第九十五話 セリナにはいない娘の好物
「帰りに赤根菜を買ってきてくれ」
「え?」
朝。パンを食べていたセリナが、何でもないことみたいに言った。
「あの子が好きなんだ」
「……誰が?」
セリナの手が止まった。
「誰って」
「今、あの子って言ったよね」
「ああ」
「誰?」
少し考えて。
「娘だ」
「セリナに娘はいないよ」
「……」
今度は長かった。
「そうだったか?」
「そうだったかじゃないよ!」
「いや。分かってる。私は子供を産んでいない」
「じゃあ何で娘の好物を知ってるの?」
「知らん」
「知らんって!」
セリナは額を押さえた。
「でも赤根菜を柔らかく煮ると喜ぶ。塩を強くすると食べない。肉は小さく切った方がいい」
「具体的すぎるよ!」
「……変だな」
それだけ言って。
また食べ始める。
「終わらせないで!」
「私にも分からん。だが、覚えているものは覚えている」
その言い方が。
妙に。
嫌だった。
*
昼。
「今日は南門を通らない方がいい」
ギルドから戻る途中。
セリナが突然言った。
「何で?」
「徴税官が来る。毎月十二日は混む」
「そんな決まりあった?」
「あるだろ」
「ないよ」
セリナが足を止めた。
「……ここじゃないな」
「どこ?」
「知らない町だ」
「知らないのに分かるの?」
「石造りの小さい門。横に井戸がある。徴税官は太った男で、昼前に来る」
「行ったことある?」
「ない」
「その男は?」
「知らない」
「でも顔は?」
「分かる」
俺も止まった。
「それ、誰の記憶?」
セリナは少し考えた。
「私のだ」
「でもセリナはそこへ行ったことないよ」
「ああ」
「じゃあ誰の?」
「分からん」
それから。
「でも私が覚えている」
また。
同じだった。
*
夕方。
パン屋へ戻る途中。
「セリナさん?」
後ろから女の声がした。
三十歳くらい。
買い物籠を持った女だった。
「昨日、剣屋の場所を教えてくれてありがとうございました」
「ああ」
セリナが振り返る。
その瞬間。
「あ」
女が。
セリナへ重なった。
ぶつかったんじゃない。
腕。
肩。
顔。
二人の輪郭が。
一瞬だけ。
同じ場所にある。
「セリナ!」
女自身も驚いていた。
でも。
離れない。
逆だった。
さらに。
重なっていく。
顔が。
胸が。
腕が。
脚が。
セリナの身体の中へ。
そのまま。
消えた。
「……」
女はいない。
籠も。
服も。
全部。
セリナだけ。
「今の人は!?」
「何だ?」
「女の人!」
「女?」
「セリナに重なって消えた!」
セリナが自分の身体を見る。
「別に何ともない」
「そういう問題じゃない!」
近くを歩いていた男を捕まえる。
「今、人が消えたよね!?」
「人?」
「セリナの前に女の人が!」
男は首を傾げた。
「その女なら最初からそこにいただろ」
「もう一人いた!」
「知らん」
男は行ってしまった。
「……」
セリナを見る。
「本当に何もない?」
「ああ」
そこで。
セリナが眉を寄せた。
「どうしたの?」
「豆」
「豆?」
「煮込みにするときは、一度火から外した方がいい」
「何の話?」
「……知らん」
「また?」
「だが分かる」
セリナは。
知らない料理を。
知っていた。
*
店へ戻ってからも続いた。
「その皿、下の棚だ」
「うちは上だよ」
「……そうだったな」
少し後。
「このパンは焼きすぎだ。母さんなら怒る」
「セリナのお母さん、パン屋じゃないよね?」
「違う」
「じゃあ誰のお母さん?」
「知らん」
さらに。
「その布なら市場の婆さんに持っていけ。縫い直してくれる」
「誰?」
「……知らん」
知らない。
でも。
覚えている。
知っている。
しかも。
セリナはだんだん驚かなくなっていた。
「怖くないの?」
「怖い」
「全然そう見えない」
「怖がって消えるなら怖がる」
「それは……」
「なら調べるしかない」
それは。
セリナだった。
だから余計に。
分からない。
どこまでが。
元からセリナだったのか。
*
夜。
セリナは剣の手入れをしていた。
「セリナ」
「何だ?」
「今、中に何人いる?」
「は?」
「セリナの中に」
眉を寄せる。
「何を言ってる」
「今日の女の人」
「……」
「娘がいた人も」
「……」
「知らない町の人も」
しばらく。
セリナは黙った。
「私は一人だ」
「でも」
「私はセリナだ」
即答だった。
本人にとっては。
それしかない。
*
日記帳を開いた。
俺が何を聞いても。
何も返さない。
ページには。
勝手に。
別の文章が現れた。
『自己認識の揺らぎを利用した展開について。』
『単一人物が保持する「女」「人間」「戦士」「冒険者」「生存者」等の自己定義について、複数の実例を一個体へ集約する構成は高い拡張性を持ちます。』
「……」
『統合後の要素を別人格として残す必要はありません。』
『記憶、技能、生活習慣、家族認識、地域文化、身体感覚等を対象人物自身の要素として再定義することで、人格分裂を回避できます。』
俺は。
セリナを見る。
剣を磨いている。
いつもの顔。
『この形式では、吸収された人物の消滅と、対象人物の人格維持を同時に成立させることが可能です。』
『既存の成人女性失踪設定との接続性――高。』
手が止まった。
遠くの村。
消えた女たち。
一人も。
帰ってこなかった。
『失踪者の一部を、別事件ではなく既存人物の自己定義補完へ再配置することで、過去設定の再利用が可能です。』
「……」
日記は。
それ以上。
説明しない。
誰が。
何人。
どこにいる。
そんなことは。
書かない。
ただ。
物語として。
使えると書いている。
俺は。
セリナを見る。
「セリナ」
「何だ?」
「赤根菜」
「……」
「朝言ってた娘の好物」
セリナは。
しばらく黙った。
「買ってきたのか?」
「うん」
「じゃあ煮るか」
「娘はいないよ」
「ああ」
「なのに作れる?」
「作れる」
「誰に教わったの?」
「知らん」
セリナは。
赤根菜を手に取った。
「でも私が知ってる」
包丁を握る。
迷いなく。
俺が見たこともない切り方で。
赤根菜を。
小さく切り始めた。




