泥炭の脈動
馬の鼻先が、潰れた六本目の指に触れたまま離れない。
湿った温もりと、灰の混じった黒泥の感触。その接点から、マールトの腕へ流し込まれてくるものは、到底「痛み」などという言葉で表現できるものではなかった。
ドクン……
重く、酷く緩やかな跳ね上がり。
マールトの意思など丸ごと無視して、右手の太い筋繊維が皮下で跳ね起きた。まるで皮膚の下に数千本のミミズが閉じ込められ、一斉に暴れ狂うかのような不気味な痙攣。肘から肩にかけて、灼熱した鉄を押し当てられたかのような激痛が走ったかと思えば、次の瞬間には氷の針で肉を突き刺されたような死の冷気が駆け巡る。
「ヒッ……っ、あ……」
悲鳴を上げようと喉を開いた。だが、声帯が固く縮み上がり、掠れた水音しか吐き出せない。
己の脈拍とは明らかに違う「鼓動」が、右腕の奥深くで打たれていた。人の心臓が刻むトクトクという軽いリズムではない。黒泥炭地の最深部、古びた泥と腐草が積み重なる地層の底から、ゆっくりと押し上げられてくる地鳴りのような長大な波動。
(やめろ……離せ……っ!)
狂乱した頭の中で叫びながら、マールトは右手を引き抜こうとした。しかし、己の腕であるはずの肉体が、まるで他人の肉の塊になったかのように動かない。
ふと、マールトの目が馬の折れた前脚へと向いた。
さきほどまでダラリと垂れ、不自然な方向へ曲がった傷口から黒い生血を撒き散らしていたはずの脚。灰と泥を貪り食ったその歪な膝からは、いつの間にか血が引いていた。肉が戻ったわけでも、骨が整ったわけでもない。ただ、凄惨な傷口の表面が、黒い泥と煤の混ざり合った粘液でねっとりと塞がれ、出血がぴたりと止まっていた。
思考が恐怖で凍りつく。馬はただ静かに、冷たい鼻息をマールトの右手に吹きかけているだけだ。
(母さんは……知っていたのか……?)
耳の奥で、母の「絶対に触れてはならない」という死に際の叫びが金切り声となって反響する。自分はいま、開けてはならない扉を開け、人間としての境界を内側から踏み散らしてしまっているのではないかという戦慄が、全身の毛穴を激しく粟立たせていた。
馬の巨体が、さらに深く前へ傾いた。
黒い灰を塗りたくった額が鉄格子を押し叩き、重い鼻先がマールトの傷ついた右手を強く格子へ押し付ける。
「あ……ぐ、っ!」
激痛と不快な体温に背中を丸め、マールトは耐えかねて体勢を崩した。右腕が跳ね起き、制御の効かない肉の塊となって、濡れた黒鉄の棒へと叩きつけられる。
――その瞬間。
ゴ……ギ、ギギ……ッ
重く湿った、耳朶を削るような音が地下牢の静寂を切り裂いた。
マールトの右手が触れた鉄格子が、まるで内側から腐敗した木幹のように、あるいは熱せられた蜜蝋のように、緩やかに歪み始めたのだ。
光や閃光など、何ひとつとして発生しなかった。
ただ、古い鉄の表面にねっとりとした赤錆のような湿り気が浮かび上がり、不自然な速度で金属の強度が失われていく。
あるいは、それは単なる老朽化の限度だったのか。
外を覆う凄まじい嵐が砦の基盤を揺らし、地中の水圧が地下牢の壁面を圧迫した結果、たまたまその格子の根元に破滅的な負荷がかかっただけなのか。それとも、マールトの腕を通り抜ける「脈動」が、鉄の理を腐らせたのか。
触れている右手はすでに感覚を失っていた。
石は石でなくなった。鉄は鉄でなくなった。では、触れている自分は――。
バキッ、と
乾いたような、同時に湿った骨が折れるような不快な重音が地下牢に落ちた。
腐食と圧力を受け切れなくなった一本の鉄格子が、根元から歪に折れ曲がり、ドブンと大きな音を立てて足元の泥水の中へ脱落した。残されたのは、人が一人、肉を削ぎ落とすようにして縮こまればかろうじて通り抜けられる程度の、醜く歪んだ暗い隙間だった。
だが、マールトの胸に「脱出」という歓喜は一切湧き上がらなかった。
それでも、足元を浸す冷たい泥水と背後に迫る死の気配が、止まりかけた肉体を無理やりに突き動かした。
マールトは震える手足を伸ばし、折れた鉄格子の生々しい断面に身を擦り寄せながら、這うようにして格子の外へと身体を押し出し始めた。ささくれた鉄の棘が肋骨や肩の肉を裂き、痛みが走る。だが、体内の「脈動」がもたらす恐ろしさに比べれば、そんな肉体の損傷などもはや感覚の端にすら引っかからなかった。
泥塗れの頭部が格子の外へ抜け、胸が通り、膝が冷たい水底を掻く。
牢の外の通路へ倒れ込んだマールトは、必死で己の右手を泥水から引き揚げた。
指を握ろうとしても、脳からの伝達が途中で掠れる。潰された六本目の指を中心として、右腕全体が速い速度で異物へと変質していく感覚があった。
「あ……が、う……」
恐怖のあまり、己の名を口にしようとした。
しかし、舌が分厚く痺れ、口内で重くもつれる。思考の奥底から言葉という「記号」が、ボロボロと崩れ落ちて消えていく。馬飼いとして生きてきた日常の単語が、泥に呑まれるように思い出せなくなっていくのだ。
「……マ……ー……」
自分の名前の音すら、輪郭を失って砂のように解け落ちる。
ズザザ……、ズザザ……
背後から、泥を擦る重い音が近づいてくる。
折れた前脚を引きずり、黒い灰を口周りに塗たくった老馬。傷口を泥で固め、不揃いな吐息を漏らしながら、獣はどこまでもマールトに寄り添おうとする。
マールトは声にならない喘ぎを漏らしながら、肘と膝で濁流を掻いた。
崩落した旧排水口――かつて書記生が調書に「旧」の一文字を書き加えたことで生まれ、嵐の地鳴りによって剥き出しになった、あの漆黒の空洞。外の嵐がもたらす激しい冷気と雨の匂いが、その闇の奥から吹き込んでくる。
助かったのではない。
人間としての言葉と身体を奪われ、内側に正体不明の「泥炭の脈動」を抱えたまま、さらなる深淵へと追いやられているのだ。
マールトは、動かなくなりかけた右腕を胸元に抱え込み、壊れた老馬とともに、ぽっかりと口を開けた闇の亀裂へと、泥に塗れて這い進んでいった。




