第七十四話 日常編を生まないようにします
「女将。服」
朝、厨房へ下りると、女将はまた裸だった。昨夜からそのままなのだと分かるほど髪は乱れている。それでも本人は何事もなかったように鍋をかき混ぜ、焼き上がったパンを切り、俺の皿だけ肉を多めに積んでいた。
「後で着るよ」
「昨日も聞いた」
「なら説明はいらないね」
「そういう問題じゃない」
「今さらあんたに隠す必要がないだろ」
女将は俺の返事を待たず、俺がいつも座る椅子を引いた。
「ほら」
「自分で座れる」
「知ってるよ」
肩を押され、そのまま座らされる。スープが置かれ、パンが置かれ、俺が塩へ手を伸ばすより先に女将が適量を振った。
「勝手にやらないで」
「あんたこのくらいだろ」
「そうだけど」
階段から足音がした。ミレアが下りてくる。
「おはよ――」
一瞬、止まった。
女将は見られていることに気づいている。それでも隠さない。それどころか俺の後ろへ回り、寝癖を手で直し、襟元まで整えた。
「今日は依頼ないんだろ?」
「午後にギルド見るけど」
「昼までは店手伝いな」
「はい」
俺が返事をしたところで、ミレアが小さく笑った。
「もう夫婦みたい」
「まだ違うよ」
女将はそう答えながら、俺の皿へもう一枚パンを置いた。
「まだ、なんだ」
「ミレア」
「何も言ってないよ」
次にセリア、マルタ、エリナ、サラ、クラリッサが下りてきた。皆、一度は女将を見る。けれど女将は誰にも説明しない。クラリッサが俺の前へ茶を置こうとすると、女将が横から受け取った。
「あたしがやるよ」
「はい」
「いや、誰が入れても同じ――」
「黙って飲みな」
「はい」
俺専用みたいになっていた。
サラが笑う。
「露骨ね」
「何がだい」
「ルークの世話」
「昔からだよ」
「昔はそこまでじゃなかったでしょ」
女将は答えず、今度は俺の口元についていたパン屑を指で取った。そのまま何でもないことみたいに自分の指を拭う。
「……」
「何さ」
「いや」
女将は競争している顔をしていない。
そこが。
一番。
強かった。
俺の隣は自分の場所。
俺の飯を用意するのも。
服を整えるのも。
今日の予定を知っているのも。
夜、どこで寝るのか知っているのも。
全部。
当たり前。
そういう顔をしている。
マルタが肉を切りながら言った。
「縄張りっていうより、生活そのものを押さえてるな」
「何だいそれ」
「ルークの一日で、女将を通らない部分がほとんどない」
女将は少し考えた。
「そりゃ一緒に住んでるからね」
「それだけじゃないでしょ」
サラが笑う。
女将は否定しなかった。
ミレアが俺へ手を伸ばした。
「ルーク、髪まだ跳ねてる」
「あ、本当?」
「こっち」
その手が届く前に。
「じっとしてな」
女将。
先に。
直した。
「……」
ミレアの手。
止まる。
女将は気づかないふりをした。
「はい、終わり」
「ありがとう」
「ん」
ミレアが俺ではなく女将を見る。
女将。
普通に。
自分の席へ戻った。
「やっぱりわざとだよね」
「何が?」
「何でもない」
女将が勝った顔をしたわけじゃない。
でも。
結果だけ見れば。
全部。
先に取っている。
*
リサが帰ってきたのは、朝食が半分終わった頃だった。
「ただいま」
「おかえり」
女将は俺の皿へ卵を追加しながら答えた。
「また裸なの」
「まただよ」
「そう」
リサは驚かずに座った。
「朝飯は?」
「向こうで少し食べた」
「ならスープだけにしな」
「お願い」
女将はリサにも普通に世話を焼く。
ただ。
俺とは違う。
リサの皿は渡す。
俺の皿は管理する。
俺が水を取ろうとすれば先に注ぐ。
空けば足す。
食べる速度まで見ている。
リサがそれを眺めた。
「完全に位置を決めに来てるわね」
「何の話だい」
「ルークの横」
「空いてるからいるだけだよ」
「寝る時も?」
「そこまで聞くのかい」
「聞かなくても分かるけど」
女将が笑った。
それだけ。
でも。
誰も。
女将の隣へ入ろうとはしなかった。
俺自身も。
いつの間にか。
そこを。
女将の場所だと思っている。
*
朝食後。
「ルーク、午後空いてる?」
サラが言った。
「薬草市場に荷物持ち欲しいんだけど」
「ああ、それなら――」
「午後はあたしと粉屋だよ」
女将。
「え?」
「昨日言ったろ」
「聞いてない」
「今言った」
「それ昨日って言わない!」
サラが笑う。
「じゃあ明日は?」
「明日は薪」
「俺の予定表、女将が持ってるの?」
「店で暮らしてんだから当たり前だろ」
「当たり前じゃない!」
エリナ。
「じゃあ、その次の日なら」
「午前なら空くよ」
女将が答えた。
「俺本人より詳しい!」
「だから何さ」
エリナ。
思わず。
「予約制なんですね」
「俺は宿の部屋か何か!?」
皆が笑う。
女将は。
笑わない。
俺の腕を引いた。
「ほら、粉袋」
「はい」
仕事へ戻される。
強い。
俺との距離が近いとか。
裸を見せるとか。
そういうことだけじゃない。
俺の生活そのものに。
一番深く。
入っている。
*
粉屋へ行く準備をしていると、クラリッサが俺の上着を持ってきた。
「ルークさん、これ」
「ありがとう」
受け取る。
着る。
「後ろ」
「え?」
「紐が――」
「貸しな」
女将が来る。
「女将、自分でできる」
「曲がってる」
背中。
直される。
今度は袖。
「ここも」
「そこまで見る?」
「だらしない格好で外歩くな」
最後に。
胸元。
軽く。
叩く。
「よし」
「……」
「何」
「いや」
クラリッサが。
静かに笑った。
「女将さん、完全に送り出す奥さんですね」
「奥さんじゃないよ」
女将。
一拍。
「まだ」
「またまだって言った!」
「うるさいね!」
俺の背中。
叩く。
「さっさと行くよ!」
先に歩く。
俺も。
ついていく。
後ろ。
サラ。
「強いわね」
ミレア。
「うん」
リサ。
「正面から競争する意味ないでしょ、あれ」
聞こえた。
女将にも。
絶対。
聞こえている。
振り返らない。
だから。
余計に。
優位に見えた。
*
夜。
日記帳を開いた。
『ハーレム内人間関係を更新します。』
『主人公周辺成人女性――複数。』
『主人公との身体的親密関係――全員成立。』
『単純な身体関係による優位差――縮小。』
そこで。
女将。
『女将。』
『主人公との生活共有期間――最長。』
『居住空間――共有。』
『食事管理――実施。』
『衣類、体調、仕事予定、店内役割――日常的に把握。』
『主人公が本人へ確認する以前に女将が予定を決定または把握する場面――増加。』
『主人公への接触――日常動作化。』
『主人公の身体を整える、食事を与える、外出準備を行う、帰宅先を共有する、就寝環境を共有する等、恋愛行動と生活管理の境界――希薄化。』
なるほど。
今日。
ずっと。
感じていた。
『他女性に対する優位性の提示方法――直接的な宣言ではない。』
『主人公との生活上の既得関係を自然に実行することで提示。』
『結果。』
『他女性が主人公へ接触する以前に介入可能。』
『主人公の予定へ他女性より早くアクセス可能。』
『主人公の日常的世話における優先順位――高。』
『主人公自身も女将の介入を日常として受容。』
「最後が一番まずいな」
俺自身。
女将に。
「食え」
と言われれば食べる。
「働け」
と言われれば働く。
「今日はここ」
と言われれば。
だいたい。
その通りにする。
『女将の優位性。』
『肉体関係のみを根拠としない。』
『共同生活実績。』
『社会的養育者としての過去。』
『現恋人関係。』
『将来的家族形成希望。』
『以上を重ねることで形成。』
だから。
強い。
昨日今日。
恋人になっただけじゃない。
その下に。
何年分もの。
生活が。
ある。
『他女性による同一位置への即時到達――困難。』
「……」
日記。
さらに。
『ハーレム内関係の均質化――回避。』
『全女性が同じ権利、同じ距離、同じ役割となる状態――物語変化量低下のため非推奨。』
『女将の先行優位性を明確化。』
『リサの単独行動を増加。』
『セリアの自己確立状態――継続観察。』
『ミレアその他女性――個別の役割および関係性を形成。』
『以上により、女性間関係へ継続的な変化を発生。』
最後。
『平穏な共同生活のみを描く長期日常編――回避。』
『ハーレムを完成状態とせず、常に内部関係を変化させます。』
「完成させないのか……」
下から。
「ルーク!」
「何?」
「もう寝るよ!」
「今行く!」
「明日早いからね!」
「はい!」
日記を閉じる。
立つ。
階段へ。
そして。
途中で気づいた。
「……俺、どこで寝るか聞いてない」
下から。
「何してんだい!」
「女将!」
「何!」
「俺の部屋?」
「何言ってんだい」
一拍。
「あたしのところ来な!」
「……はい」
返事。
した。
日記が言っていた。
『主人公自身も女将の介入を日常として受容。』
「……これか」
もう。
かなり。
手遅れだった。
この作品の品質向上のため、ぜひ感想をお寄せください。今後の展開・キャラクター・構成・描写方針の参考として利用します。
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