暗夜の檻
雨が、世界のすべてを塗りつぶしていた。
崩落した「西側旧排水口」の穴ぐらは、およそ人が歩むための道ではなかった。岩盤の割れ目に沿って伸びる不規則な空洞は、大雨の重圧に耐えかねた土砂が落盤を起こし、鋭利な岩の角が露骨に突き出している。地表の嵐が押し流す泥水が、牙を剥くような勢いで穴の奥から逆流し、匍匐するマールトの顔面を容赦なく叩きつけた。
「ゴ、ふ……っ!」
口内に流れ込む泥水を吐き出そうにも、麻痺の始まった舌がうまく回らない。
感覚の失われた右手を胸元に固く抱え込み、左腕一本と両膝だけで泥を掻いた。尖った石の角が肘の肉を裂き、足の爪が剥がれる激痛が走る。だが、その痛みすらも、皮下で冷たく脈打つ異物の重みに比べれば、遠い出来事のように感じられた。
押し寄せる水圧は増すばかりだった。水面は鼻先まで迫り、息を吸うたびに湿った土の粒が喉を焼き焦がす。もう一度水位が上がれば、顔を上げる場所すらない。冷たい濁流が肺を満たしていく恐怖に、胸が激しく締めつけられた。
ズザ……、ゴリ……っ
すぐ背後から、骨と岩が擦れ合うおぞましい音が響いた。
振り返る余裕などなかった。だが、背中に伝わる不自然な水流の乱れと、暗闇の中に漂う特有の生の体温で分かった。あの老馬だ。折れて不自然な方向を向いた前脚を引きずり、狭隘な岩の隙間に巨体をねじ込みながら、後を追ってきている。壁に肉を削がせ、骨を露出させながらも獣は歩みを止めない。馬の荒く熱い呼気が、水没しかけたマールトの足首を繰り返し撫でた。
ふたつの異形が、濡れた土の胎内を、互いの血と泥を混ぜ合わせながら泥臭く這い進んでいく。
水圧が最高潮に達し、頭根まで濁流に浸かったその時、頭上の土砂が大きく崩れ落ちた。
ゴバッ、と泥水が弾け、冷たく狂暴な外気が、叩きつける雨とともにマールトの顔面を殴りつけた。
地上に出たのだ。だが、そこに用意されていたのは、光でも救いでもなかった。
◇
黒泥砦の最上層、重い石造りの執務室には、嵐の咆哮が地鳴りのように響き渡っていた。
濡れた足音が廊下を疾走し、荒いノックとともに一人の兵士が滑り込んできた。甲冑の隙間から泥水を滴らせ、顔色を失わせた隊長格の男だ。
「ガブリエル閣下! 地下最下層にて異常事態です! 囚人マールトの牢が破られました!」
「……何だと?」
机の脇に控えていた若い書記生ヨハンが、手にしていた羽ペンを落とした。顔を蒼白にし、自らが調書に一文字書き加えた「西側旧排水口」の記憶に一瞬で思い至り、ガタガタと唇を震わせる。
だが、部屋の奥に佇む審問官ガブリエルは、身動ぎひとつしなかった。
「鉄格子が一本、根元から圧折し脱落しております。現場には不自然な腐食の痕跡と……処分されたはずの泥馬の足跡が! 直ちに犬と捜索隊を出し、裏手の排水口周辺を封鎖します!」
「追う必要はない」
「は……? しかし閣下、明朝には絞首刑が控え――」
「言ったはずだ。放っておけ」
ガブリエルの声には、感情の起伏というものが一切存在しなかった。怒りも、焦燥も、驚きすらもない。ただ氷のように澄んだ冷徹さが、部屋の空気を支配する。
彼が見下ろすアーチ窓の外には、漆黒の雨に打ち叩かれる見渡す限りの泥炭地が広がっていた。
(やはり、か……)
あの馬飼いの男が隠し持っていた「六本目の指」。そして、異端として処分を待っていた泥馬。
「あれはただの脱獄ではない。ただの逃亡者が、あの狂暴な嵐と底なしの泥沼の中でどこまで生き延びられるか……そして、あの変質した肉体が何を引き寄せるのか。見ものだな」
ガブリエルは振り返ることもなく、闇の荒野を見つめたまま静かに命じた。
「追撃は一切禁ずる。放置せよ」
◇
地上に伏したマールトの全身を、冷たい雨粒が容赦なく叩き続ける。
「あ……が……」
口を開けても、かすかな掠れ声しか出ない。舌の麻痺は口腔全体に広がり、言葉を形作る動きそのものを肉体が忘れかけていた。頭の中で「マールト」という己の名前の音が、砂のようにサラサラと崩れて消えていく。
母の顔を思い出そうとした。
だが、浮かんでくるのは目や鼻の造形ではなく、「枯れ木のような手触り」と「冷たい声の残響」という粗雑な感覚の破片だけだった。自分がどこから来て、なぜ追われ、何を悲しんでいたのか。理由を示す単語が、右腕の重い脈動とともに泥の中へ溶けて流れていく。
ドサァッ!
目と鼻の先で、泥水を盛大に跳ね上げる重い衝撃音が響いた。
後を追って穴ぐらから這い出してきた老馬が、足を取られて激しく転倒したのだ。折れた前脚があり得ない角度に折れ曲がり、頭部から黒泥の中へ突っ込む。吐瀉物のような泥水を吐き出しながら、馬は動かなくなった。
(……おい……て……っ)
声を出して打ち捨てようとした。だが、唇から漏れたのは潰れた虫の鳴き声のような水音だけだった。
その時、泥の中に半ば没していた馬の頭部が、ズチ、と嫌な音を立てて持ち上がった。
馬は濁りきった目をマールトへと向け、折れて肉が削げ落ちた前脚を、執念深く泥底の岩盤へと突き立てた。
ゴリ……ッ!
砕けた骨が皮膚を破り、血と脂が泥水に混じり合う生々しい音が響く。獣は激痛に狂い叫ぶこともなく、ただ静かに、不自然な三本の脚で泥を踏みしめて立ち上がった。黒い灰を塗りたくった鼻先から荒い呼気を吐き出し、壊れた脚を引きずりながら前へ進む。
英雄的な美しさなど微塵もない。ただ、死を拒絶し、泥を喰らい、どこまでも生にしがみつく異形の姿。
マールトは、動かなくなった右手を胸元に抱えたまま、吸い寄せられるように膝を立てた。
どれほど泥の中を匍匐したのだろうか。ふと立ち止まり、マールトは振り返った。
泥に塗れた視界の遥か彼方、漆黒の地平の片隅に、点のような小さな灯火が揺れていた。黒泥砦の篝火だ。雨粒に煙り、今にも消え入りそうに明滅している。
追手は来ない。
松明の列も、犬の唸り声も、馬の蹄の音すら聞こえなかった。
逃げ切ったのではない。
自分たちはただ、石と鉄格子で囲まれた狭い檻から、屋根もなく境界もない「世界」という名の、あまりにも広大で逃げ場のない檻へと放り出されただけなのだ。
自由を得た歓喜などどこにもなかった。あるのは、自分が何者かへ変質してしまったという正体不明の戦慄と、この不吉な肉体を抱えてどこへ行けばよいのかという、果てしない茫漠だけだった。
ズザ……、ズザ……
冷たい体温が、隣に寄り添ってきた。
骨を晒した脚を引きずり、黒い灰と血を吐き出しながら立ち続けている老馬だった。獣は言葉を失ったマールトの首筋に、濡れた温かい鼻先をそっと押し当ててくる。
そのぬくもりだけが、この広大な暗闇の中で唯一の現実だった。
マールトは声にならない息を漏らしながら、麻痺した右腕を胸に抱き、左手で老馬のたてがみを強く握りしめた。
見渡す限りの暗夜の中、果てしない大草原の闇が、二つの傷ついた異形を呑み込もうと静かに口を開けて待っていた。マールトは馬の歩みに身をゆだねるようにして、ゆっくりと、闇の中へ消えていった。




