第八十五話 もっと花粉を頂戴
「ルーク。受粉しよう」
神殿へサラを見舞いに行って、最初に言われた言葉がそれだった。
「……何?」
「受粉」
「聞こえたけど」
「じゃあ何で聞き返すの?」
サラは本気で不思議そうだった。以前のような夢うつつの顔ではない。目は澄んでいる。言葉もはっきりしている。俺が何時に来ると言ったか覚えているし、昨日読んだ薬学書の内容も説明できる。身体から伸びる葉と花だけを無視すれば、行方不明になる前のサラに近かった。
「今日は……薬の影響、大丈夫なの?」
「大丈夫という言い方がもう違うかな」
「何が?」
「影響されてる私と、されてない私を分けられなくなってきた」
サラは自分の胸元から伸びる茎を指でつまんだ。触れられた葉が僅かに揺れる。その瞬間、サラ自身の肩も同じように小さく動いた。
「前は、こいつが私に何かしてると思ってた」
「違うの?」
「今は分からない。私が花を動かしてるのか、花が私を動かしてるのか。そもそも分ける必要があるのかも分からない」
「それ、かなりまずくない?」
「薬師としては、ものすごくまずい」
「じゃあ」
「でも私は平気」
即答だった。
「そこがもっとまずいんだよ」
「うん。分かってる」
サラは笑った。以前の、薬でぼんやりした笑顔ではない。全部理解したうえで笑っている。
「夢みたいな感じはもうないよ。頭はずっとはっきりしてる」
「幸福感は?」
「ある」
「薬のせい?」
「私の気分」
「サラ」
「だから、それを区別できなくなったって言ってるの」
言葉だけなら冷静だった。だからこそ背筋が寒くなった。
*
神殿ではサラを完全に隔離する扱いをやめ始めていた。身体から伸びる植物を取り除けないことは変わらないが、本人が歩けるようになったからだ。根は身体の中に残ったまま、外側の茎や葉もサラの動きを妨げない形へ変わっている。本人が動けば蔓も身体へ沿って動き、眠れば花も閉じる。以前は「寄生されている人間」に見えたのに、今は植物を身体の一部として持つ人間にしか見えなくなってきた。
「森の畑は?」
「元気」
「増えてる?」
「増えてる」
「勝手に?」
「その質問、最近意味ないよ」
「何で?」
「私が増やしてるのか、植物が増えてるのか、もう同じだから」
サラはそう言ってから、俺の方へ一歩近づいた。
「それより受粉」
「まだ言うの?」
「言うよ」
「何で俺?」
「雄だから」
「言い方!」
「男だから、の方がいい?」
「そういう問題じゃない」
「じゃあルークだから」
今度は答えに詰まった。
「前から関係あったでしょ」
「それはそうだけど」
「今も嫌じゃない」
「……うん」
「なら受粉しよう」
「だから呼び方!」
サラは楽しそうに笑った。
「私にはこっちの方が自然なの」
*
その日の夜、サラは神殿の許可を取ってパン屋へ来た。女将は身体から花が伸びているサラを見て眉を寄せたが、追い返さなかった。
「花粉撒き散らすんじゃないよ」
「気をつけます」
「葉っぱ落としたら自分で掃除!」
「はい」
「飯は?」
「食べます」
「なら座りな」
それだけだった。サラは久しぶりに俺たちと食卓を囲み、女将のパンを食べ、リサと薬の話をし、ミレアに身体の植物を触らせないよう注意し、クラリッサには森の畑へ近づかない方がいいと真面目に説明した。まともだった。あまりにもまともで、逆に俺の方が何度もサラの花を見てしまった。
「ルーク」
「何?」
「見すぎ」
「ごめん」
「後でゆっくり見せる」
「言い方が怖い」
食事が終わった後、サラは当然みたいに俺の部屋へついてきた。扉が閉まると、俺の胸へ手を置く。
「ちゃんと生きてる」
「マルタみたいなこと言うなよ」
「私は植物だから意味が違う」
「自分で植物って言ったよね?」
「人間でもあるよ」
「どっち?」
「両方」
迷いがない。
「ルーク」
「うん」
「受粉して」
俺を見上げる目は、薬で蕩けてはいなかった。はっきり俺を見ている。俺が嫌なら止めると言えば、本当に止まるだろうと思えた。それでも本人の言葉だけが、人間のサラから少しずつ離れている。
「本当にサラが望んでる?」
「望んでる」
「植物じゃなく?」
「だから私と植物を分けないで」
サラは俺へ身体を寄せた。
「花も私。根も私。欲しがってるのも私」
「……」
「もっと花粉を頂戴」
「サラ」
「雄花の強い花粉」
「その言い方、やめない?」
「嫌」
笑う。
「好きだから」
俺たちは身体を重ねた。以前と同じ相手のはずなのに、サラは時々俺の顔ではなく、自分の肩や胸元で揺れる花を見る。花弁が開くたび嬉しそうに息を吐き、俺をさらに強く抱き寄せた。
「もっと」
「サラ」
「花が足りないって」
「花が?」
「私が」
訂正して笑う。
「同じだった」
しばらくすると、サラの身体から伸びたいくつもの花が一斉に開いた。甘い香りが部屋へ広がり、俺は反射的に窓を開けた。
「閉めて」
「駄目。女将に怒られる」
「受粉中なのに」
「その単語で押し切ろうとするな!」
サラは声を上げて笑った。
笑い方まで。
普通だった。
それが。
一番。
普通じゃなかった。
*
朝になるとサラは俺より早く起きていた。窓辺で自分の花を確認している。
「何してるの?」
「受粉できたか見てる」
「分かるの?」
「何となく」
「薬師として?」
「植物として」
「……」
「そんな顔しないで」
サラは振り返った。
「私、気が狂ったわけじゃないよ」
「それを今言う?」
「昨日のことも全部覚えてる。自分が何を言ったかも、何を望んだかも覚えてる。薬でぼんやりしてたわけじゃない」
そこまで言って、自分の腹へ手を置いた。
「だから余計に怖い?」
「……うん」
「私も少し怖い」
「少し?」
「でも、前みたいに『植物を取れば元の私に戻る』とは思ってない」
「何で?」
「これを取ったら、今の私の一部がなくなるから」
サラは肩の葉を撫でた。
「最初はこれが嫌いだった。私を薬漬けにする寄生植物だと思ってた」
「今は?」
「私」
短かった。
「畑も?」
「私に近いもの」
「各地の花は?」
「分からない」
「増やしたい?」
サラは少し考えた。
「……増えると嬉しい」
「それはサラの気持ち?」
「その質問には、もう答えられない」
でも。
嫌そうではなかった。
*
昼前、サラはパン屋を手伝った。客へパンを渡し、女将に叱られながら棚を拭き、花が邪魔になれば自分で茎を肩へ寄せる。町の人間も、最近では「変わった病気の薬師」くらいに思い始めているらしかった。
「今日は森行くの?」
俺が聞いた。
「午後から」
「畑?」
「うん」
「何するの?」
「様子見るだけ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんって」
サラは笑った。
「花が増えてたら嬉しいな」
「またそれ」
「仕方ないでしょ。嬉しいんだから」
「薬のせいかもしれない」
「私のせいかもしれない」
そう言って。
外へ出る。
その背中から伸びた花が。
陽の光を受けて。
ゆっくり。
開いた。
以前なら。
俺は。
サラの中にいる植物が。
サラを変えていると思っていた。
でも今は。
どこまでがサラで。
どこからが植物なのか。
本人にすら。
分からない。
そして。
本人はもう。
それを。
治すべき異常だとは。
思っていなかった。




