第八十三話 苗床ごと連れて帰るしかありません
「切らないで」
サラがそう言った直後、治療師の手が止まった。
「サラ?」
「切ると……たぶん、私も危ない」
さっきまで幸福そうに笑っていた顔から、笑みが消えていた。目もまだぼんやりしている。それでも薬師として考えている時のサラだった。自分の胸元から伸びる茎を見下ろし、呼吸を整える。
「根が入ってる。たぶん、思ってるより深い」
「分かるの?」
「感覚があるから」
俺は何も言えなかった。
「植物の感覚?」
リサが聞く。
「そこまでは分からない。でも、引っ張られると私の中も引かれる。さっき葉を動かした時も分かった」
神殿の薬師がしゃがみ込んだ。
「どこまで一体化しているか、自分で判断できますか?」
「無理。頭がおかしいから」
「サラ」
「本当のこと」
サラは少し笑った。その笑いが本人のものなのか、植物に作られたものなのか、俺にはもう分からなかった。
「今もすごく楽しい。ルークが来てくれて嬉しいのか、これのせいなのか分からない」
「じゃあ、まずここから出そう」
「どうやって?」
俺は答えられなかった。
植物はサラから生えている。地面にも根を張っている。サラだけを持ち上げることはできない。根を切れば何が起きるか分からない。植物を全部残せば、谷から動かせない。
「周囲の土ごと移す」
薬師が言った。
「え?」
「人間だけを救出するのは一旦諦めます。この植物群と苗床になっているサラさんを、一つの生物として扱う」
「一つって」
「安全を優先するなら、それしかありません」
嫌な言い方だった。
「サラは人間だよ」
「分かっています」
「一つの生物とか言うなよ」
「では、無理に引き剥がしますか?」
何も言えなくなった。
サラ自身が口を開いた。
「それでいい」
「サラ」
「今は」
自分の腹から伸びている太い茎へ目を落とす。
「これ込みで私なんだと思って運んで」
「……」
「嫌だけど」
そこだけは、はっきりした声だった。
「死ぬよりまし」
*
作業は日が傾くまで続いた。
俺たちはほとんど近づけなかった。長く植物のそばにいると、頭がぼんやりする。笑いたくなる。嫌なことを考えるのが面倒になる。何人かは途中で交代し、神官たちも何度も外へ出ていた。
サラはその間、眠ったり目を覚ましたりを繰り返した。
「ルーク」
「いるよ」
「何してるの?」
「サラを連れて帰る準備」
「帰る……」
「パン屋」
「ああ」
嬉しそうに笑う。
「女将のパン食べたい」
「食べよう」
「甘いやつ」
「買うよ」
「いっぱい」
「いっぱい買う」
「ふふ」
そこまでは普通だった。
少しすると、サラの目が花へ向いた。
「でも、ここもいいよ」
「サラ」
「ずっと暖かいし、何も心配しなくていい」
「それ植物のせいだろ」
「分かってる」
「じゃあ」
「分かってても気持ちいいの」
俺は黙った。
「薬って怖いね」
サラが言った。
薬師の声だった。
「自分で分かってるのに、欲しいって思う」
「……」
「帰りたい。でも、ここから離したら嫌だとも思う」
「どっちが本当?」
「両方」
少し間を置く。
「だから私に決めさせないで」
「え?」
「今の私は信用できない」
それを。
自分で言える。
だから余計に。
きつかった。
「私が『ここに置いて』って言っても、連れて帰って」
「分かった」
「泣いても?」
「連れて帰る」
「怒っても?」
「連れて帰る」
「お願いしても?」
「ああ」
サラは安心したように目を閉じた。
「じゃあ、任せる」
*
夕方。
ようやく植物の周囲を大きく保ったまま、サラごと動かせる状態になった。
サラは根と葉に覆われたままだった。人を運ぶというより、小さな花壇を丸ごと運ぶような見た目になっている。その中心に人間がいる。
「出発します」
薬師が声を上げた。
動き始めた瞬間。
「っ!」
サラの身体が跳ねた。
「止めろ!」
「大丈夫!」
本人が叫んだ。
「そのまま!」
「サラ?」
「根が……引っ張られただけ」
「痛い?」
「痛い」
「止める!」
「止めないで!」
今度はサラが怒鳴った。
「戻されたら、私、喜ぶから!」
「……」
「それが嫌なの!」
全員が黙った。
「行って」
サラは歯を食いしばっていた。
「今のうちに」
運び出す。
花が揺れる。
甘い匂いが濃くなる。
サラの表情が。
また。
緩んでいった。
「……ふふ」
「サラ」
「大丈夫」
笑いながら。
泣いていた。
「すごく嫌なのに……すごく気持ちいい」
俺は横を歩いた。
「ルーク」
「いる」
「手」
差し出せるのは指先くらいだった。根の間から出ている手を握る。
「帰るぞ」
「うん」
「パン屋に」
「うん」
「絶対」
「……うん」
その返事だけは。
植物のせいじゃないと。
思いたかった。
*
王都へ戻った頃には夜になっていた。
当然、パン屋へ直接連れていくことはできなかった。神殿の隔離された庭へ運び込まれ、周囲には人を近づけないよう警備までついた。
「パン屋じゃない」
サラが不満そうに言った。
「さすがにこれは持っていけない」
「女将、怒る?」
「怒ると思う」
「花、駄目?」
「絶対駄目」
「そっか」
少し笑う。
「なら仕方ない」
神殿の薬師たちは、植物とサラの状態を調べ始めた。ただし、すぐに取り除こうとはしなかった。
サラが何週間も生き延びている。
植物も枯れていない。
それだけで、もう単純な寄生ではないらしかった。
「相互依存の可能性があります」
「何それ」
「植物はサラさんから栄養や魔力を得ている。一方で、サラさんにも何かを返している」
「麻薬?」
「それだけとは限りません」
「じゃあ何?」
「まだ分かりません」
分からない。
また。
それだった。
「外したら?」
「最悪の場合、両方死にます」
「両方って言うな」
「……サラさんが死ぬ可能性があります」
言い直された。
でも。
意味は変わらなかった。
*
翌朝。
サラは妙に元気だった。
「おはよう」
「……おはよう」
「何その顔」
「普通すぎるから」
「普通だよ」
「昨日まで植物に埋まってたんだぞ」
「今も埋まってる」
「そうだけど」
サラは自分の身体から伸びる葉を一枚見た。
「昨日より頭がはっきりしてる」
「治ってる?」
「違う」
即答だった。
「慣れてる」
「……」
「たぶんね」
薬師らしい顔になる。
「身体が、この状態を普通だと思い始めてる」
「それ大丈夫なの?」
「大丈夫じゃない」
でも。
サラは落ち着いていた。
「私、薬師でよかった」
「何で?」
「今の自分を信用しちゃいけないって分かるから」
そこまで言って。
突然。
花が開いた。
「あ……」
サラの背中が僅かに反った。
「サラ?」
「待って」
呼吸が変わる。
頬が赤くなる。
目が蕩ける。
「今、来てる」
「何が?」
「植物から……何か」
詳しいことは。
分からない。
でも。
サラ本人には。
分かるらしい。
「気持ちいい?」
「……うん」
笑う。
「すごく」
数秒前まで。
冷静だったのに。
「ルーク」
「何?」
「全部どうでもいい」
「サラ」
「ふふ……嘘」
笑い続ける。
「嘘じゃない。今、本当にそう思ってる」
「……」
「でも」
ぼんやりした目で俺を見る。
「後で私が戻ったら、今の私が言ったこと全部無視して」
「分かった」
「植物外すなって言っても?」
「無視する」
「このままが幸せって言っても?」
「無視する」
「ひどい」
「サラが頼んだんだろ」
「そうだっけ?」
もう。
そこまで。
曖昧になっていた。
*
その日の夕方。
サラはまた戻った。
「……最悪」
第一声だった。
「覚えてる?」
「全部」
「さっき俺に『ずっとここにいたい』って」
「言うな」
「ごめん」
「自分で分かってるから余計に腹立つ」
サラが葉を睨む。
「こんなの薬じゃない」
「じゃあ何?」
「分かんない」
薬師なのに。
答えられない。
「でも絶対調べる」
声。
強い。
「自分の身体で?」
「そうなるね」
「嫌じゃない?」
「嫌に決まってる」
即答。
「だから調べる」
サラは自分の腹から伸びる茎を見た。
「これが私から離れないなら、私がこいつを調べる」
「……」
「薬にされっぱなしなんて、腹立つでしょ」
少しだけ。
以前のサラだった。
俺は笑った。
「何?」
「いや」
「変な顔」
「帰ってきたなと思って」
サラは。
少し黙った。
「まだ帰ってないよ」
植物を見る。
「これを連れてきただけ」
「じゃあ、そのうち帰ろう」
「パン屋?」
「うん」
「この状態で?」
「女将と相談する」
「絶対怒る」
「うん」
「花、切られそう」
「切れないって説明する」
「店の中で咲いたら?」
「追い出される」
「私ごと?」
「多分」
サラが。
久しぶりに。
普通に笑った。
「じゃあ治さないとね」
「うん」
でも。
その時。
腹から伸びた花が。
小さく。
また。
開き始めた。
サラの笑顔が。
ほんの少し。
別の笑顔へ。
変わった。




