第3話 死を賭して
雪深き高原台地の頂にそびえる、邪神の神殿。
紫煙の立ち込める祭壇の前で、三人の若き勇者たちに追い詰められた邪教の大神官は、自らの血にまみれながら床に膝を突いていた。
邪法と幻術を尽くした神殿の主の身体は無数の太刀傷と呪文の痕に裂かれ、その命の灯火はいままさに消え去ろうとしている。
「お、おのれ、口惜しや……!
神の代弁者たるこの我としたことが、勇者の血を引くだけの小僧どもごときに後れを取るとは……!
だが、我を倒したとて、もはや世界を救えはすまい!
我が破壊の神よ!
今ここに、我自身の生命を生け贄として捧ぐ!
出でよ! そしてこの穢らわしき世界を、根底から滅ぼし尽くすがよい! ぐふっ……!」
大神官が血を吐きながら絶叫し、その身を祭壇の炎の中へ投げ出すと同時、神殿全体が激しく震えた。
天を衝く黒炎、空間を裂く雷鳴。地獄の底から現れたのは、六つの腕と巨大な翼を備えた異形の巨神――破壊神であった。
血を凍らせるほどの絶対的な神威を前に、勇者の血を引く三人の若者は、青ざめながら武器を握り直す。
いざ、世界の命運を懸けた最終決戦――誰もがそう覚悟したその刹那。
「……いや、その理屈はおかしい」
神殿の瓦礫を震わせたのは、あまりにも平坦で、事務的で、理知的で、しかし天地を圧するがごとき重低音であった。
「……ぐふっ? え……?」
祭壇の煤にまみれて息絶えかけていた大神官が、血走った眼をかろうじて見開いた。
三人の勇者たちも構えた剣や杖をそのままに、ぎこちない動きで神を見上げた。
破壊神は、六本ある腕のうち二本で異空間より超巨大なる竹簡を繰り広げると、足元に這いつくばる瀕死の大神官を、路傍の塵芥を見下ろすがごとき眼差しで一瞥した。
「身の程を知らぬ蛆虫めが。天地の理を解せぬ汝ら矮小なる人間には、同じ人間風情の遺した拙劣なる語彙で噛み砕いて聞かせねば、己の冒涜すら理解できぬであろう。
二度と塵芥どもが神域を穢さぬよう、朕自ら、汝の蒙昧なる過ちを断罪してやろう。
まず汝は、己の卑小なる一命を生け贄に神を使役し得ると妄想したな。人間どもの記した『礼記』曲礼下篇には何と刻まれておるか。
『非其所祭而祭之、名曰淫祀。淫祀無福(その祭る所に非ずしてこれを祭る、名づけて淫祀と曰ふ。淫祀には福無し)』――祀るべき資格も正当なる儀礼も欠いた者が、勝手なる我欲を以て捧げ物をする行為を『淫祀』と断じ、神の加護など露ほども降らぬと汝ら自身が戒めておるではないか。
朕の意志を問うこともなく、一方的に命ひとつを投げ捨てて世界破壊の大業を命じるなど、不敬極まる淫祀の極致。汝ごとき一介の狂信者の死骸ひとつで、なぜ破壊を統べる朕が天変地異の苦役を引き受けねばならぬのだ」
「な……っ!? だ、だが我は、自らの命という至高の供物を……!」
「至高の供物だと? 片腹痛いわ。
同じく『礼記』祭統篇を刮目して見よ。
『賢者之祭也、必受其福。非寧程之謂也、其福備也(賢者の祭るや、必ず其の福を受く。寧程の謂ひに非ざるなり、其の福備はるなり)』――神明の恩寵を賜る供物とは、瑕疵ひとつなき完全無欠の清浄を具備してこそ成立するものぞ。
しかるに汝の現状を見よ。三人の若輩に叩きのめされ、五臓六腑は潰乱し、捨て置けども瞬刻の後に絶命する手遅れの死に損ないではないか。価値の悉く損なわれ、ただ腐壊を待つのみの廃物を押し付けておきながら、『至高の生け贄』などと過大申告に及ぶとは、神に対する明白なる約定違反、不届き極まる詐術の類である」
「ご、ごふっ……!? き、貴様は我が奉じる破壊の神ではないのか……!?」
「奉じる神なれば下劣なる私怨の尻拭いを引き受けるとでも錯覚したか?
人間どもが賢者と崇める荀況の『荀子』天論篇を想起せよ。
『天行有常、不為尭存、不為桀亡(天行は常有り、尭の為に存せず、桀の為に亡びず)』――天地自然の運行には厳然たる不易の理があり、人間の名君の都合で存することもなければ、暴君の都合で乱れることもない!
大いなる摂理たる『破壊』とは、万象の循環を促す峻烈なる新陳代謝である。汝が私闘に敗れ果てた無念を晴らすなどという、矮小極まる私憤のために、なぜ宇宙の運行が歪められねばならぬのか。致命の傷を負いて後の突発的な召喚など、不当なる『深夜の緊急業務押し付け』にすぎん。朕は住まいの水漏れを修繕せんと二十四時間いつでも馳せ参じる便利屋ではないぞ」
「(……おい)」
神殿の隅で、緑の服を着た器用貧乏王子が、青い服の脳筋王子の袖を小声で引いた。
「(なんか……破壊神が、無理な特急仕様で叩き起こされた下請けの責任者みたいな顔で、発注元を詰めてないか……?)」
「(しっ、黙ってなさい! 巻き込まれたらどうするのよ……!)」
魔女っ子王女が青ざめながら小声で窘める。
祭壇の前には、ただただ冷え切った空気が流れていた。
破壊神は巨大な竹簡を巻き取ると、吐き捨てるように告げた。
「法と礼の初歩すら解さぬ蒙昧の輩に、これ以上垂れる言の葉など天地に一片もなし」
「…………」
返答はない。
大神官は自らの崇める神の容赦なき正論に精神を砕かれ、最初の致命傷も手伝って、完全に事切れていた。
「……ぬ、息絶えたか。理の鉄槌にすら耐え得ぬとは、つくづく手間を取らせる脆弱なる羽虫めが」
破壊神は鼻を鳴らし、六つの腕のやり場に困ったように所在なさげに身じろぎすると、視線をゆっくりと三人の勇者たちへと巡らせた。
「……斯様な仕儀である。此度の召喚約定は、願出人の重大なる過失、ならびに儀礼手続の瑕疵により、根源より無効たるものと断ずる」
「……は、はあ」
脳筋王子が、稲妻を象った剣を構えたまま引きつった返事をする。
「朕も虚妄の呼び出しに煩わされ、甚だ不興である。これにて悠久の神域へ還御するゆえ、汝ら若輩も、祭壇の消火と神殿の戸締まりを厳に検分した上、速やかに下山に及ぶがよい」
「「「戦わないのかよッッ!!!!」」」
三人の勇者の絶叫が木霊する中、破壊の神は律儀に次元の裂け目へと戻り、神殿にはただ、平和と静寂だけが虚しく取り残されたのであった。




