第2話 龍王
深い闇の帳に包まれた龍王の城、最深部。
玉座に鎮座する龍王は、長き旅路の果てに単身乗り込んできた若き勇者を見下ろし、穏やかな声で言った。
「よくぞここまで来た、勇者よ。余こそが、王の中の王、龍王だ。
そなたの武勇、まことに天晴れである。
どうだ勇者よ。もし余の味方になれば、世界の半分をそなたにやろう。
そなたと余で、平和な世界を共に分かち合おうではないか」
世界を恐怖と混乱に陥れた龍王による、甘美なる懐柔の囁き。
しかし、勇者は一片も迷うことなく剣を抜き放ち、凛とした声で一喝した。
「断る! 力で奪い、恐怖で支配する貴様の誘いなど受けるものか! 平和とは悪と分け合うものではなく、正義の手によって悪を打ち倒して勝ち取るものだ! いざ勝負!」
ひたむきに真っ直ぐな王道の啖呵。
だが、龍王は怒るどころか、静かにため息をついて玉座の肘掛けを叩いた。
「……いや、その理屈はおかしい」
「……え?」
予想だにしなかった龍王の言葉に、勇者の構えた聖剣の切っ先が、わずかに揺らいだ。
龍王は玉座の脇から分厚い竹簡の束を引っ張り出すと、机の上にドンと置いた。
「そなたの心得違い、余が正してやろう。
まず第一に、『余を一方的な悪と断じ、自らを絶対正義と信じる』その幼稚な二元論だ。
『荘子』斉物論において、賢者は何と説いたか!
『彼亦一是非、此亦一是非(彼もまた一の是非にして、此れもまた一の是非なり)』――立場が変われば、己の是とするものが相手の非となり、相手の是が己の非となる! 人間と魔族、双方が生き残りを懸けて衝突した歴史の帰結を、なぜ人間側からの一方的な主観で『善と悪の審判』にすり替えるのか! 事の本質は利害と生存の相克にすぎず、天の理においてどちらか一方のみを絶対悪と断ずる根拠などどこにもない!」
「な、なに……っ!? だ、だが貴様は侵略者で――」
「そして第二に、『武力をもって事を決することこそが平和をもたらす』という粗野な狂信だ。
仮に過去の衝突がいかなるものであろうと、いま、目の前に流血なき講和の道が開かれているならば、それを選び取ることこそが真の仁者の責務であろう!
兵法の大成者・孫武は『孫子』謀攻篇において何と説いたか!
『不戦而屈人之兵、善之善者也(戦はずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり)』――戦わずして敵を屈服・和解させることこそが至上の勝ち筋であると!
さらに『論語』憲問篇において、孔子は斉の管仲を何と称えたか!
『九合諸侯、不以兵車、管仲之力也。如其仁、如其仁(諸侯を一統するに、兵車を以てせざるは、管仲の力なり。其の仁の如くならんや、其の仁の如くならんや)』――武力を用いず会盟によって天下を安んじた大政治家をこそ、孔子は『真の大仁者』と絶賛されたのだ!
戦わずして和を得る好機を自ら投げ捨て、己の復讐心と独善のためにさらなる殺戮を望むそなたの態度は、平和の希求ではない。兵法にも仁道にも悖るただの野蛮な破壊欲求ではないか!」
「え……っ!? だ、だが、奪われた民の怨嗟はどうなる……!」
「第三に、そなたの奉じる王家の統治が、真に仁義に基づいていると言い切れるのか?
『孟子』梁恵王上篇にはこうある!
『為民父母、行政不免於率獣而食人、悪在其為民父母也(民の父母と為りて、政を行ふに獣を率いて人を食ましむるを免れざれば、悪くんぞ其の民の父母たるに在らんや)』――民の父母たる君主が、民を死地に追いやるならば、それは獣をけしかけて人間を食わせているのと同じであると孟子は厳しく指弾された!
省みてみよ、勇者よ。かの王はそなたを送り出す際、いかなる備えを授けてくれたか? ……鍵と松明、そしてわずかな小銭百二十文! あろうことか、その鍵すら玉座の間を出るための扉で即座に費消させ、兵站も整えぬまま丸腰の若者を危険地帯へ放り出し、私掠を以て軍資金を調達せよとそなたに厳しい旅路を強いた! これこそ、孟子の断じた民を死地に追いやる君主そのものではないか!
さらに伝え聞くところによれば、余を討ち倒した暁の恩賞については全く触れず、事実上無報酬で責任をそなたに丸投げするなど、絵に描いたような搾取と遺棄の極み! 破綻寸前の王国の後始末を押し付ける王家と、いま、そなたの武勇を正当に評価し、対等な同盟者として『世界の半分』を譲渡せんとする余――為政者として、どちらが真に礼を尽くしているか、火を見るより明らかであろう!」
「ぐ……ぐぬっ……!」
勇者の脳裏に、魔物を叩いて一文二文と小銭を稼いだ日々や、宿代や薬草代が足りず城の無料回復所まで這い戻った屈辱の記憶が鮮やかに蘇る。
すべてが「王家の搾取」という学術的定義によって、あまりにも綺麗に説明されてしまったのだ。
「客観的に見よ、勇者よ。そなたが余を討てば、すぐさま流血の戦乱が終結すると思うのか。余という要を失った余の配下達は、またたく間に各地で軍閥と化し、無辜の民を虐げ続けるだろう。そなたはそれを何年かけて平定していくつもりか? だが今、余の手を取れば、今日からそなたは世界の半分の主として、この大地に真の理想郷を築くことができるのだ。どうだ、いま一度問おう。余の味方となり、世界の半分を統治せぬか?」
圧倒的な論理の前に、勇者の戦意は完全に粉砕されていた。
剣を下ろし、肩の力を抜いた勇者は、小さく頷いた。
「……はい」
「うむ! よくぞ決断した! では、そなたには世界の半分、『闇の世界』を預けよう!」
「……は? ちょ、ちょっと待て!!」
勇者はカッと目を見開き、再び聖剣を握り直した。
「闇の世界だと!? 魔物が跋扈する荒れ果てた死の大地じゃないか! 世界の半分をくれると言ったのに、不良債権の押し付けじゃないか! やっぱり騙したな!!」
勇者の怒声に対し、龍王は侮蔑すら交えた冷徹な眼差しで、静かに首を横に振った。
「……愚かな。そなたは陰陽の玄妙なる理すら弁えておらぬのか!
『周易』泰卦、ならびに道家の至高の哲理を見よ!
『重陰必陽、陰中有陽(重陰は必ず陽となり、陰中に陽有り)』――物事は極点に達すれば必ず反転する。すなわち、真に強靱なる『陽』の萌芽とは、漆黒の『陰』の奥底にこそ宿るものだ!
目を向けよ、かの王家の統治する光の世界とやらを! あれは安逸と平穏に溺れきり、制度は硬直化し、若き勇者を松明一本で死地に向かわせるまでに腐敗した『陽の抜け殻』にすぎぬ! すでに爛熟しきって腐りゆく地に、いかなる未来の種が蒔けようか!
冬の厳寒の土底にあってこそ、春の万物を芽吹かせる命の火が育まれるように、この混沌たる闇の世界こそが、次の千年の秩序を孕む大いなる母胎なのだ!
余がそなたに闇の世界を預けようと言うのは、追放などではない! そなたという稀代の徳と武を備えた至高の光――すなわち『陰中の陽』たる一粒の神聖なる種子を、この広大なる闇の胎内へと迎え入れんとする宇宙的調和の試みである!
この深遠なる再生の理を解さず、『荒れ地を押し付けられた』などと卑屈に拗ねるとは、己の器の小ささを自白しているようなものではないか!」
「えっ……あ……え?」
太極図の黒い勾玉の中にある、白い点。
暗闇を照らす奇跡の一点。
宇宙的調和。
新時代の母胎。
「お、俺が……宇宙の再生を担う、神聖な種子……?」
「然り。そなたこそが、闇の世界に光をもたらす至高の『陰中の陽』なのだ」
「あ、あれ……? じゃあ……俺が文句を言ったのは、器が小さかった……?」
勇者は狐につままれたような顔で、聖剣をだらりと下げた。
頭の中で「なんかめちゃくちゃ褒められた気もするし、とんでもなく崇高な使命を与えられた気もするけど、要するに不毛の荒野へ左遷されただけなのでは……?」という疑問が浮かんでは消え、思考が完全にショートしていく。
龍王は満足げに頷くと、静かに右手をかざした。
「さあ、行け。陰中の陽たる若き君子よ。そなたのもたらす黎明を、余は彼方より見守っておるぞ。
そなたの旅は終わった。新たな『陽』が目覚めるまで、ゆっくりと休むがよい!」
足元から禍々しい、いや、どこか神聖にすら思える紫黒の霧が立ち上り、勇者の視界を覆い尽くしていく。
「あ、あの……! やっぱりちょっと考え直したいというか……! これ本当に名誉ある大役なんですよね……!?」
勇者の情けない叫びも虚しく、大殿の明かりが急速に遠ざかり、世界は完全なる暗黒へと沈んでいった。




