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大草原の徴(しるし) 〜タルトシュの馬飼い〜  作者: 武陵隠者
第3章『嵐の牢獄』

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冷えた鉄と六本の指

 黒泥砦の最下層にある地下牢は、巨大な獣の臓腑の底だった。


 岩肌の隙間から染み出す水は粘土質の黒泥を溶かし、牢の床全体を覆う冷たい泥水となって停滞している。湿気とカビ、腐肉と排泄物の臭いが混ざり合い、息を吸うたびに肺の奥を重く汚していった。


 マールトは、わずかに高くなった壁際の石の段差に膝を抱えて座り込んでいた。


 全身が激しい痛みに苛まれている。


 王都から来た美しい審問官を突き飛ばした瞬間、兵士たちの鉄靴と皮鞭が怒涛のように叩きつけられた。割れた唇の端からは生臭い血が絶えず伝い落ち、左の肋骨は息を吸うたびに嫌な音を立てて痛む。腫れ上がった瞼の隙間から見える世界は、薄暗い泥色に歪んでいた。


 ガタガタと、歯の根が合わない。


(……なぜ、あんなことをした)


 膝を抱える腕に力を込めながら、マールトは泥の底に沈むような深い悔恨に胸を塞がれていた。


 自分はただの馬飼いだったはずだ。言葉もしゃべれず、誰とも関わらず、ただ馬の世話だけをして泥に塗れて生きてきた。馬の背を擦り、乾いた藁を敷き、彼らの温かい息を吐く鼻先に頬を寄せる――そんな地味で慎ましい日々が、自分の世界のすべてだった。


 それなのに。


 あの老いた泥馬が、脚を痛めて動けなくなっただけのあの馬が、「悪魔の徴」だの「異端」だのと身勝手な理屈をつけられ、審問官の鉄靴で踏みにじられた時、頭の中が真っ白になった。


 気がついた時には、身なりを整えた高貴な審問官の体を、その手で激しく突き飛ばしていた。


 無力な自分がそんなことをして、何になるというのだ。結局、自分はこうして暗い穴に放り込まれ、死を待つ身となった。庇《かば》おうとしたあの老馬も、今頃は冷たい雨の中で処分され、灰の穴へと捨てられているに違いなかった。


(……阿呆だ。本当に、阿呆だ……)


 助けられるはずもなかったのだ。自分には何の力もなく、身分もなく、ただ異形を隠して生きてきた惨めな男に過ぎないのだから。


 滴が水面を叩くたび、冷酷な水の手触りが、自分が死へ向かって刻一刻と流されていることを告げていた。生きたいという綺麗な感情ではない。ただ、こんな暗く冷たい泥の底で、誰にも気づかれず何の意味もなく生を終えていくことへの、身をよじるような恐怖と惨めさだけが胸の奥で黒く渦巻いていた。


 重い鉄格子が、軋んだ音を立てて開いた。


「おい、起きろ。泥豚が」


 返事をする隙すら与えられず、鉄で補強された靴先がマールトのみぞおちを深く抉った。


「ぐはっ……!」


 溜め込まれていた息が吐瀉物とともに吹き飛び、マールトは泥水の中へと転がされた。間髪入れず、濡れた皮鞭が空を割る音とともに背中に叩きつけられた。


 バシッ、と肉が爆ぜる不快な音が狭い地下牢にこだまする。


「教会の審問官閣下に手を上げたんだ。ただの死刑で済むと思うなよ。背後に誰がいる? 吐け!」


 二人組の兵士はマールトの髪を掴み上げ、強引に頭部を石壁へ打ち付けた。皮鞭と鉄の棍棒が、容赦なく肉を削り取っていく。


 痛みの波が重なり合い、全身の感覚が麻痺していく中、マールトは無意識のうちに右手を腹の下へと押し込み、かばい続けていた。


 血と泥で濡れそぼった、汚れた包帯の巻きつけられた手。


「ん……? おい、こいつ何をごそごそ隠してやがる」


「やめ……ろ……っ」


 かすれた声で懇願するマールトの腕を、兵士は靴底で踏みつけ、骨が軋むほどの力で踏みにじった。絶叫が上がる。もう一人の兵士が懐刀を取り出すと、マールトが必死で握りしめていた右手から、千切り取るように包帯を裂きはがした。


 濡れた肉が剥き出しになる。


 松明の赤ぐろい炎に照らし出されたのは、あまりにも不吉な、異形の指だった。


 正規の小指のすぐ脇、手甲の端から歪に突き出た、一本の小さな突起。爪すら満足に形作られていないその生肉の塊は、まるで木肌から不気味に芽吹いた瘤のようだった。


 兵士たちの動きがぴたりと止まり、次の瞬間、地下牢の天井を揺らすような下劣な爆笑が弾けた。


「ひでえな、おい! 小指の横からもう一本、余計な肉芽が生えてやがる! 出来損ないのバケモノじゃねえか!」


 笑いながら、兵士は鉄で覆われた靴底を上げ、マールトの右手を踏みつけた。


 ぐにり、と不気味な感触とともに異形の指が泥の中に押し潰される。肉が潰れる激痛に、マールトは声を限りに叫び声を上げた。


「けっ、明日には首を吊られる出来損ないが」


 兵士たちは吐瀉物混じりの泥水をけり飛ばし、嘲笑を残して去っていった。鉄格子の扉が重く閉ざされ、再び深い闇が降りてくる。


 マールトは泥水の中に顔を伏せたまま、激痛に痙攣する右手を抱きかかえた。潰された六本目の指から滲む血が、泥水を黒く染めていく。


 静寂を取り戻した暗闇の中で右手を胸元に引き寄せると、壊れた骨と裂けた皮膚から湧く熱が胸布を赤黒く染めた。潰された六本目の指が、心臓の鼓動に合わせるように、トクン、トクンと深く疼いていた。肉体の痛みが猛威を振るうにつれ、失われた過去の光景が泥の底から浮かび上がってくる。


 それは、泥炭地の最果てに建つ、風に吹き晒された掘っ立て小屋の記憶だった。


 死の病床に臥せる痩せこけた母。喘鳴のような荒い吐息を吐き出しながら、母は枯れ枝のような手で幼いマールトの右手を引き寄せ、小指の脇にある小さな肉の瘤――六本目の小指を押し潰さんばかりの力で握りしめたのだった。


 あの時の母の眼光を、マールトは今でも忘れられない。


 病で落ち窪んだ眼の奥に燃える狂気。カサカサに乾いた唇から漏れたのは、祈りというよりは呪いに近い、おそろしく切迫した声だった。


『よくお聞き、マールト……。この指を、決して人に見せてはならない。どれほど愛しい者ができようと、絶対に包帯を解いてはならないのだよ。そして……絶対に、その指で人に触れてはならない』


 母の爪がマールトの肌に食い込む。


『この指は、人間に触れるためにあるのではない。ひとたび人に触れれば、お前も、触れられた者も、この泥の底へ呑み込まれて消えてしまう……。人間の中で生きたいなら、息を殺し、口を閉ざし、人ならざる者として生きていくのだ』


 母の言葉は消えない烙印として焼きついた。


 以来、マールトは右手に古い布を巻きつけ、人々の視線から逃げるように生きてきた。人と関わらぬよう、他人の肌に触れぬよう、世界の隅で泥に塗れて息をひそめていた。


 だが、死の真際、母が意識を失う直前に残した最期の言葉が、ずっと胸に不吉な刺として刺さり続けていた。


 途切れ途切れの息の中で、母の紫色の唇がかすかに動いたのだ。


『……馬だけは……』


 それ以上、母は言葉をかけなかった。喉がヒューヒューと鳴り、そのまま途絶えた。


「馬だけは」何だったのか。


 見せてもよいということか。


 触れてもよいということか。


 それとも――。


 答えの出ない問いが、暗闇の中で痛む胸を鋭く穿つ。母の言葉を守り抜いた末に待っていたのは、こんな暗い穴の底で踏みにじられる結末だった。


 カツン、カツンと乾いた足音が響き、鉄格子の前で止まった。見張りの兵士が手にした松明の火を格子の隙間から差し入れ、無造作に見下ろす。


「明朝の第一刻、上の広場で絞首刑だ。審問官閣下のお許しが出た。判決は『異端幇助および公権への反逆』。朝一番の光が射したら、縄にかかる」


 足音は躊躇もなく遠ざかり、再び重苦しい静寂が訪れた。


 明日、自分は殺される。


 首に冷たい麻縄をかけられ、見知らぬ群衆の前で無残に息絶える。


 その情景が鮮明な真実となって胸を叩いた瞬間、マールトの全身を狂おしいほどの恐怖が駆け巡った。歯が激しく打鳴り、喉の奥で声にならない悲鳴が引きつる。


(死にたくない……っ)


 生まれた時から忌み嫌われ、母の遺言に怯え、ただ黙々と馬の糞を掻いて生きてきた。何一つやり遂げず、誰にも愛されず、ただ息をひそめていただけの人生だった。


 それなのに、なぜ最後はこんな暗い穴倉で打たれ、明日には晒しものにされて死なねばならないのか。


 ぽろぽろと零れ落ちる熱い涙が、冷たい泥水の中に落ちて溶けていく。ただ死ぬのが恐ろしい。首を絞められる苦しみが恐ろしい。世界から自分の存在が跡形もなく消え去ってしまうことが、ただただ恐ろしかった。


 その時、遠く頭上から地鳴りのような重低音が響き渡った。


 古びた石造りの砦全体が微かに震える。


 牢の床を覆っていた泥水が、ほんのわずかに揺れた。


 大草原の果てから吹き寄せる嵐が、黒泥砦を包み込み始めていた。天井の亀裂から滴り落ちる水の粒が、ぽつり、ぽつりと落下の速度を増していく。


 ぽつん。ぽつん。ざあぁっ……。


 やがて水滴の音は激しい濁流の咆哮へと変わり、地下牢の暗闇を容赦なく満たし始めた。


 マールトは息を殺し、泥に覆われた壁へゆっくりと手をついた。


 激しく降りしきる雨音の合間、雷鳴の遠鳴りに混じって――地を蹴る細く微かな蹄の音が、確かに耳を打った気がした。


 外は吹きすさぶ暴風雨の夜。


 明日の死を待つ青年と、地を濡らす冷たい雨音だけが、黒泥の底で静かに響き続けていた。

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