15.女神の歌声
ヒューゲル伯爵邸は小高い丘の上にある為、ここに来たばかりのアニスは街と伯爵邸の行き来だけで筋肉痛になるほどだった。
王太子の婚約者として厳粛な場に出席することもよくあったので、姿勢を正して立っているだけなら何時間でも耐えることが出来たが、少し傾斜があるだけの道でも片道三十分以上歩くのは大変だった。
だがこの三ヶ月で鍛えられたのか、往復一時間強歩いても肩で息をすることはなくなった。
たったそれだけのことでも、アニスにとっては今までにない成長で、自分を誇らしく思う。
「(歩く体力がつくだけでこんなにも気持ちがいいだなんて。婚約破棄されて本当によかったわ)」
心地いい風がまるでアニスを運んでくれているかのように、足取りが軽い。
アニスは無意識に歌い出す。
自由の身になったとはいえ、貴族令嬢の身分。まだ人前で歌うことには抵抗があり、レギオンやマリッサの前で歌ったことはない。
きっと二人なら気にしない、むしろ喜んでくれるかもしれないが…。
アニスがよく歌うのは、恋焦がれる女性を花に見立てた恋の歌だ。
若葉の時に恋をして、それから美しい大輪の花へと成長する姿を自然が祝福するーーー昔、ランバート家で雇っていた庭師がそれを歌いながら仕事をしていて、幼少期のアニスはすっかり気に入りいつも侍女達に歌って聞かせていた。
「(はしたないと思っていても何だか歌わずにいられないのよね…ミストラルの風が、この歌を歌って欲しいと言っているような気すらしてくる……)」
そこでアニスはハッとした。
これはきっと、気のせいなんかじゃない。
「ーーーおい!そこのあんた!」
歌をやめた途端に、後ろから男性の声がした。
聞き覚えのある声にまさかと振り返ると、自分を追い払ったはずのジークがズンズンと強い足取りでこちらに近付いてくる。
「今の歌は何だ!」
「!!」
何故ここに、とこちらが聞く前にジークはアニスに詰め寄った。
アニスの疑念が、ジークの言葉により確信に変わる。
歌も、ミューズ・ボイスになってしまうのだと。
「あんたの歌が聞こえてきたと思ったら、周辺の木々に宿る魔素が活性化した!そんな魔法、聞いたことがない!」
魔素というのは、森や川、海、土などの自然に宿る、人間で言うところの魔力だ。
高位の魔導士は魔素を吸収し自分の魔力を補填したり、集めた魔素で魔法を錬成することも出来るが、基本的に自然に干渉するのはかなりの高等技術の為、それが出来る人間は限られている。
ーーーまさか、自然を讃えるような歌を歌うだけで活性化するとは。
歌はつい気持ちがこもってしまう為、恐らく普通に言葉を発するよりも簡単にミューズ・ボイスに変換されてしまうのだろう。
次からはちゃんとボイスキャンセル(とマリッサが名付けた)しなければーーとアニスが考えていると、一向に答えがないことに焦れたジークが両肩を掴んできた。
「なぁ、あんた一体」
「私の娘に何をしているのかね、ジーク」
二人して声がした方を振り返ると、笑顔を浮かべているがこめかみに青筋が浮かんでいるかのような表情のレギオンが立っていた。
ジークは、さながら銃を突きつけられ無抵抗を主張するかのように、アニスの肩に置いていた両手をバッ!と頭の高さまで上げ、そのままゆっくり離れていく。
「は、伯爵様……俺ぁ別に、お嬢様をどうこうしようとしてた訳じゃ」
「分かっているよ。ただ嫁入り前の娘に、無意識とはいえ近過ぎると言ってるんだ」
「……すみませんでした」
ギルドでの振る舞いから一転して権力者に萎縮するジークを見て、少しだけ安堵を覚える。
この人も案外、普通の人なのかと。
「さて……二人がどういう知り合いか気になるところではあるが、それよりもアニス」
改まってレギオンがアニスに厳しい視線を向ける。
それは、ミューズ・ボイスの特訓のときに見せた魔導士レギオンの顔だ。アニスはバツが悪くつい視線を逸らしてしまう。
「わかっているようだね」
「いえあの、気付いたのはついさっきというか」
「ジークにも聞かれたようだし、屋敷で話をしようか。二人とも」
「「はい…」」
意図せず二人同時に返事をしたが、それを気にする余裕は互いになかった。
続




