灰を舐める馬
乳白色の霧は重く垂れ下がり、泥炭地の冷気を地表へ押し込めていた。
胸元に白い印を刻んだ長衣の男たちは、音もなく間隔を詰めてきていた。三十歩だった円陣は、今や二十歩ほどに狭まっている。剣を抜くでもなく、声を張るでもない。ただ泥に沈むマールトと手負いの獣を、等間隔の点となって囲み続けていた。
退路はない。背後は底なしの黒泥沼だった。
マールトは痺れた右腕を抱え込み、膝を折るように丸まった。冷たい汗が背筋を落ちていく。
そのとき、すぐ傍らで水音が弾けた。
フシューッ……!
老馬が煤けた鼻穴から荒い呼気を吹き出した。獣は折れた前脚を歪に引きずり、マールトの背を掠める勢いで、脇の小さな泥丘へ頭部を突っ込んだ。
昨夜まで伏兵が陣取り、嵐で立ち消えた篝火の跡。
濡れて焦げた薪の破片と、泥水を含んだ湿った灰の山だ。
老馬は制止の気配すら無視し、黒い灰の固まりに口先を押し当てた。
ジュ、ズ……ッ、ジャリ……
不快な不協和音が静けさを削り始める。
馬は血と濁った唾液で濡れた唇を捲り上げ、湿った灰と木炭の粉末を狂ったように舌で舐めとり始めた。歯と木炭が擦れ合うジャリジャリという嫌な音が、喉奥から漏れ出る荒い息とともに繰り返される。
鼻腔を突いたのは腐植臭ではない。濡れた薪と鉱物が放つ、重く酸っぱい煙の残り香だった。
「……な、なにを……」
マールトは重い舌を動かしかけたが、馬は応えない。灰まみれの鼻先を泥へ何度も押し付け、長年の渇きを癒やすかのように黒い粉末を貪り喰らい続ける。
血の混じった黒い泡が口端からぼたぼたと垂れ落ち、泥水の上に不気味な輪を描いて広がった。
手負いの肉体が塩分と鉱物を求めている――頭ではそう理解できても、目の前の光景は異様だった。
骨を晒した畜生が、死んだ木の残滓を喰らう。
その姿には、生の泥臭い執着と、一線を超えてしまった者だけが纏う禍々しさが漂っていた。
ジャリ……、ジャリ……ッ
咀嚼音が霧の中に響き続ける。
遠巻きに囲んでいた「白い印」の男たちの足が、ぴたりと止まった。
冷徹な観察者に徹していた彼らの表情に、明らかな不穏が差す。油引きの外套に身を包んだ狩人たちの目が、僅かに泳ぎ始めた。
過酷な泥炭地において、手負いの獣が塩分を求めて焦げた草木を舐めること自体は珍しくない。過剰な出血に苛まれた肉体が直感的に求める生理現象だ。
だが、この大湿原の底に眠る古い伝承が、その理屈を易々と押し潰す。
――灰を喰らう馬は、泥の下に沈んだ死者の骨の匂いを嗅ぎつける。
古くから囁かれてきた忌まわしい符牒。戦に敗れ、底なし沼に沈んだ兵士たちの骨が泥の中で朽ちるとき、その怨念は煤となり、灰となって地表へ浮かび上がる。それを食む獣は、現世と冥府の境目を引き裂く触媒となるのだ、と。
「……おい、あの馬……」
男たちのひとりが声を潜めた。白く乱れた吐息が霧に溶ける。
老馬は変貌するわけではない。骨の出た脚は折れたままであり、痩せこけた体躯からは今にも命が漏れ出しそうだった。
ただ黙々と、血の混じった唾液を黒く泡立てながら、焦げた薪の残滓に泥まみれの顔を押し付け直している。
「変わらぬ姿のまま異質な行いを繰り返す」生々しさが、追っ手たちの胸に潜む禁忌への恐れを激しく揺さぶった。
教会の規律で身を固めた狩人たちとて、幼少期に暖炉の傍らで聞かされた泥炭地の怪話からは逃れられない。眼前にいるのは逃亡者と畜生ではない。神の秩序が届かぬ深淵そのものではないのか――。
包囲の歩調が鈍る。
柄に添えられた指先が強張り、誰ひとりとして刃を抜こうとはしない。不吉な血を流せば、この泥に潜む呪いが己にまで感染するのではないかという悪寒が伝染していく。
マールトは泥に膝をついたまま、追っ手たちの顔に浮かんだ「恐れ」を皮膚で感じ取っていた。
彼らはマールトの持つ力を恐れているのではない。手負いの泥馬が見せる不気味な生態と、土地の古く暗い記憶の重なりに、勝手に怯え、青ざめているのだ。自分という存在が、目の前の人間たちの中で「不吉な怪異」へと仕立て上げられていく感覚に、背筋の凍るような冷え込みを覚える。
ジャリ、と最後の一舐めの音が響き、老馬が顔を上げた。
煤で覆われた鼻孔から重く濡れた吐息が漏れる。濁った眼光に変化はないが、男たちを囲む空気からは、先ほどまでの完璧な統制が失われていた。
沈黙の中に、確かな呪縛の裂け目が生まれつつあった。
◇
灰を喰らいつくした老馬は、覚醒するでも巨体を得るでもなかった。
相変わらずその姿は惨めな泥馬にすぎない。煤と血の泡を垂らし、皮と骨ばかりの肋木を波打たせ、荒い息を吐き出している。
だが、獣は泥炭地を見渡す眼差しを、僅かに低く鎮めていた。
長年、黒泥砦の兵士に鞭打たれ、重い泥炭の荷車を引かされ続けてきた老馬の肉体には、人間たちの知らぬ地の記憶が染みついている。かつて何度も歩かされた道筋、地表を覆う水たまりの深さ、そして泥の底に隠された固い粘土の感触――それらを、ただ生き延びてきた皮膚と蹄の記憶だけで手繰り寄せていた。
老馬は、ゆっくりと歩みを出した。
当てもない彷徨ではない。均一に見える泥炭地の上を、身体が覚えている沈まない「線」に沿って踏み出していく。
「……ま、待て……」
マールトは痺れた右腕をかばい、膝を震わせて馬の背後へ這い寄った。
獣は振り返らない。包囲を狭めていた「白い印」の男たちが息を呑む中、老馬は折れた前脚を、あえて泥の深部へ垂直に押し込んだ。
グ、ズズ……ッ
皮膚を突き破り、白く砕けた骨の端が濡れた深層へ刺さっていく。凄惨な痛みに筋肉が激しく痙攣した。だが、馬は嘶きさえしない。ただ生きて立ち続けるためだけに、骨の突起を三尺下の粘土層へ噛み合わせ、体を固定したのだ。
手負いの脚を支柱とし、三本の脚で体躯の重みを預ける。老馬の体が、泥の海の中で静かに固定された。
直後、馬は掲げた右前脚を、足元の泥炭へ強く叩きつけた。
ドス……ッ!
ただの歩行ではない。自らを足場として固定した獣が、生き切るために放った重い一撃だった。
嵐で大量の水を含み、かろうじて保たれていた泥の表面に亀裂が入る。
泥の底で、重く湿った空気が弾けるような音が響いた。
ゴ……、ズズズ……
水圧の均衡を失った周囲の泥炭層が一斉に滑り始め、地表の泥水が渦を巻き始めた。後退しようとした狩人たちの足元で、平坦だった地面が急激に底のない流動体へと崩れていく。
老馬が知恵を巡らせたわけではない。ただ、長年の過酷な労働の中でその肉体に刻まれた動きが、結果として危うい土地の均衡を打ち砕いたのだ。
ゴ……、ズジュウ……ッ
地底が鳴るような水音が湧き上がった。
地表が波打ち、油を含んだ黒い泡を吹き上げ始める。
「なに――!?」
胸元に白い印を刻んだ狩人たちから、動揺の声が漏れた。
足元が、消える。
草の根が絡み合っていたはずの道が、瞬く間に水と粘土の混ざり合う泥流へと変貌していく。引いた足が底なしの深部へズブズブと吸い込まれた。
「退け! 泥炭が流れている!」
指揮役の男が叫んだが、遅かった。
油引きの厚手長衣、硬質な革鎧、腰の鉄具――聖域を護るための重装備のすべてが、ここでは命を奪う決定的な重りとなった。
もがくほど泥は肉体を吸い寄せ、脚を締め上げる。倒れ込んだ衝撃が周囲の緩んだ層をさらに崩落させ、連鎖的に泥の地獄を引き起こしていく。
「呪い……! あの馬が……っ!」
絶望の叫びは、泥を吐く不快な水音に掻き消された。
剣を抜く暇すらない。敵と戦う術も、教会の教義も、足元から世界そのものが溶け落ちる絶望の前には無力だった。男たちは互いの衣類を掴み合い、助けを求めようとして共に沈み、泥の気泡の中へ消えていく。
戦闘などなかった。人間が土地の仕組みと己の恐れに呑み込まれ、自滅していくだけの光景だった。
ズザ……、ズザ……
混乱のさなか、老馬は動いていた。
刺し込んだ脚を支えに、身体が覚えている底の固い線を辿っていく。馬は走らない。ただ重い粘土を押し分ける泥馬特有の粘り強い歩みで、崩壊していく沼の目と目の間を進んでいく。
「……あ、……」
マールトは泥を這い、老馬の濡れた首筋にしがみついた。
痺れた右腕は垂れ下がり、左手の指先だけが剛毛に深く食い込む。獣の熱い体温と、灰と血の混ざった匂いが鼻腔を刺した。馬はマールトを振り払いもせず、壊れた包囲網の唯一の亀裂へ足を進めた。
背後からは泥をかき乱す水音と呼気が続いていたが、やがて重い泥炭の底へ呑み込まれ、プツリと気泡が弾ける音を残して潰えた。
高揚感などなかった。
あったのは、ただ生き延びてしまった虚無と、後味の悪さだけだ。武器でも異能でもなく、土地の猛威に呑み込まれて消えた追っ手たち。
霧の向こうへ滑り出していくマールトと老馬の背後に残されたのは、再び静けさを取り戻し、平坦にならされていく黒い泥の海だけだった。




