第1話 勇者の挑戦
闇の世界。大魔王の支配する荘厳な城の最奥。
そこには紫黒の冷気が渦巻き、世界の命運を懸けた決戦の火蓋がいままさに落とされようとしていた。
光と闇、武と覇。長き戦いの旅の末、幾重もの死線を越えてついに大魔王のもとへ辿り着いた勇者一行。
玉座からゆっくりと立ち上がった大魔王は、氷のように冷たい眼差しで彼らを見下ろし、禍々しい闇の言霊を空間に響かせた。
「勇者よ! 何ゆえに 人はもがき 生を貪るのか
万物が潰えゆく『滅び』こそ 余の無上の悦楽
散り急ぎ 息絶えゆく生命こそが 至上の美よ
さあ 余の腕の中で 我が美学の糧となり 果てるがよい!」
大殿を揺るがす絶対強者の宣言。
張り詰めた空気の中、魔法使いは即座に両手を掲げて極大呪文の詠唱に入り、戦士は唸りを上げて大剣を上段に構えた。
いざ決戦――誰もがそう確信し、緊迫感が極限に達したその刹那。
「いや、その理屈はおかしい」
氷水をぶっかけたような、あまりにも平坦で冷静な声が響いた。
「……ぬ?」
大魔王の眉がピクリと動く。
呪文を唱えかけていた魔法使いが「ふごっ」と息を詰まらせ、戦士も構えた大剣をそのままに、ぎこちない動きで首を横へ巡らせた。
声の主は、聖剣の切っ先を地面に向けたまま、仏頂面で腕を組んでいる勇者であった。
「……何が『おかしい』だと? 恐怖のあまり乱心したか、勇者よ」
「乱心しているのは貴様の論理構造だ」
勇者は腰の革袋から無造作に一巻の竹簡を取り出し、パンと手のひらで叩いた。
「まず第一に、『滅びこそが我が喜び』という主張。これは明白な自己矛盾だ。
古代の賢者・列禦寇の著書『列子』楊朱篇にはこうある。
『生相憐、死相捐(生は相ひ憐れみ、死は相ひ捐つ)』――すなわち、喜びや快楽を享受できるのは『生きて意識がある主体』のみであり、死んだ者は何も感じず、捨て去られるだけであると。
貴様が万物の滅びを『喜ぶ』ためには、滅びを認識するための『貴様自身の生命』が存続していなければ成立しない。真に滅びを至上の価値とするならば、なぜ貴様はのうのうと生き延び、玉座に座って他者の滅びを鑑賞している? 自らの生という特権を棚上げにした『滅び礼賛』など、ただの我が儘な自己保存欲の言い換えにすぎん」
「な……っ!? 余は、その、絶対者として……!」
「第二に、『死にゆく者こそ美しい』という審美眼の押し付けだ。
『論語』子罕篇において、孔子は川のほとりで何と嘆息されたか!
『逝者如斯夫、不舎昼夜(逝く者は斯の如きか、昼夜を舎かず)』!
すなわち、過ぎ去り失われていく命や時間を前にして、先哲は『美』ではなく『悲痛なる無常』を覚えたのだ! 美醜とは個人の主観的感情にすぎず、他者を殺戮する客観的な根拠、つまり大義名分には成り得ない。貴様の言っていることは要するに、『俺の好みの風景を見たいからお前ら死ね』という極めて幼稚なエゴイズムだ。『論語』述而篇の言う『子不語怪力乱神(子は怪力乱神を語らず)』――主観的な妄言で天下の理を語るな」
「え、あ……いや、だが、散り際の儚さというか、そういう情緒がだな……」
大魔王の威厳に満ちていたはずの声が、誰の耳にも分かるほど上ずった。
両手を広げていたポーズのやり場に困り、指先が微かに泳いでいる。
「情緒だと? 統治や生存の根幹を問うている場において、客観的論拠も示せず情緒に逃げるか。
では聞くが、貴様の言う『美』の定義を、法家、儒家、あるいは道家のいずれかの観点から論理的に再定義できるか? 反論があるなら承ろう」
「う……ぐ……」
大魔王は絶句した。
何万年と生き、圧倒的な魔力だけで世界を蹂躙してきた彼にとって、「ディベートで詰められる」など生まれて初めての経験であった。
額からタラリと冷や汗が伝い落ちる。
「(おい……)」
背後で、戦士が小声で魔法使いに耳打ちした。
「(なんか、大魔王が学会発表で教授にボコボコにされてる大学院生みたいになってねえか……?)」
「(しっ、静かにしなさい! 呪文のタイミング完全に失ったんだから……!)」
静まり返る大殿。
沈黙に耐えかねた大魔王の顔が、屈辱で真っ赤に染まった。
大魔王としてのプライドが、論理の完全崩壊によって粉々に砕け散ったのだ。
「ええい……! だまれ、だまれェッ! 小賢しい口を利くなッ!
理屈など知るか! 貴様らなど、我が圧倒的な魔力で灰燼に帰してくれるわァッ!!」
完全に逆ギレした大魔王が、なりふり構わず両腕を振り上げ、両の掌に莫大な魔力を集中させる。
その無様な姿を見届けた勇者は、竹簡を革袋へとしまい、聖剣の柄を握り直した。
そして、仲間に向かって満足げにニヤリと笑ってみせた。
「見ろ。つまり『論』においては、俺の完全勝利というわけだ」
勇者は身を低く沈め、猛然と地を蹴った。
「言論で敗北した負け犬め! あとは肉体言語で引導を渡してやるッ!!」




