第八十八話 触手姫
「触手姫が三人見つかった」
朝一番でパン屋へ飛び込んできた冒険者の言葉に、俺は持っていた皿を落としかけた。
「三人?」
「ああ。北東の辺境、東の湿地、それから南の街道沿い。ほぼ同じ時期だ」
「同じ触手姫じゃなくて?」
「距離考えろよ。同じ女がそんな短期間で移動できるわけないだろ」
昨日、日記帳のキャラクター一覧へ突然追加された触手姫。てっきり正体不明の女が一人いるのだと思っていた。
違った。
「全員、同じ姿なんですか?」
「よく似てるらしい。女の姿をしてて、周りに触手が大量にいる。本人にも触手がくっついてるのか、生えてるのか分からん。旅人を襲うこともあれば助けることもある。魔物はよく殺してる」
「三人とも?」
「今分かってるだけで三人だ」
「今分かってるだけ……」
嫌な言い方だった。
「どこから来たかは?」
「分からん」
「親とか」
「触手姫の親を調べてる奴なんているのか?」
いる。
ここに。
多分。
俺は嫌な予感しかしなかった。
*
昼前には、さらに情報が増えた。
「西にも出たって」
ギルドから戻ってきたリサが紙を置いた。
「四人目?」
「多分。しかも北東の触手姫が目撃されたのとほぼ同じ日」
「分身?」
「何で私に聞くのよ」
「魔法でそういうのない?」
「あるにはあるけど、人間一人を何週間も離れた場所へ四人同時に置くような魔法なら、もっと大事件になってる」
「じゃあ別人?」
「その可能性の方が高いでしょ」
リサが報告書をめくった。
「ただ、全員すごく似てるらしい」
「姉妹とか?」
「それにしては似すぎてるって」
紙に簡単な似顔絵があった。
若い成人女性。
長い髪。
身体に絡みつく何本もの触手。
絵が粗いから顔までは分からない。
でも。
何か。
引っかかった。
「ルーク?」
「うん?」
「どうしたの」
「分からない」
「ならそんな顔しないで」
「分からないから怖いんだよ」
触手姫が王都から遠い。
昨日までなら、それで安心できた。
でも四人いる。
一人が遠いことに、もう何の意味もなかった。
*
午後。
納品の帰りに、俺は王都南部の地下水路管理所へ寄った。
「ティナさんいます?」
「下」
「今日も?」
「職員なんだから当たり前だろ」
受付の男に笑われた。
「毎日入ってるんですか?」
「ほぼな。あいつ、地下にいる時間長いぞ」
「……どれくらい?」
「点検区画による。どうした?」
「ちょっと確認したいことが」
「なら待ってろ。夕方には上がってくる」
待てなかった。
「俺、下へ行っても?」
「駄目に決まってるだろ」
「ですよね」
「何をそんな焦ってるんだ?」
説明できない。
触手姫が各地で増えているから、下水道職員のティナが気になりました。
意味不明だ。
「最近、地下で何か変わったことありません?」
「変わったこと?」
「変な生き物とか。触手とか」
「ああ」
受付の男が普通に答えた。
「いるぞ」
「……いる?」
「細長いやつだろ。最近増えた」
「何でそんな普通なんですか!」
「害がないからだよ」
「触手ですよ!?」
「地下水路なんて妙な生き物いくらでもいるだろ」
「いやいやいや!」
「水を詰まらせるなら駆除する。配管を壊すなら駆除する。今のところどっちもしない。それどころか沈殿槽の汚れ食ってるみたいだから、様子見だ」
掃除までしている。
嫌な方向に便利だった。
「どこに多いんです?」
「ティナの担当区画」
「やっぱり!」
「何がやっぱりなんだよ」
*
結局、管理責任者に頼み込んで、職員一人を同行させる条件で地下へ入らせてもらった。
石段を下る。
湿った空気。
水の音。
昔ここで起きたスライム事件を思い出して、胃が重くなる。
「ティナ!」
声が反響する。
「ティナさん!」
返事はない。
代わりに。
ぺた。
何かが水路の端を這った。
「今の!」
「最近いるやつだよ」
同行した職員は平然としている。
灯りを向ける。
細い触手生命体。
腕ほどの長さ。
黒っぽい身体をくねらせ、水路の隙間へ消えた。
「捕まえないんですか?」
「だから害ないって」
「どこから来るんです?」
「知らん」
「誰も調べてない?」
「ティナなら詳しいんじゃないか?」
「何で?」
「毎日見てるから」
その言葉が嫌だった。
さらに奥へ進む。
旧沈殿槽へ近づいた頃。
音がした。
「……何?」
ぬるり。
べちゃ。
水とは違う。
規則的な音。
そして女の声。
「もう少し奥に行って」
ティナだった。
「ティナ!」
「え?」
沈殿槽の向こうから顔を出す。
「あれ。ルーク?」
「何してるの!?」
「仕事」
「今の音は!?」
ティナは少し考えた。
「ああ。産んでる」
「……何を?」
「卵」
普通に言った。
「誰が?」
「私」
「……」
頭が止まった。
同行していた職員まで固まった。
「ティナ。今、何て?」
「だから卵」
「人間は毎日地下水路で卵産まないよ!」
「知ってるよ」
知っていた。
否定もしない。
「じゃあ何で!」
「必要だから」
「何に!?」
「増えるのに」
ティナは、今日の点検予定でも説明するような口調だった。
*
沈殿槽の奥へ回った。
そこで。
俺は見た。
水際に。
半透明の卵がいくつも並んでいる。
大きさは一定じゃない。
中で何かが動いているものもある。
殻の薄い部分へ、細い触手が押しつけられていた。
「これ……全部?」
「今日の分」
「今日の分!?」
「うん」
「昨日も?」
「産んだよ」
「一昨日は?」
「産んだ」
「毎日!?」
「だいたい」
ティナは平然と答えた。
「何で誰にも言わないんだよ!」
「聞かれなかったから」
「そういう問題!?」
「仕事に支障ないし」
「支障しかないよ!」
ティナは本気で不思議そうだった。
服装はいつもの作業着。
点検道具も腰に下げている。
髪も普通にまとめている。
街で会えば。
どこから見ても。
ただの二十六歳の地下水路職員だ。
「いつから?」
「しばらく前」
「身体、大丈夫なの?」
「大丈夫」
「痛くない?」
「もう慣れた」
「神殿には?」
「行ってない」
「行こう!」
「何で?」
「何でって!」
ティナが首を傾げた。
「病気じゃないよ」
「人間が触手生命体の卵を毎日産んでるんだぞ!」
「でも私は元気」
「元気ならいいわけじゃない!」
「仕事もできてる」
「それも!」
「家にも帰ってる」
「そういう問題じゃない!」
「恋人とも普通だよ」
「だから普通を積み重ねて押し切るな!」
ティナは少し困った顔をした。
「ルーク、最近変だよ」
「俺!?」
「うん」
俺がおかしいみたいに言われた。
*
卵の一つが動いた。
「ティナ!」
「大丈夫」
殻が割れる。
中から細い触手の塊が這い出した。
小さい。
まだ人間らしい部分はない。
何本もの触手を使って、水へ入る。
「これが触手生命体?」
「うん」
「全部こうなるの?」
「最初は」
「最初は?」
ティナが水路を見る。
「あの子たち、育つから」
「あの子たち?」
「分体」
聞きたくなかった単語が出た。
「誰の?」
「私の」
「……」
「全部じゃないよ」
ティナは卵を一つ持ち上げて光に透かした。
「普通の触手生命体になる子もいる。途中で死ぬ子もいる。でも、たまに大きく育つ子がいる」
「どう育つ?」
「私みたいになる」
「触手姫……?」
ティナが。
少しだけ。
笑った。
「外ではそう呼ばれてるみたいだね」
「知ってるの!?」
「噂は聞いたよ」
「何で黙ってたんだ!」
「私じゃないから」
即答。
「私の分体だけど、もう私じゃない」
水路を流れていく小さな触手生命体を見る。
「あの子たちは外へ行く」
「どこへ?」
「好きなところ」
「止めないの?」
「何で?」
「何でって、各地で触手姫になってるんだぞ!」
「うん」
「増えてるんだぞ!」
「うん」
「怖くないの!?」
ティナは少し考えた。
「増えることが?」
「そう!」
「別に」
その返事。
あまりにも。
軽かった。
「人間の街に迷惑かけるかもしれない」
「迷惑かけたら、その街の人が対応するでしょ」
「ティナが産んだんだぞ!」
「だから?」
そこで。
分かった。
この人は。
もう。
俺と同じ場所に立っていない。
*
「ティナ」
「何?」
「自分、人間だと思ってる?」
少し失礼だったかもしれない。
でも聞いた。
ティナは怒らなかった。
「街では人間だよ」
「街では?」
「うん」
「じゃあ地下では?」
「私」
「答えになってない」
「人間かどうかって、そんなに大事?」
「大事だよ!」
「私はティナでしょ」
「……」
「母さんの娘で、弟の姉で、あの人の恋人で、地下水路の点検職員」
全部。
人間社会の関係。
「それと、ここで卵を産む」
卵を見る。
「触手生命体の親でもある」
水を見る。
「触手姫の元でもある」
何の矛盾も感じていない。
「全部私だよ」
「街の人に知られたら?」
「困るかもね」
「ならやめる?」
「やめない」
即答。
「何で?」
「増えるから」
理由にすらなっていなかった。
でも。
ティナの中では。
それで十分らしい。
*
同行した職員は、途中から完全に黙っていた。
「これ……管理所に報告するぞ」
「いいよ」
ティナが答える。
「いいのか?」
「隠してないし」
「毎日ここで産んでたのに?」
「見つからなかっただけ」
「それを隠してるって言うんだよ!」
「そうなの?」
ティナ。
本当に。
分かっていない。
そこへ。
水路の奥から。
ばしゃ。
大きな音。
一体の触手生命体が流れに乗っていった。
「待て!」
俺が追おうとする。
ティナが止めた。
「いいよ」
「よくない!」
「街の外へ行く水路だから」
「だから駄目なんだよ!」
「大丈夫」
「何が!」
「あの子はもうここには戻らないから」
「さらに駄目!」
*
地上へ戻った時には。
夕方だった。
ティナは管理所で普通に報告書を書いた。
「南四番、詰まりなし。五番、壁面亀裂なし。排水量正常」
「卵は!?」
「それ、設備じゃないでしょ」
「書けよ!」
「別紙?」
「何でもいいから!」
結局。
管理所は大騒ぎになった。
神殿。
衛兵。
ギルド。
全部呼ばれた。
でも。
ティナ本人は。
定時になると着替えた。
「どこ行くの?」
「帰る」
「帰る!?」
「今日は恋人と夕飯」
「この状況で!?」
「約束してるから」
髪を整える。
普通の服へ着替える。
さっきまで地下で。
触手生命体の卵を産んでいた女が。
街へ出れば。
ただのティナ・ローヴェルに戻る。
「明日も来る?」
「仕事だから」
「卵は?」
「産むと思う」
「やめないんだ……」
「うん」
「神殿に止められたら?」
「地下で産めないなら、別の場所を探すかな」
「そこまでして!?」
ティナは笑った。
「じゃあ、また明日」
「待って!」
行ってしまった。
普通に。
恋人のところへ。
*
その夜。
触手姫の新しい目撃情報が届いた。
五人目。
西の山村。
さらに。
六人目。
海沿いの街。
どちらも成人女性の姿。
周囲に大量の触手生命体。
どちらも。
本人を姫と呼ぶ触手たちに囲まれていた。
「……増えてる」
日記帳が熱い。
開いた。
『単一キャラクターを一地点へ固定した場合、遠隔地ストーリーの同時展開には制限が発生。』
「……」
『本体を日常生活圏へ残しながら、派生個体を複数の地域へ配置する構成を検討。』
「もう配置されてるよ」
文字は俺の言葉には反応せず続いた。
『各派生個体へ独立した人格、環境、共同体を形成させることで、同一起源から異なるストーリーを並行展開可能。』
『本体の日常生活を破壊しないことも可能。』
「そこが一番怖いんだよ……」
ティナは。
明日も仕事へ行く。
地下水路を点検する。
卵を産む。
仕事が終われば。
母親のところへ顔を出すかもしれない。
弟と話すかもしれない。
恋人と飯を食うかもしれない。
結婚の話だって。
普通に続ける。
その地下で。
毎日。
新しい触手生命体が生まれる。
何匹かは水路を抜ける。
街の外へ出る。
遠くへ行く。
育つ。
そして。
いつか。
どこかの土地で。
人の姿をした分体になる。
触手姫。
一人じゃない。
これから何人になるのか。
ティナ自身も。
多分。
数えていない。
俺は窓から王都を見る。
普通の街。
明かり。
人。
店。
家族。
恋人。
その全部の下を。
地下水路が。
何事もないように。
街の外まで続いていた。




