第七十九話 一人だけ帰ってきました
「マルタが見つかった!」
護衛組合の男がパン屋へ飛び込んできた瞬間、俺たちは全員立ち上がった。
「生きてる!?」
「生きてる。巨人の討伐隊が保護した。今、神殿へ運ばれてる」
それだけ聞いて俺は走った。セリアもすぐ後ろから来る。女将たちも店を閉めて追ってきた。行方不明になって十六日。サラもエリナも何も分からないまま、三人のうち一人だけが帰ってきた。
神殿へ着いても、すぐには会わせてもらえなかった。
「治療中です」
「意識は?」
「あります。かなり衰弱しています。右腕骨折。左脚に深い刺傷。全身に打撲、裂傷、圧迫による損傷が多数。それから……長期間、特殊な状態で拘束されていたようです」
「特殊な状態?」
治療師は一瞬迷った。
「巨人の身体に括り付けられていました。防具として」
「……」
「詳しいことは、本人が話せる状態になってから聞いてください」
待った。
長かった。
ようやく扉が開き、一人だけなら入っていいと言われた。俺が治療室へ入ると、寝台の上に包帯だらけの女がいた。右腕は板で固定され、左脚には厚く布が巻かれている。肩、頬、首、胸元にも痣と傷が残っていた。髪は切れ、肌には長期間何かへ押しつけられていたらしい変色まである。
それでも。
「……ルーク」
「マルタ」
間違いなく。
マルタだった。
「遅い」
「ごめん」
「お前が謝ることじゃないだろ」
「でも」
「座れ」
椅子を引いて、すぐ横へ座った。
「本当にマルタだよな」
「何だそれ」
「いや……生きてるから」
「見れば分かるだろ」
「分かってる」
喋る。
俺を見る。
悪態までつく。
それだけで泣きそうになった。
「そんな顔するな」
「するよ」
「死んでない」
「知ってる」
「ちゃんと帰ってきただろ」
「うん」
しばらく黙った後、マルタの方から話し始めた。
「巨人だった。捕まった。それから……私、あいつにとって人間じゃなくなった」
「何言ってるんだ」
「私自身が、って意味じゃない。あいつから見たら、だ」
マルタの左手が寝台の布を握った。
「捕虜ですらなかった。女でもなかった。巨人の腹に裸で括り付けられて、前から何か飛んできたら私が先に受けるようにされてた。肉の鎧だよ」
「……ずっと?」
「ああ。痛いって叫んでも、やめろって言っても、一度も反応しなかった。私が眠ってても、血が出てても、意識が飛んでても同じ。鎧の状態を気にするようなことすらなかった。まだ身体についてりゃ使う。それだけだった」
そこでマルタの手が腹へ移った。
「孕んだ」
「……」
「何度も」
「何度も?」
「長くは続かなかった」
意味が分かった。
聞き返せなかった。
「最初は怖かった。腹の中にいるって分かった時、本当にどうすればいいか分からなかった。でも巨人は何も変えない。走る。戦う。私を腹側にしたまま地面へ倒れる。それで失った」
マルタは天井を見た。
「次も同じだった。また孕んで。また途中で終わった。その次も。途中から何回だったか分からなくなったよ」
「巨人は……」
「何も」
即答だった。
「私が孕んでることにも気づいてないのかもしれない。失った時も、もちろん何もしない。そりゃそうだよな」
乾いた笑い。
「あいつにとって私は生き物じゃないんだから。鎧の腹の中で何が起きようが、鎧としてまだ使えるなら関係ない」
「もういい」
「聞け」
「……」
「誰かには言っときたいんだ」
「分かった」
「そのうち、自分の腹なのに自分のものじゃない感じになった。何かがいる。いなくなる。またいる。それだけ。悲しいとか怖いとか、それすら薄くなっていった」
マルタは少し黙り、それから固定された右腕を見た。
「だから、人間の声が聞こえた時は嬉しかった」
「救助隊?」
「ああ。最初に『人がいる』って聞こえた。その次に誰かが私の名前を呼んだ」
口元が僅かに動いた。
「マルタって。久しぶりに呼ばれた」
救助隊は巨人を倒さなければならない。
でも、巨人の正面にはマルタが括り付けられている。
「ためらってたよ。私に当たるから」
「そりゃ……」
「だから私ごとやれって言った」
「……」
「こっち避けながら戦ってたら死ぬ奴が出る。私、護衛だからな。それくらい分かる」
右腕。
「これ、味方の槌」
「……」
「巨人を狙った。でもあいつが身体を捻って、私に入った」
「腕が折れた時?」
「ああ。一発だった。音がした。次に痛みが来た。自分の腕見たら、曲がっちゃいけない方へ曲がってた」
「……」
「槌を振った奴が止まったから怒鳴ったよ。止まるなって」
マルタは今度は左脚を見た。
「こっちは槍。巨人の腹を狙ったのが脚に刺さった。刺した奴、真っ青になって謝ってた」
「痛かった?」
「馬鹿か」
少しだけ、いつものマルタの顔になった。
「痛いに決まってるだろ。巨人にやられた傷より、味方につけられた傷の方が痛く感じたくらいだ」
「何で」
「助けに来てくれたって分かってるからだろ」
誰もマルタを傷つけたくない。
全員。
助けようとしている。
それでも巨人を倒すためには。
攻撃するしかない。
「剣も何回か当たった。魔法も。巨人が倒れた時は、また身体ごと地面へ叩きつけられた。でも今度は違った」
「何が?」
「名前呼ばれてた」
マルタが目を閉じる。
「『マルタ、生きてるか』って。何度も。だから私も『生きてる』って返した」
そして。
巨人が。
ついに。
動かなくなった。
「倒したって聞こえた。すぐ人が集まってきた。『女を外せ』って」
「うん」
「そこで怖くなった」
「外してもらえるのに?」
「ああ」
マルタ自身も理解できないような顔をした。
「ずっと離れたかったのにな。巨人の腹から外されるって分かった瞬間、落ちるって思った」
「落ちる?」
「背中側がずっと巨人に押しつけられてたから。自分で立ってるとか寝てるとか、そういう感覚がなくなってたんだと思う」
拘束を外す前に、救助隊は何人もマルタの身体を支えた。
「『腕は折れてるから触るな』『脚を持つ』『頭を支える』って、私の身体について皆で話してた」
「……」
「変だろ」
「何が」
「それだけで、ちょっと嬉しかった」
マルタの目が揺れた。
「巨人は私の身体がどうなっても何も変えなかった。でもあいつらは、ここが折れてる、ここが痛い、ここは触るなって言ってた。私より私の身体を気にしてた」
一つ。
拘束が外れた。
長く圧迫されていた皮膚へ血が戻り、焼けるように痛んだという。別の固定を切られた時には、巨人と背中の間へ冷たい空気が入った。
「寒かった」
「……裸だったから?」
「それもある。でも、巨人の身体ってずっと熱いんだよ。嫌で嫌でしょうがなかった熱がなくなったら、急に怖くなった」
最後の固定が切られる直前。
『今から外れる』
『こっちで受ける』
『絶対落とさない』
そう言われた。
「それで切られて、身体が前に落ちた。何人かで受け止めてくれた」
「うん」
「その時、私……『戻して』って言った」
「……」
「自分でも信じられなかった」
マルタの左手が震えた。
「あれだけ離れたかったのに。巨人の腹へ戻してくれって」
「それだけ長かったんだよ」
「すぐ自分で『違う』って叫んだ。そしたら誰かが『戻さない。もうあそこには戻さない』って」
その後。
毛布を掛けられた。
「そこで初めて、裸だったのが恥ずかしくなった」
「……」
「巨人に括り付けられてる間は、途中からどうでもよくなってた。でも人間に囲まれた瞬間、隠してほしいって思った」
すぐに毛布が掛けられた。
誰も笑わなかった。
誰も余計に見なかった。
「傷を押さえる時も、『ここ触るぞ』って言われた。身体を持ち上げる時も、『今から持つ』って。痛む時には『痛いぞ』って先に言う」
マルタの声が。
少し。
震えた。
「それが……きつかった」
「嫌だった?」
「逆」
目尻に。
涙。
「私が『痛い』って言ったら、意味があった」
「……」
「『分かってる』って返ってきた」
ぽろ。
一つ。
涙が落ちた。
「巨人には何回言っても何もなかったのに」
「マルタ」
「救助隊の奴が『もう鎧じゃない』って言った」
そこで。
マルタの顔が。
崩れた。
「私、その時やっと泣いた」
声を押さえようとして。
失敗した。
「鎧じゃないって」
「うん」
「もう腹に括られないって」
「うん」
「私、まだマルタだって」
「そうだよ」
「本当に?」
「マルタだよ」
俺は左手を握った。
握る前に。
一瞬。
止まった。
「触っていい?」
マルタの目が。
大きくなった。
それから。
また。
涙。
「……ああ」
握った。
強くしない。
ただ。
手のひらを。
重ねる。
「お前まで聞くのか」
「嫌だった?」
「違う」
マルタが泣きながら笑った。
「それでいい」
*
マルタが戻ったと伝えると、皆すぐ神殿へ来た。
最初に入ったセリアは、マルタへ触れる前に「手、握っていいか」と聞いたらしい。出てきたセリアは何も言わなかったが、目だけ真っ赤だった。
ミレアは最初から泣いた。
クラリッサも途中から泣いた。
リサは部屋の中では平静だったが、出てくると廊下の壁へ背中を預け、長い間そこから動かなかった。
最後に入った女将の第一声だけは。
「飯食える?」
だった。
「女将」
「何さ」
「もっと他にあるだろ」
「食えるかい?」
マルタが笑う。
「腹減った」
「ならまだ大丈夫だね」
「判断基準それか?」
「食えなくなったらもっと心配するよ」
「パン」
「何がいい?」
「肉入ってるやつ」
「明日持ってくる」
「今日」
「治療師に怒られるよ」
「じゃあ明日」
「ああ」
女将はマルタを哀れむ顔をしなかった。
以前と同じように話した。
それが。
マルタには。
よかったらしい。
*
数日後。
マルタはまだ神殿にいた。折れた腕も、刺された脚もすぐには治らない。巨人へ固定されていた部分には痕が残り、長期間まともに歩いていなかったせいで、自力で立つ訓練からやり直す必要もあった。
それでも食べる。
喋る。
悪態もつく。
「退院したら剣振れるかな」
「まず歩け」
「分かってる」
「護衛に戻る?」
聞いてから少し後悔した。
でもマルタは真面目に考えた。
「戻りたい」
「そっか」
「戻れるかは知らん。腕がどこまで戻るか。脚も。巨人見た時に身体が動くかも分からん」
「うん」
「でも」
俺を見る。
「鎧には戻りたくない」
「当たり前だろ」
「なら、守る方へ戻りたい」
少し。
笑った。
「人間をな」
「そっか」
「ああ」
元に戻ったわけじゃない。
元のマルタと。
まったく同じでもない。
でも。
先のことを。
自分で決めようとしている。
*
夜。
パン屋へ戻った。
少し前まで女は八人いた。
三人消えて五人になった。
マルタが見つかった。
六人。
ただし本人はまだ神殿にいる。
食卓には女将、リサ、セリア、ミレア、クラリッサ。
そして壁際に。
空いた椅子。
「一人戻ったね」
ミレアが言った。
「うん」
「あと二人」
サラ。
エリナ。
「戻ってくるよ」
クラリッサが言った。
願いみたいな声だった。
「うん」
今度は俺も言った。
「戻ってくる」
夜。
部屋へ戻って日記帳を開いた。
現実の状況説明は何も書かれていない。
しばらくして。
文字が増えた。
『一名のみを先行して再登場させる構成。』
『残る行方不明者への期待および不安を維持可能。』
「……」
『救出を物語上の終了地点とせず、不可逆的な経験を受けた人物の帰還後を描写する構成――有効。』
『以前の役割へ戻ろうとする過程を追加することで、救出後にも継続的なストーリーを形成可能。』
マルタが何をされたか。
どんな傷があるか。
日記は。
説明しない。
AIとして。
ここからどうすれば。
物語として面白いか。
それだけを考えている。
『残る二名について、同様の捜索・発見・救出を反復する場合――展開の重複感が強い。』
「……」
『異なる形式による再登場を検討します。』
俺は。
日記帳を閉じた。
「同じでいいよ」
誰も聞いていない。
「同じように助けて、同じように帰ってきてくれよ」
もちろん。
返事はない。
あと。
二人だった。




