の筋肉を硬直させて待ち続けていた。
だが、どれほど刻が過ぎても、何も聞こえてはこなかった。
泥炭地を渡る風すら息を潜め、冷え切った霧がマールトの開いた傷口を湿らせていくだけだ。
追手は、来ない。
足音も、罵声も、鉄の鳴る音すら存在しない。
その事実は「逃げ切れた」という安堵などでは到底なかった。激しい暴力の代わりにマールトを包み込んだのは、世界の果てにただ一人取り残されたような、底なしの孤独と沈黙だった。
(追って……こない……?)
泥に塗れた顔を持ち上げようとして、首筋の筋肉が途中で引きつるように固まった。
肘から先が死肉のように冷え切った右腕が、泥水の中に沈んでいる。
皮下の奥深く――あの「6本目の指」の根元あたりから、トクン、トクンと、恐ろしく重く遅い拍動が伝わってきた。己の心臓とは明らかに違う流速。この地下深くに広がる太古の泥炭層そのものが、肉体を伝って呼吸しているかのような不気味な脈動だった。
「……あ、……」
声を出そうとしたが、分厚く痺れた舌が口腔内で粘つき、掠れた息の音が漏れるにとどまる。
見渡す視界は、湿った白い霧に閉じられている。
追われないということは、許されたのではない。
圧倒的な茫漠。その圧に押し潰されそうになったとき、脳裏へ滑り込んできたのは、黒泥砦の光景だった。
石造りの低い天井と、湿気を含んだ黒土の臭い。
馬小屋の隅、腐りかけた湿った藁の中に小さく丸まり、寒さに体を震わせていた夜。
夜明けとともに重い靴底が藁を蹴り飛ばし、粗暴な兵士たちが罵声を浴びせてくる。仕事を怠ければ革の鞭が背を打ちつけ、給与代わりに与えられるのは、固くカビの生えたライ麦パンの切れ端と、濁った泥水だけだった。
『おい、口無し。とっとと桶を運べ!』
背中を殴られた痛み。皮膚を裂く冷気。唾を吐きかけられる蔑みの視線。
すべてが恐ろしい記憶だったはずだ。
だというのに――泥に顔を浸したままマールトの胸を侵したのは、嘔気をもよおすほどの苛烈な郷愁だった。
(……あそこには、人の気配があった……)
兵士たちの罵声すら、今のマールトにとっては恋しくてたまらない「人間の声」だった。自分を「口無し」と呼び、見下し、苛むことであっても、彼らはマールトをこの世に実在する労働者として繋ぎとめてくれていたのだ。
どれほど理不尽に虐げられていようと、あの泥まみれの馬小屋には、人の生活の熱があった。馬たちの温かい吐息、焚き火の煙、不仕付けな他者の存在感。そこは、マールトが人間社会の末端に足を踏み外さず留まることを許されていた、唯一の場所だった。
今、周囲には何もない。
命令する者も、軽蔑の視線を向けてくる者すら誰もいない。自分を繋ぎ止めていた不条理な枷は外れ、冷たい霧の中へ野放しにされてしまった。
自由という名の、残酷な切り捨て。
「……う、……」
喉の奥から、惨めな呻きが漏れた。
どれほど鞭打たれようと、あの馬小屋へ戻りたい。冷たい藁の中で身を縮め、兵士たちの足音に怯えながら眠る、あの日常へ帰りたい。
戻れば即座に吊るされる。審問官ガブリエルに引き渡され、生きたまま皮を剥がれるか、地下牢の暗闇で腐るまで打ち据えられるか――理性が冷ややかな警鐘を鳴らす。
それなのに、泥を噛みしめて立ち上がった足は、吸い寄せられるように反転していた。
今しがた這い進んできた己の足跡。窪みに水が溜まるその黒い凹凸を、逆に辿り始めている。
前進すべき場所など何ひとつ知らなかった。この白い霧の果てに何があるのかも分からず、足はただ、かつて自分を縛っていた「檻」へと戻っていく。
「……あ、……か、……」
喉を震わせ、声を吐き出そうとする。
許しを乞う言葉でも、まじないの呟きでもいい。人間としての意思を形作りたかった。だが分厚い痺れは重く、舌を濡れたなめくじのように粘着させている。口唇から漏れ出たのは、絞り出されるような不快な水音だけだった。
言葉を奪われ、思考すらも霧の中に溶けていく。
ズザ……、ズザ……
背後で、泥を掻く生々しい音が追ってきた。
振り向くまでもない。砕けた前脚を奇妙な角度に削ぎ落としながら、執念深く泥底を踏みしめる老馬だ。折れた骨が肉を裂き、泥と混ざり合った汁を撒き散らしながら、獣はマールトの背後を無言で追ってくる。
馬の濁った目もまた、マールトと同じ方向を見つめていた。
獣にとってもまた、死と暴力に満ちていたあの馬小屋こそが、唯一知る「世界」だったのだ。どれほど打たれようと、餌と屋根のあった場所。壊れた身を横たえるべき藁の臭い。
一歩踏み出すたびに膝がガクガクと震え、冷たい泥の中に半ばまで沈み込む。感覚のない右腕は、濡れたボロ布のように胸元で揺れていた。皮下で打つトクン、トクンという異物の拍動だけが、自分がまだ動いていることを嫌応なしに突きつけてくる。
歩むごとに、霧の合間に黒泥砦の角楼が薄ぼんやりと影を落とし始めていた。
あそこへ戻れば、人は自分を見るだろう。怒りであれ、蔑みであれ、自分に向かって声を張り上げ、鉄の鎖を巻きつけて固定してくれるはずだ。
人間社会の輪郭から完全に切り離される底なしの沈黙に呑み込まれるくらいなら、鎖で繋がれた奴隷のままでいい。自分を繋ぎとめてくれる痛みを求め、マールトは足をもつれさせながら、黒い砦の影へ向かって泥を蹴り続けた。
湿った霧の帳の向こう側から、ゆらりと影が立ち現れた。
ひとつ、ふたつ――三人。
黒泥砦の兵士たちが身につける鉄の甲冑とは明らかに異なっていた。彼らが羽織っているのは、泥炭地の水気を弾く油引きの厚手織物。その胸元には、黒ずんだ泥に紛れぬよう鮮やかに刺しゅうされた、聖堂の象徴たる「白い眼の印」が刻まれている。
聖堂直属の国境警備部隊だった。
マールトは反射的に足を止め、泥の中に身をすくめた。
(……捕まる……)
飛びかかり、鉄の枷をはめて砦へ引きずり戻してくれる。あるいは罵倒し、自分がまだ「叱責されるべき人間」であることを証明してくれる――そう思って身体を硬直させた。
しかし、靴音は響かなかった。
白い印を付けた男たちは、剣を抜くことすらもしなかった。
マールトから三十歩ほどの距離を保ったまま立ち止まると、無言の足取りで散らばり、マールトと折れた脚の老馬を中心に、ゆるやかな円を描くようにして遠巻きに囲み始めた。
「……あ、……」
もつれる舌を動かし、掠れた音を漏らす。
自分は馬飼いのマールトだと訴えたかった。
だが、男たちの目は、マールトの顔を見なかった。
彼らの視線が注がれていたのは、胸元に固く抱え込んだ感覚のない右腕であり、泥の中に刺さっている老馬の折れた脚部だった。
「……っ……」
男たちの一人が、緩慢な動作で腰の筒から羊皮紙を取り出し、炭の筆で何かを書き留め始めた。
風の音もない沈黙の中、羊皮紙を擦る乾いた音だけが淡々と響く。
会話はない。質問も、怒号もない。ただ、観察と記録だけが冷たい霧の中で刻まれていく。
マールトは痺れた右手を押さえ、後ずさった。男たちは追ってこない。ただマールトが退く分だけ、不気味な一定の距離を保ったまま、泥の上を滑るように付いてくる。
逃げ場などどこにもなかった。人間であることを奪われた男と壊れた獣は、白い外套の無言の視線に追われるようにして、再び広大な闇の深淵へと足を踏み出すしかなかった。




