8.女神の囁き
「実は以前、ジュリアン殿下とお会いする機会があってね」
伯爵邸内の長い回廊をアニスと二人並んで歩きながら、レギオンは言った。
「殿下がエーテライトに訪問なさったときですか?」
「あぁ。殿下は我が国のことをよくご存知で、初対面の印象は聡明で話上手な好青年だった。話の中で滞在日程に少し空きが出来たと言うので、国内を周遊することになり私も同行したのだが……その時の殿下は、初めて言葉を交わした時とまるで別人のようだった」
「…周遊……」
過去、ジュリアンのエーテライト訪問前に公務日程と照らし合わせながら情報を集めたことを思い出す。国内周遊は予定になかった。
もし予定にあったなら、『どのような話をどのような態度で』と、囁いていただろう。
「…どう、別人のようだったのですか」
「よく言えば高潔、悪く言えば尊大、横柄、傍若無人」
思わず頭を抱える。そこまで言わしめるような態度を取っていたのか、他国の貴族の前で。
いや他国の貴族の前だからこそ、だろうか。
「まぁ、外交に影響のない場面で自分より位の低い人間にそんな態度を取る王族というのは少なくないさ。ただ彼は、あまりにも別人過ぎてね」
「…その節は申し訳ありませんでした。私が細かく言い含められておらず」
「ははは、アニス。自分の力を知った後でそんな謝罪をしては、ジュリアン殿下への嫌味に聞こえるよ」
「!!い、いえ決してそのようなつもりは…」
慌てて否定するアニスだったが、今となってはレギオンの言う通りなので言葉は尻すぼみになる。
やがてある扉の前に辿り着くとレギオンの歩みが止まった。
「さ、ここだよ」
ギ……と重く軋む音を響かせながら重厚な扉が開かれる。
「ここが……」
中はそう広くない書斎。
部屋の奥、大きな窓の前に古めかしい書斎机と椅子があり、壁一面の本棚には隙間なく本が並べられている。どれもバルツァー国では見たことがない本ばかり。
「ここにある本は、どれも母が生涯集めた魔導書だ。これからの君にきっと役に立つ」
「ありがとうございます、おじい様」
「うん。まずは好きに見てみるといい。この部屋は当分、君の部屋だ」
レギオンは一度だけ部屋の中を目を細め見渡すと、笑みを浮かべて退出した。
「ひいおばあ様…」
テレゼ・ヒューゲル。アニスの曾祖母。
彼女もまた優秀な魔導士であり、魔法史や魔法神話、古代魔法などの研究者だった。
アニスは本棚に近付く。何気なく指で本をなぞっていくと直ぐ、今一番知りたいものが見つかった。
『女神の歌声ーミューズ・ボイスー』
背表紙のタイトルに胸が高鳴る。逸る気持ちを抑えながら本を開いた。
アニスの魔法。アニスの声の正体。
本の最初の方は基礎的な『魅了』の術式、術者の体質や耐性、対象者への効果など、アニスも知っている事柄が書かれている。
だが、ミューズ・ボイスへ触れられた一文を目にすると、きゅっと下唇を噛んだ。
『ミューズ・ボイスは、術者が強く願いながら対象者へ命じるだけで精神も支配し操作することが可能である』
ずっと、違和感があった。
好青年のような一面と、不遜で怠惰な一面のあるジュリアンに対して、ただ状況に応じて使い分けているのだと認識していたのだが、あまりにもアニスの『言う通り』の好青年さを演じるのが、どうしても解せなかった。
ジュリアンがアニスを嫌っていたのはよく分かっている。だからこそ、嫌いな自分から言われるがままの言動を取るのはジュリアンの性に合っていない気がしたのだ。
我の強いジュリアンなら「格下相手にへりくだるなど屈辱だ」「お前は外交の何たるかを分かっていない」くらいの反論があってもおかしくないと言うのに、ジュリアンはいつも不機嫌そうな顔で頷くばかりだった。
そして、後からジュリアンに帯同した者たちから話を聞いたり、また自分がジュリアンと挨拶等する際に様子を観察した限り、例えばアニスがさりげなく添えた「グラスは左手に」といった一言さえ彼は忠実に実行していた。
アニスの言う通りにしていれば上手くいくという成功体験が故か、何かあれば全てアニスに擦り付けられる理由付けの為か、どれほど理由を考えてはみても、基本的に自分を見下しているジュリアンがやはり全て忠実に言う通りにしているのは、もはや気味が悪かった。
「(抑圧されて精神的に追い詰められた末、殿下に対して必死に伝えようとした言葉がミューズ・ボイスとなって、殿下を操っていたんだわ)」
まるで信じられないおとぎ話のような真相。だがこれでアニスの違和感は払拭されたのだった。
続




