第八十六話 世界中で幸せの花が咲き始めました
「もう密売にならないらしいよ」
リサが朝飯を食べながら言った。
「何が?」
「例の麻薬」
俺はパンを置いた。
「流行止まった?」
「逆。広がりすぎた」
「……広がりすぎた?」
「どこでも手に入るから、犯罪組織が売っても儲からないの」
意味が分からなかった。
少し前まで、神殿と衛兵は新種の麻薬の流通経路を必死に追っていた。誰が作っているのか。誰が運んでいるのか。どこから王都へ入ってきたのか。ところが調べれば調べるほど、前提そのものがおかしいことが分かってきた。
運んでいる奴がいない。
なのに花がある。
「西区では?」
「民家の庭」
「南区」
「井戸の横」
「商業区は?」
「服屋の窓辺」
「……誰が植えたの?」
「知らないって」
「全員?」
「ほとんど」
リサが呆れたようにパンをちぎった。
「ある日気づいたら生えてた。綺麗だから抜かなかった。その程度よ」
*
実物を見た。
本当に綺麗だった。
王都の小さな広場。石造りの家の前に置かれた白い鉢から、淡い紫色の花が咲いている。花弁の縁だけが薄く光り、陽が当たると色が青から桃色へゆっくり変わる。知らなければ珍しい観賞花にしか見えない。
「綺麗でしょう?」
家の女が嬉しそうに言った。
「いつ買ったんですか?」
「買ってませんよ」
「じゃあ誰かにもらった?」
「いいえ。気づいたら鉢から芽が出ていて」
「元は何を植えてたんです?」
「何も。空いていた鉢です」
女は花へ顔を寄せた。
「いい香りなんですよ」
「吸わない方が」
「ああ、大丈夫です」
笑う。
「私、毎日仕事もしてますし。家事も普通にできますよ」
確かにそうだった。洗濯物は干してある。店の帳簿も机に置かれている。子供の昼飯まで用意している。会話も普通だ。
「使ってるんですか?」
「時々」
「麻薬ですよ」
「知ってます」
女はあっさり頷いた。
「でも幸せになりますよ?」
「……」
「お酒より翌日楽ですし、仕事にも行けます。夫も別に困ってません」
それが。
一番困った。
*
従来の麻薬なら、もっと分かりやすかった。
金がなくなる。
仕事ができなくなる。
身体を壊す。
犯罪が増える。
売る側が儲かる。
だから取り締まる理由がはっきりする。
でも、新しい花は違った。
「使用者の就労率、ほとんど落ちてないって」
神殿の薬師が報告書を置いた。
「健康被害は?」
「確認中です。ただ、今のところ急激な衰弱は少ない」
「依存は?」
「あります」
「じゃあ危険じゃないですか」
「危険です」
「なら禁止すれば」
「もう庭に咲いてます」
薬師が疲れた顔をした。
「王都だけじゃありません」
地図が開かれる。
北の村。
東の港町。
西の農村。
南の宿場町。
さらに遠い地方。
印が。
多すぎた。
「こんなに?」
「昨日までの分です」
「流通経路は?」
「不明」
「種を運んでる奴は?」
「不明」
「サラの畑は?」
「同系統の植物はあります。ただ、各地のものすべてがそこ由来だと示す証拠はありません」
「じゃあ何で増えてるんだよ」
「それが分かれば苦労しません」
*
犯罪組織も動いたらしい。
最初は。
当然。
金になると思った。
「新種の麻薬なら独占すれば儲かる」
誰でもそう考える。
ところが。
売ろうとした翌週。
客の庭に同じ花が咲いた。
別の町へ運ぼうとしたら。
その町にもあった。
値段を上げようとすれば。
裏通りの空き地に咲いている。
独占できない。
供給を絞れない。
縄張りを作れない。
「犯罪組織が花を抜いて回ったって話もあるわよ」
リサが言った。
「麻薬を消すため?」
「違う。値段を維持するため」
「最低だな」
「でも翌月にはまた咲いた」
「……」
「だから諦めたらしい」
麻薬なのに。
売人が困っている。
無料で手に入るから。
資金源にならない。
そんなもの。
聞いたことがない。
*
もっと嫌だったのは。
花そのものが。
綺麗なことだった。
「抜く必要あります?」
公園の管理人に聞かれた。
「麻薬植物ですよ」
「でも誰も使ってませんよ」
「今は」
「観賞用ですよ」
花壇を見る。
赤。
紫。
薄青。
例の花が。
普通の花に混じっている。
「子供も見るんですよ」
「だから綺麗にしてるんです」
「そうじゃなくて」
「触らないよう札も出してます」
ちゃんとしている。
だから。
強く言いづらい。
「咲いてるだけで犯罪になるんですか?」
「……分かりません」
「ですよね」
管理人は水桶を持ち上げた。
「綺麗なんですよ、この花」
その言葉を。
何度も聞いた。
*
村では。
老人が育てていた。
「眺めてるだけだよ」
宿屋では。
窓辺に置いてあった。
「お客さんが綺麗だって言うから」
貴族の屋敷にも。
あった。
「珍しい色でしょう?」
市場の花屋では。
普通に並び始めた。
「売っていいの?」
「観賞用です」
「麻薬になるんだぞ」
「使わなければ花です」
間違ってはいない。
間違っていないのが。
怖かった。
*
そして。
使う人間も。
普通に生活していた。
「昨日使った?」
「使ったよ」
「仕事は?」
「今から行く」
「大丈夫?」
「何が?」
職人は普通に工房へ行く。
主婦は買い物をする。
兵士は休みの日だけ使うという。
商人は帳簿をつける。
酒場では酒の代わりに好む奴まで出てきた。
「幸せになるんだ」
皆。
だいたい。
同じことを言う。
「それだけだよ」
それだけ。
だから。
止まらない。
*
サラにその話をすると、驚かなかった。
「そう」
「そう、じゃないよ」
神殿の庭。
サラの肩には今日も花が咲いている。
「世界中に増えてるんだぞ」
「世界中は大げさでしょ」
「他国でも見つかったって」
「じゃあ世界中に増えてるね」
「怖くない?」
サラは少し考えた。
「怖いよ」
「本当に?」
「うん」
それから。
自分の花を見る。
「でも、綺麗でしょう?」
「サラ」
「分かってる」
笑った。
「その感想自体を信用するな、でしょ」
「うん」
「でも綺麗なのは事実だよ」
「……」
「麻薬であることと、花として綺麗なことは両立する」
薬師らしい。
正しい。
だから。
嫌だった。
「畑は?」
「あるよ」
「まだ?」
「広がった」
「どれくらい?」
「分からない」
「サラ」
「もう畑って呼んでいいのかも分からないかな」
嫌なことを言う。
「どういう意味?」
「森へ行けば分かるよ」
*
行かなかった。
行きたくなかった。
でも。
数日後。
森から帰ってきた冒険者が言った。
「最近、北西の森に綺麗な花畑があるぞ」
「どんな?」
「紫とか青とか。見たことない花」
「……」
「誰か育ててるみたいなんだけどな。小道まである」
「誰が?」
「知らん」
俺は。
聞かなかったことにしたかった。
*
季節が変わった。
花は。
減らなかった。
王都だけでもない。
村だけでもない。
国境も関係ない。
誰かが広めている証拠はない。
商人が運んでいる記録もない。
犯罪組織が支配しているわけでもない。
それでも。
朝。
昨日まで何もなかった道端に。
一輪。
咲いている。
家の花壇に。
一輪。
空っぽだった鉢に。
一輪。
翌月には。
数輪。
その次には。
花壇いっぱい。
人々は。
綺麗だから。
残す。
時々。
使う。
幸せになる。
次の日。
仕事へ行く。
飯を食う。
子供を育てる。
恋をする。
喧嘩もする。
普通に生活する。
世界は。
壊れなかった。
ただ。
少しずつ。
花が増えた。
*
夜。
パン屋の窓から外を見る。
向かいの家。
窓辺。
鉢植え。
昨日までは。
なかった。
「……」
紫色の。
小さな花。
風に揺れている。
誰が置いたのか。
知らない。
誰が育てたのか。
知らない。
どこから来たのか。
誰も。
知らない。
ただ。
綺麗だった。
そして。
その花を見ながら。
向かいの家の女が。
幸せそうに。
笑っていた。
明日の朝になれば。
きっと。
いつも通り。
仕事へ行く。
世界は。
何も変わらない顔をして。
静かに。
花で埋まり始めていた。




