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大草原の徴(しるし) 〜タルトシュの馬飼い〜  作者: 武陵隠者
第3章『嵐の牢獄』

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灰を食む馬

 水音が、重く昏《くら》い地下牢の静寂を浸食していた。


 外を吹きすさぶ暴風雨は、夜が深まるにつれて勢いを増しているらしく、上層の石垣を伝って流れ落ちてくる水量は刻一刻と増していた。天井の亀裂や石組みの隙間から、粘土質の黒泥を混じえた汚水が太い筋となって滴り落ち、絶え間ない瀑布のような不協和音を狭い牢内に響かせている。


 足元を覆う水面は、すでにマールトの膝近くにまで達していた。


 冷気が皮膚を刺し、打たれた肉体の傷口に泥水が沁みて痛む。マールトは高く組まれた石段の端に縮こまり、吐く息の白さすら見えぬ暗闇の中で、かろうじて意識の糸を繋ぎ止めていた。


 明日、朝一番の光が射せば、絞首台の縄に首を括られる。


 その絶対の事実が、冷たい泥水よりも確実な重量をもって胸を押し潰していた。体温は失われ、手足の感覚は麻痺し始め、自分が今生きているのか、すでに死へ向かって半ば泥に溶け込んでいるのかすら定かではない。


 ――その時だった。


 濁流が落ちる轟音と、雨が石を穿つ水音の隙間を縫って、異質な音が届いた。


 ズ……、ズズ……ッ


 濡れた石肌を何かが激しく擦りつけるような、重く湿った音。


 最初は、外の雨圧に耐えかねた砦の土台が崩れ落ちる音かと思った。だが、音は単調ではない。途切れ途切れになりながらも、確かにこちらへ向かって「歩み」を進めてくる節度があった。


 ザ……、ズ……、カツン


 牢の格子越し、見張りの兵士すら足を踏み入れない最下層の奥――崩落した土砂で塞がれているはずの、西側暗渠(あんきょ)の方向からだった。


 濡れた岩を削る硬い重音。それは間違いなく、鉄の蹄が石を噛む音だった。


 マールトの背筋に悪寒が走る。腫れ上がった瞼を無理やりに押し開き、奥の暗闇を睨みつけた。


 あり得るはずがない。ここは黒泥砦の最下層、人が入り込む隙間などどこにもない行き止まりだ。ましてや、蹄を持つ獣などが足を踏み入れられる場所ではない。明日死ぬ己の恐怖が見せる、死の幻覚なのか。


 ヒュー……ヒュー……


 水音に混じり、途切れ途切れの荒い吐息が聞こえ始める。肺が潰れかけた獣が、泥を吐き出すような、重く苦痛に満ちた呼気。


 蹄の音は一歩進むごとに泥を跳ね上げ、片方の脚を引きずりながら、暗闇の肉を押し開くようにして近づいてくる。


 泥と水の匂いに混じって、生き物の生々しい体温と、濡れた毛皮の獣臭が、冷えた地下牢の空気を重く押し広げていく。


 暗闇の奥から這い出してきた影が、濁流の跳ね返す微かな光を浴びて、その姿をあらわにした。


 マールトは息をのんだ。


 そこにいたのは、あの老いた泥馬だった。


 審問官の鉄靴に踏みにじられ処分されるはずだった、あの馬だ。


 左の前脚はあり得ない方向へと不自然に曲がり、肉が裂けた皮膚からは黒ずんだ血が泥水に混じって滴り落ちている。全身の毛並みは粘土質の泥で塗り固められ、削れ落ちた皮膚の隙間から露わになった肋骨が、ヒューヒューと鳴る荒い息に合わせて激しく上下していた。


 馬が這い出してきた暗がりの中には、ぽっかりと不気味な亀裂が口を開けていた。西側の古い排水路から続く、途絶えたはずの空洞。崩れ落ちた土砂と石の隙間から、冷たい外気が激しい雨の匂いとともに吹き込んでくる。


 傷口から泥と生血を撒き散らしながら、馬はそこに立っていた。


 脚の骨は砕け、瞳は落ち窪み、死臭すら漂わせている。それでも馬は倒れなかった。不揃いな三本の脚で泥水を踏みしめ、重い頭部を揺らしながら、マールトのいる鉄格子の方へと、じり、じりと歩み寄ってくる。


 その姿は美しくも神聖でもなかった。ただ、凄惨《せいさん》で、泥臭く、異様だった。


 人間たちの都合で異端と咎《とが》められ、殺されかけた獣が、死の淵から泥に塗れて這い戻ってきたのだ。マールトは己の激痛も明日迫る死も忘れ、闇の中に佇むその凄惨な異形の立ち姿から、目を逸らすことができなかった。


 老馬は、マールトの方へ真っ直ぐ向かってくるのではなかった。


 折れた脚を不自然に曲げ、泥水を大きく跳ね上げながら重い歩みを進めると、鉄格子のすぐ脇――地下牢の隅に積もっていた黒い小山の前で、ドサリと崩れ落ちるように膝をついた。


 そこは、上層のかまどから吐き出された煤と灰、そして泥炭の燃えさしが幾重にも堆積している場所だった。


 馬は長い首を深く垂れると、まともな草もないその黒い堆積物へ、躊躇なく鼻先を突っ込んだ。


 ジャリ……、ジャリ……ッ


 不快で不気味な音が、狭い石牢の暗闇に響き渡る。


 馬は、湿った灰と煤の混ざり込む黒泥を、舌ですくい、貪るように食み始めたのだ。口唇の隙間から溢れ出た黒い汁が顎を伝って泥水へ落ちる。硬い砂粒や燃えさしの破片が歯と擦れ合い、ジャリ、ジャリと、骨を削り砕くような咀嚼音が絶え間なく吐き出される。


 マールトは、息を詰めてその光景を見つめていた。


 教会の聖職者たちは、「灰を食う獣は死者の肉と魂を食らう魔物だ」と忌み嫌っていた。火の消えた灰の中には死者の未練が宿り、それを口にする獣は悪魔の使いとして即座に焼き殺されるべきだと。


 だが、馬飼いとして生きてきたマールトは知っていた。


 草の乏しい過酷な泥炭地で、泥馬たちが時に炉の残滓や灰を食うのは、死者を食らう呪いなどではない。体内の毒を押し出し、傷ついた腹を満たし、冷え切った命の火をかろうじて繋ぎ止めるための、泥臭く切実な生の本能なのだ。教会の高潔な教義など届かぬ場所で、この地上の生き物が命を維持するために手に入れた、悲しい知恵に過ぎない。


 ジャリ……、ゴク……


 黒い灰を口周りに塗りたくり、老馬は喉を鳴らしてそれを飲み込んだ。


 その目は、もはや濁り切っていた。脚の激痛に肉体を歪め、死の影を濃厚に纏いながらも、獣は泥と灰を腹に押し込め、生きようとしていた。神に祈ることも、己の不幸を呪うこともなく、ただそこに在る泥を喰らい、命の灯火を燃やし続けようとする圧倒的な執着。


 明日、首を吊られて消えていく己の惨めさと、目の前で灰を喰う手負いの獣の姿が、暗闇の中で重なり合う。


 マールトの胸の奥で、冷え切っていた血が、かすかに不気味な熱を帯びて蠢き始めていた。


 灰と煤を胃の底へ流し込んだ老馬は、重い頭部をよろよろと持ち上げ、ゆっくりと向きを変えた。


 湿った蹄が泥水を踏み鳴らし、鉄格子のすぐ向こう側へと歩み寄ってくる。馬の荒い吐息が格子を抜け、マールトの腫れ上がった頬を湿った熱気となって撫でた。黒い灰を口周りにびっしりと塗りたくり、泥と血に塗れた巨体が、闇の中でマールトを見下ろしている。


 馬の濁った瞳が、まっすぐにマールトの胸元へと注がれていた。


 そこには、兵士たちの暴行によって引き裂かれ、泥と凝固した血で汚れた包帯が、痛々しく右手に巻きついたまま残っていた。


「……あ……」


 制止する間もなかった。


 馬は重い頭部を低く垂れると、黄ばんだ歯を剥き出しにし、マールトの右手に巻きついていた汚れた布切れを噛み含んだ。そして、強い首の力で一気に引きちぎった。


 バリッ、と布が裂ける音が響き、千切れた包帯が泥水へと落ちる。


 隠し続けてきた肉の異形が、暗闇の中に剥き出しになった。


 兵士の靴底で踏み潰され、骨が歪み、赤黒く血を滴らせる6本目の小指。歪に膨れ上がったその肉芽は、冷たい地下牢の空気の中で痛々しく痙攣していた。


「やめ……見ないでくれ……っ」


 母の遺言が、狂おしい拒絶となって脳裏を駆け巡る。人に見せてはならない、触れさせてはならない呪いの指。マールトが傷ついた右手を引っ込めようとした、その瞬間だった。


 馬は逃げる手を逃さず、その温かく濡れた鼻先を、踏み荒らされた6本目の指へと静かに押し当てた。


 ぬちゃり、と。


 灰の匂いと、生温かい湿り気。


 馬の柔らかく厚い鼻腔の皮膚が、潰された異形の肉芽と直接触れ合った。


 ――ドクン。


 鼓膜を揺らすような、重い脈動が一つ、跳ねた。


 熱い。いや、氷のように冷たい。


 冷たく、重く、太く、人間のものではない生命の脈動が、傷ついた6本目の指を回路として、マールトの腕へとなだれ込んできたのだ。


 皮膚の下を黒い不吉なものが蠢くような感覚が、脊髄を突き抜け、脳天を激しく揺さぶる。体内の血が、一瞬にして別の重い液体へと書き換えられていくような嫌悪と恐ろしさ。


 マールトは左手で右腕を強く抱き締め、泥水の中で体を硬直させた。


 馬は鼻先を離さない。濁った瞳でマールトを見つめたまま、深い呼気を吐き出す。


 右手の傷口から、黒ずんだ血が一滴、泥水の中へと落ちた。


 ポタリ。


 その一滴が波紋を広げた瞬間、二人を隔てる冷たい鉄格子の奥から、ミシ、と硬い石が軋むような不吉な重音が響いた。


 鉄格子は動かない。牢の扉も閉ざされたままだ。だが、世界の理《ことわり》の厚みが、ほんのわずかに歪んだような不気味な気配が、暗闇の中に漂い始めていた。


 外は、猛《たけ》り狂う暴風雨の夜。


 絶望に打ち震える青年と、灰を口周りに塗った手負いの獣が、降りしきる水音の底で静かに息を潜めていた。

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