外伝 パン作り
「女将、声!」
「アンタだって大声出してるだろ!」
まったく。若いくせに妙なところばかり気にする男だ。
店を閉めたあとの二階。寝台がぎしぎしと鳴り、敷布が何度も擦れる。私はあいつにしがみついたまま、また身体を大きく震わせた。
「はぁっ……あ……っ!」
「女将……!」
「そこに……いるね?」
「いるよ!」
「なら……いい……!」
声なんて抑えられない。
息を吸おうとしても、すぐに途切れる。
「はっ……はぁ……っ、ああっ……!」
「本当に声大きいって!」
「うるさいね……っ、アンタの声だって聞こえてるよ!」
私はこの男が好きだ。
飯を食わせたい。
ちゃんと眠らせたい。
怪我をしたら心配するし、帰りが遅ければ腹も立つ。
こうして抱き合っている時だって同じだ。
あいつがいる。
私がいる。
それが分かればいい。
「女将……!」
「何だい……っ!」
「いや、呼んだだけ!」
「だったらもっと呼びな!」
また寝台が鳴る。
布が擦れる。
互いの荒い呼吸が近すぎて、どっちのものか分からなくなってくる。
「あ……っ、はぁっ……!」
私は何度も身体を震わせた。
何回だったかなんて数えていない。
あいつの方だって途中から私の名前を何度も叫んでいた。
ようやく静かになった頃には、二人ともまともに喋れなかった。
「……はぁ……」
「女将、大丈夫?」
「誰に聞いてるんだい……」
「だって」
「これくらい……平気だよ」
そう言ったものの、立ち上がった瞬間には脚が少しふらついた。
「ほら!」
「うるさいね」
「休んだ方が」
「その前に後片付けだよ」
私は部屋の隅から、いつもの浅いトレイを持ってくる。
「それ、今日も使うの?」
「ああ」
「女将のパン?」
「そうだよ」
今夜、私たちの間に残った痕跡。
捨てるつもりはない。
あいつと私のものだからだ。
「みんなの分には?」
「使わないよ」
「そこは本当に分けるんだね」
「当たり前だろ」
私は息を整えながら言った。
「これはアンタと私のだ」
「……うん」
「私の分はアンタと私の混ぜ物さ」
「やっぱりその言い方するんだ」
「分かりやすいじゃないか」
私はそれが好きだった。
自分が食べるものの中に。
私だけじゃなく。
あいつもいる。
それでいい。
「じゃあ、みんなの分は?」
「そっちは別だよ」
私はもう一つの蓋付き容器を見せる。
「これは私だけ」
「女将自身の?」
「ああ」
家の連中へ渡すパンに使うのは、私自身の体液だけ。
あいつと私のものは混ぜない。
「いつ用意してるの?」
「時間がある時」
「一人で?」
「そうだよ」
「……そこまでして?」
「私の印なんだから当然だろ」
別の日。
私は寝台の端へ座り、小さな容器を手元へ置いた。
これは家族用。
あいつとのものじゃない。
私だけのものを取っておく。
少し時間がかかる。
呼吸も乱れる。
「はぁ……っ」
「女将」
「話しかけるんじゃないよ」
「だってまた声出てる」
「アンタがそこで聞いてるからだろ!」
「俺のせい!?」
「気が散るんだよ!」
しばらくして。
私は大きく息を吐いた。
「……よし」
「その『よし』が怖い」
「何だい」
「完全に材料を用意した職人の顔してる」
「材料なんだから当然だろ」
私は容器の蓋を閉めた。
「家の連中には私だけ」
「うん」
「アンタにも私」
「うん」
「私の分だけアンタと私」
「そこだけ二人分」
「そういうことさ」
私には、それが一番自然だった。
翌朝。
まず客用。
粉。
水。
塩。
酵母。
予約注文。
家族用を頼まれている客なら、旦那には固く、娘には甘め。
名前札も付ける。
全部。
普通の商品だ。
当たり前だろう。
客へ妙なものを食わせるつもりなんてない。
売り物を全部焼く。
棚へ並べる。
器具を洗う。
作業台を拭く。
手も洗う。
それが全部終わってから。
身内用。
「また器具全部替えるの?」
「客用と混ぜたら困るだろ」
「そこだけものすごく厳密なんだよな」
「そこだけって何だい」
小さなボウル。
木べら。
布。
天板。
全部こっち専用。
生地を人数分へ分ける。
家の連中。
それからあいつ。
私は昨日取っておいた、自分自身の体液を少量ずつ加える。
「……本当に入れるんだ」
「何回目だい、その台詞」
「見るたびに言いたくなる」
「嫌ならアンタの分だけやめるよ」
「嫌とは言ってない」
「じゃあ問題ない」
「その結論が早い!」
私は笑った。
最後。
私自身の分。
こっちは別。
昨夜。
あいつと私の間に残したもの。
「女将用?」
「ああ」
「中身は?」
「アンタと私の混ぜ物」
「もう迷いなく言うね」
「事実だろ」
私は自分の生地へ二人の痕跡を加えた。
それで終わり。
焼く。
別の布へ包む。
別の籠。
別の棚。
店の商品には一切触れない。
「ほら」
私はあいつのパンを渡す。
「今日の分」
「……ありがとう」
「何だい、その顔」
「複雑なんだよ」
「嫌なら言いな」
「だから嫌とは言ってない」
「なら食べな」
本当に。
面倒な男だ。
でも。
そこも好きだ。
店は店。
客は客。
家は家。
身内は身内。
そして。
あいつは。
私の恋人。
全部。
ちゃんと分けている。
「女将」
「何だい」
「自分のパン、そんなに嬉しい?」
「嬉しいよ」
「何で?」
私は自分の札が付いたパンを手に取った。
昨夜の大きな声も。
寝台の軋みも。
荒い息も。
互いにしがみついていた時間も。
今はもう静かだ。
それでも。
この中には。
私にとっての意味が残っている。
「アンタと私が一緒だからさ」
あいつがまた困った顔をする。
私は笑う。
これでいい。
私には。
これが一番普通なんだから。




