第九十六話 誰になっても、私はルークの恋人でした
「ルーク。今夜、一緒にいてくれ」
「……何かあった?」
「分からん。朝から、自分が何なのか分からなくなる」
「セリナだよ」
「分かってる。分かってるんだが……」
夕食の途中、セリナは自分の手を見ながらそう言った。その時、外で犬が吠えた。セリナの肩が跳ねる。
「ワンッ!」
「……」
「……言うな」
「今、吠えたよね?」
「言うな!」
顔を真っ赤にした直後、今度は鼻を動かして窓の方を向く。
「雄がいる」
「え?」
「……違う。犬だ。雄犬がいる」
「匂いで?」
「分かる」
「セリナにそんな嗅覚なかったよ」
「知ってる!」
「ヴゥ……」
「今度は唸った」
「ルーク!」
セリナ自身が一番困っていた。森を走りたい。土へ身体を擦りつけたい。雄を探せと身体が言う。それなのに同時に、男ならどんな声に弱いか、どこまで近づけば意識するか、いつ触れれば喜ぶか、どう笑えば帰りたくなくなるかまで分かるという。
「……娼婦?」
「多分な」
消えた女たちの中には、そういう仕事をしていた人間もいたのかもしれない。そして動物も、もうセリナの中にいる。日記の理屈なら「中にいる」すら違う。全部、今ではセリナ自身なのだ。
*
夜、セリナは俺へ抱きついた。
「ルーク。名前を呼んでくれ」
「セリナ」
「もう一回」
「セリナ」
「もっと」
「セリナ」
名前を呼ぶたびに、乱れていた呼吸が少しずつ落ち着いた。
「……これだ」
「何が?」
「お前に名前を呼ばれると、自分が一つになる」
その夜、俺たちはいつものように二人で過ごした。ただ、いつものセリナではなかった。距離の詰め方、触れる間、俺の反応を見る目、声の使い方、笑い方。どれも妙に慣れている。俺が少し息を変えるだけで、それを読んで次の動きを変える。
「男はこういうのが好きなんだろ?」
「どこで覚えたの?」
「知らん。でも身体が覚えてる」
知らない女みたいに笑う。娼婦だった誰かが何年もかけて身につけた、相手の機嫌を読み、欲しい言葉を見抜き、反応を先回りする経験。それをセリナは自分のものとして使っていた。
「楽しい?」
「ああ」
「知らない誰かの技術なのに?」
「私ができるなら私の技術だろ。それに、お前が喜ぶなら悪くない」
そこは間違いなくセリナだった。
けれど、その安定も長くは続かなかった。俺の首元へ顔を寄せ、何度も匂いを嗅ぎ、低く喉を鳴らす。
「ヴゥ……」
「セリナ?」
「気にするな」
「無理だよ」
「ルーク」
「うん」
「雄」
「……」
「違う!」
セリナ自身が叫んだ。
「今のは私じゃない!」
「でもセリナが言った」
「分かってる! 雄が欲しい。強い雄の近くにいろ。離れるな。匂いを覚えろ。そういうのが頭の中にある!」
「動物の?」
「多分そうだ!」
「ワンッ!」
自分で吠えて固まった。
「……最悪だ」
「ちょっと可愛いけど」
「噛むぞ」
「それも動物っぽい!」
「うるさい!」
俺に掴みかかったまま、セリナの動きが止まった。
「……ルーク」
「何?」
「私、今は何だ?」
その顔は本当に分からなくなっていた。娼婦。犬。戦士。冒険者。知らない母親。知らない町の女。何匹もの動物。もっとたくさんのもの。全部が、自分の中から自分の考えとして湧いてくる。
「俺を見て。俺は誰?」
「ルーク」
「セリナは?」
「……セリナ」
「俺との関係は?」
「恋人」
「もう一回」
「私はルークの恋人だ」
そこだけは早かった。セリナの肩から力が抜ける。
「……これだけは揺れない」
「戦士は?」
「揺れる」
「人間は?」
「かなり怪しい」
「女は?」
「それも怪しい」
「じゃあセリナは?」
「それを今、確かめてる。でも、お前の恋人だということだけは、誰が混ざっても消えない」
それからもセリナは何度か変わった。知らない女の口調になる。俺を客みたいに扱いかける。急に鼻を鳴らす。匂いを追う。低く唸る。「雄」と呼ぶ。そのたびに俺が名前を呼ぶと、セリナは少しずつ中心へ戻った。犬だったものも、娼婦だった女も、村娘だった女も、知らない誰かの母親だった人も消えない。ただ、中心だけが戻る。
「ルーク」
「何?」
「もう一回」
「セリナ」
「もう一回」
「セリナ」
セリナは笑った。
「それでいい」
*
翌朝、セリナは何事もなかったように俺の隣でパンを食べていた。
「肉ないのか?」
「朝から?」
「食いたい」
「昨日も食べたよ」
「……そうか」
外で犬が吠える。
「ワンッ!」
「セリナ!」
「今のは犬だ!」
「セリナも言ったよ!」
「言ってない!」
「同時だった!」
「知らん!」
怒りながらパンを食べ、それから何でもない顔で言った。
「今夜も一緒にいろ」
「また? 自己確認?」
「それもある。普通にお前と一緒にいたい」
「娼婦だった誰かのやり方も?」
「まだ色々分かる」
「そこ楽しんでるよね?」
「使えるものを使って何が悪い」
「犬の方は?」
「知らん」
「雄を求めるのは?」
セリナは少し黙った。
「お前がいるなら探しに行かなくて済む」
「俺、雄扱いなんだ」
「恋人だ!」
即答だった。そこだけは本当に迷わない。
*
日記帳を開く。質問はしない。しても意味がない。ページには物語についての文章だけが現れた。
『自己認識収斂型の継続運用について。多数の人物、生物、技能、記憶、本能を一個体へ統合した場合、元人格の識別性は低下します。対策として、代替不能な固有関係を自己定義の中心へ配置する構成が有効です。』
『「女」は代替可能。「人間」は代替可能。「戦士」は代替可能。「冒険者」は代替可能。「生存者」は代替可能。「雌」は代替可能。「ルークの恋人」は現在一名。』
手が止まった。
『固有関係を中心に保持することで、周辺自己定義を変動させたまま人格を維持できます。結果、吸収対象の種類を人間に限定する必要がなくなります。』
安定したんじゃない。もっと吸収できるようになっただけだ。
『娼婦由来の対人技能。動物由来の感覚および本能。戦士由来の戦闘技能。母親由来の家族記憶。地域住民由来の生活知識。以上を同一人物の異なる側面として併存可能。人格中心――維持。拡張性――極めて高。』
『セリナ編――完了。』
*
「ルーク。こっち来い」
「何で?」
「分からん。多分、動物の方だ」
隣へ座ると、セリナは俺の肩へ頭を乗せ、鼻を鳴らした。
「……匂い」
「俺の?」
「ああ。落ち着く」
「セリナ」
「何だ?」
「今、自分が誰か分かる?」
セリナは少し考えた。
「お前の恋人」
「名前は?」
「セリナ」
外で犬が吠えた。
「ワンッ!」
「ほら!」
「今のは仕方ないだろ!」
「何が仕方ないの!?」
俺の知っているセリナ。知らない女たち。知らない動物。知らない人生。知らない本能。全部が一つの身体に入っている。どこまで増えるのか、もう分からない。
それでも。
「セリナ」
俺が名前を呼ぶと。
「何だ?」
ちゃんと振り向く。
今は。
それだけで。
まだセリナだった。




