第九十四話 普通になったので女将の話は終わりです
「女将。それ、本当に入れてるの?」
「入れてるよ。身内用だからね」
朝。俺は厨房で、身内用のパンが作られるところを最初から見ていた。客用はもう全部焼き終わっている。女将は売り物を棚へ移し、使った器具を洗い、作業台を拭き、手まで洗ってから、下の棚にしまってある身内用の箱を出した。中には小さなボウル、木べら、布、天板、それから俺たちの名前を書いた札。客用とは完全に別だった。女将は普通のパン生地を作って人数分に分け、先に札を置いて取り違えを防ぐ。そしてリサ、セリア、ミレア、クラリッサの分には、自分の体液をほんの少し入れた。味を付けるためじゃない。量を増やすためでもない。ただ、女将自身の印を付けるためだった。
「何で体液を入れる必要があるの?」
「必要だからじゃないよ。家の人間に私の印を付けたいからさ」
「それを普通に言うのが怖いんだけど」
「嫌ならルークの分はやめるよ?」
強制はしない。そこも一貫している。けれど拒否されなければ、女将は何の迷いもなく続ける。そして俺の分だけは少し扱いが違った。女将は俺用の生地を前にすると、ほんの少しだけ楽しそうに笑った。
「ルークの分には私の体液。私の分には、アンタと私の両方を入れる」
「……両方?」
「私の分はアンタと私の混ぜ物さ」
「そういう意味!?」
「そういう意味だよ。私が食べるパンなんだから、私の印だけじゃなくてアンタの印も欲しいだろ」
「普通は欲しがらないよ!」
「私は欲しいんだよ」
つまり、俺が食べるパンには女将自身の体液を少量入れる。そして女将自身が食べるパンには、女将自身の体液だけでなく、俺に由来する体液も合わせて入れる。女将にとっては、それで俺と自分の両方の印が一つのパンに入ることになるらしい。俺と自分が互いのものだと分かる。それが嬉しい。ただそれだけの理由で、女将は何の羞恥もなく、その工程を毎日の食事へ組み込んでいた。
「客用には絶対やらないんだよね?」
「当たり前だろ。客に私の体液を食わせてどうするんだい」
「そこは分かるんだ……」
「店は店。家は家。客は客。身内は身内だよ」
その日の昼、家族用のパンを頼む客が来た。最近、うちで身内ごとにパンを分けているという話だけが町へ広がっているらしい。旦那には固め、娘には甘め、息子には大きめ。名前札も付ける。女将は普通に注文を受けた。当然、体液なんて入れない。通常の器具、通常の材料、通常の商品として作る。それでも客は「家族用っていいわね」と喜んだ。翌日には別の家も頼み、その次には自宅で家族ごとに籠を分け始めた家まで出た。
俺は店の奥にある二つの棚を見比べた。外へ広がった家族用は、好みを変えて名前を付けるだけ。うちの身内用は、その奥で女将が自分の体液を入れ、俺用には女将の印を、女将自身の分には俺と女将の両方の印を残している。同じ「家族だけの特別なもの」という考え方なのに、中身はまるで違う。町の人たちは女将の異常を知らないし、真似もしていない。ただ、家ごとに独自のやり方があっていい、本人たちが納得しているなら外から口を出さなくていい、という考え方だけが広がっていた。
日記帳を開く。
『女将成長編――最終評価。女将本人の異常性は維持。身内用食品への本人の体液使用。主人公用食品への本人の体液使用。本人用食品への本人および主人公双方の体液使用。恋人間および身内間の身体的・衛生的境界低下を確認。本人による問題認識なし。一方、客用商品への適用なし。店舗衛生、商品管理、社会的信用は正常。外部社会へは、個人専用品、家族別管理、名前札、家庭ごとの独自慣習という無害化された構造のみが拡散。異常行為そのものではなく、異常行為が私的領域に存在し続けやすい価値観のみが社会へ定着。世界崩壊形式――日常侵食型。総合評価――S。女将成長編――完了。』
女将は異常なままだった。町の人たちも普通のままだった。ただ、女将を異常だと拒絶するまでの距離だけが、少し縮まった。店の外では、今日も誰かが旦那用、娘用、家族用と書かれた札を持って帰っていく。その奥で女将は、客用を全部片付けたあと、身内用の箱を出した。
「ルーク、明日の札そこに置いときな」
「……うん」
世界は壊れなかった。女将も直らなかった。ただ女将の異常だけが、前よりずっときれいに、普通の日常の中へ収まっていた。




