第七十話 『女将に恋人ができました。』
『女将に恋人ができました。』
「いつ決まった!?」
「うるさい!」
朝一番。
厨房から女将の怒鳴り声が飛んできた。
「朝飯冷めるよ!」
「今それどころじゃない!」
「飯より大事なことがあるか!」
「ある!」
「だったら食いながらやりな!」
俺は日記帳を持ったまま階段を下りた。
昨日までの記載は。
『女将に恋人ができる。』
俺が自分で書いたものだった。
期限なし。相手なし。方法なし。
それが。
今朝。
過去形になっている。
『女将に恋人ができました。』
「だから誰だよ……」
「何が誰なんだい」
女将が俺の前へ皿を置く。
「……」
「何さ」
「近い」
「飯置いただけだろ」
「昨日から距離感がおかしいんだよ」
「気のせいだ」
即答。
そのくせ。
離れない。
俺の肩へ手を置き、そのまま首筋を指でなぞってから厨房へ戻る。
「ほら!」
「何が!」
「そういうところ!」
「朝っぱらから変なこと言ってないで食いな!」
女将は普通の顔だった。
普通なのに。
もう。
俺には。
普通に見えない。
夜。
俺の部屋へ来た。
俺を押し倒した。
互いに言葉をほとんど失ったまま、朝まで何度も求め合った。
その翌日には。
何事もなかったみたいな顔で店に立ちながら、俺へ触れる距離だけがおかしくなった。
そして今朝。
『恋人ができました。』
誰かなんて。
考えるまでもない。
「……俺じゃん」
「何が?」
「何でもない」
「なら黙って食べな」
「はい」
俺はスープを飲んだ。
女将が俺を見る。
「……」
「何」
「熱くないかい」
「大丈夫」
「そうか」
「……」
「何さ」
「いや」
こういうの。
昔からだった。
俺が熱いもの苦手なのを知っている。
腹が減ってるか聞く。
体調悪ければ気づく。
寝坊したら起こす。
服が破れてれば直す。
ずっと。
世話を焼かれてきた。
前なら。
母親みたいだ。
それで終わった。
今は。
同じことをされても。
違う意味に見える。
「……困るな」
「だから何がだい」
「俺の問題」
「変な奴」
女将が笑う。
その笑顔まで。
妙に。
意識する。
*
「で?」
昼前。
リサに捕まった。
「何が?」
「何がじゃないわよ」
「怖い」
「昨日から女将との距離がおかしい」
「……」
「やっぱり」
「何も言ってない!」
「顔に書いてある」
「皆それ言うよね」
店の奥。
ミレアがパンを並べている。
セリアは窓際。
女将は厨房。
聞かれてない。
たぶん。
「何かあった?」
「……」
「ルーク?」
「何かって?」
「その返しする時はあるのよ」
「経験則やめて」
リサがじっと俺を見る。
「女将と寝た?」
「ぶっ!」
「分かりやすい!」
「声!」
「当たりなんだ」
「何で直球なんだよ!」
「遠回しに聞く意味ある?」
「あるだろ!」
「ない」
リサ。
強い。
「成人同士なんだから、したならしたで別にいいけど」
「いや」
「何?」
「そこじゃない」
俺は小声になる。
「俺、女将のことずっと家族みたいに思ってたんだよ」
「知ってる」
「母親代わりみたいな」
「それも知ってる」
「なのに急に」
「女に見えた?」
「……」
リサが。
妙に。
納得した顔をした。
「それは面倒ね」
「だろ?」
「ルークの頭の中が」
「そっち!?」
「女将は最初から女でしょ」
「いや、それはそうだけど!」
「成人女性。血縁なし。ルークも成人男性」
「理屈はそうなんだけど!」
「じゃあ何」
「感情が追いつかない」
「ああ」
今度は。
少し。
分かってくれた。
「それは分かる」
「だろ」
「でも」
リサが厨房を見る。
「女将は追いついちゃったんじゃない?」
「……」
嫌な。
言い方。
「何に」
「自分が女だってことに」
「……」
「ルークの周りに女が増えて、ようやく自分だけ家族枠に引っ込んでるのが嫌になったんでしょ」
「そんな単純かな」
「本人に聞けば?」
「無理」
「何で」
「怖い」
「魔物より?」
「種類が違う!」
リサが笑った。
その時。
「何こそこそ話してんだい!」
女将。
「うわっ」
「ルーク! 仕事!」
「はい!」
「リサも邪魔するなら手伝いな!」
「はいはい」
俺が厨房へ向かう。
すれ違いざま。
女将の手が。
俺の腰へ。
自然に触れた。
少しだけ。
止まる。
「……」
「何だい」
「今の必要だった?」
「狭いからどかしただけ」
「絶対違う」
「知らないね」
女将は行ってしまう。
後ろ。
リサ。
笑いを堪えていた。
「見るな!」
「何も言ってない」
「顔!」
*
問題は。
日記だった。
休憩中。
もう一度開く。
『女将に恋人ができました。』
『対象――主人公ルーク。』
「明記された……」
『関係成立条件を整理。』
「しなくていい」
『双方成人。』
『血縁関係――なし。』
『長期間の共同生活――成立済み。』
『相互信頼――極めて高い。』
『生活基盤――共有。』
『身体的親密関係――成立済み。』
「そこは詳しく書くな」
『相互的な異性認識――成立。』
『女将から主人公への排他的感情――確認。』
『主人公から女将への性的・恋愛的認識――成立。』
「恋愛まで成立してる?」
そこ。
俺は。
止まった。
女として見た。
欲しいと思った。
昨夜も。
止まれなかった。
でも。
恋愛。
「……好き?」
口に出す。
今まで。
考えたことなかった。
いや。
好きか嫌いかなら。
好きだ。
当然だ。
家族として。
大事。
失いたくない。
幸せになってほしい。
だから。
そもそも。
『女将に恋人ができる。』
なんて書いた。
「それが恋愛に変わったのか?」
日記は返事をしない。
文字だけが続く。
『社会的呼称および当人間の明示的合意――未確定。』
「……そこ未確定なのに恋人にしたの?」
『物語上の関係――恋人候補から恋人へ移行可能。』
「可能?」
最初の文章を見る。
『女将に恋人ができました。』
「どっちだよ!」
また。
俺は。
頭を抱えた。
*
夜。
閉店。
「お疲れ様でした」
クラリッサが二階へ。
「じゃあ私も」
ミレア。
「おやすみ」
「おやすみ」
リサが。
俺の横を通る。
「本人に聞きなさいよ」
「余計なこと言うな!」
「何の話?」
ミレア。
「何でもない!」
皆。
部屋へ戻る。
最後。
また。
俺と女将。
厨房。
「……」
「……」
気まずい。
昨日まで。
こんなこと。
なかった。
「女将」
「何だい」
「話ある」
手が止まった。
「……何」
「昨日の」
「知らない」
「またそれ!?」
「知らないったら知らない!」
「じゃあ今日一日俺触りまくってたの何!?」
「声でかい!」
「だって!」
「……」
女将が。
俺を見る。
「それで」
「何」
「嫌だったかい」
「え」
急だった。
「今日」
女将は。
視線を逸らさない。
「触られるの」
「……」
「嫌なら」
少しだけ。
声が低くなる。
「もうやらない」
俺は。
すぐ。
答えられなかった。
嫌。
だったか。
違う。
困った。
恥ずかしかった。
どう反応すればいいか分からなかった。
でも。
嫌じゃない。
「嫌じゃない」
言った。
女将の肩が。
ほんの少し。
下がった。
「そうかい」
「うん」
「じゃあいい」
「よくない!」
「何が!」
「そこじゃなくて!」
「面倒くさい男だね!」
「関係!」
「何の!」
「俺たち!」
女将が。
黙った。
俺も。
黙る。
「……」
「……」
しまった。
めちゃくちゃ。
恥ずかしい。
「俺」
でも。
ここで逃げたら。
また。
曖昧になる。
「日記に」
言いかけて。
止める。
違う。
日記のことは。
女将には。
意味を持たない。
「俺は」
言い直す。
「女将に、恋人とかできたらいいなって思ってた」
「……」
「ずっと一人だったから」
「余計なお世話だよ」
「分かってる」
「勝手に人の相手心配して」
「ごめん」
「……」
「でも」
女将を見る。
「俺がなるとは思ってなかった」
女将の眉が。
ぴく。
動いた。
「嫌ならやめるよ」
「違う!」
「なら何だい」
「だから!」
言葉。
詰まる。
「俺」
こんな。
告白みたいなこと。
する予定じゃなかった。
「女将のこと」
「……」
「前まで女として見てなかった」
「知ってるよ!」
怒られた。
「そこ怒る!?」
「当たり前だろ!」
「でも今は違う!」
また。
静かになる。
「……」
「……」
「そうかい」
「うん」
「どう違うんだい」
「そこ言わせる!?」
「言い出したのはあんただろ」
「……」
女将。
強い。
「女」
言う。
「一人の女に見える」
「……」
「家族なのも変わらないし、大事なのも変わらない。でも」
昨夜。
今日。
全部。
浮かぶ。
「それだけじゃなくなった」
女将は。
しばらく。
黙っていた。
それから。
「面倒くさいねえ」
「俺もそう思う」
「あたしも」
「女将も?」
「当たり前だろ」
溜息。
「今更、倅みたいに育てた男に何してんだって、自分でも思ってるよ」
「そこは同じなんだ」
「でも」
女将が。
一歩。
近づく。
「他の女に取られると思ったら」
「……」
「もっと嫌だった」
初めて。
本人の口から。
出た。
「嫉妬してた?」
「聞くな!」
「はい」
「……」
「でも」
「何だい」
「ちょっと嬉しい」
「殴るよ」
「何で!」
「調子乗るから」
「まだ何もしてない!」
女将が。
笑った。
いつもの。
笑顔。
でも。
近い。
「それで?」
「何」
「あたしに恋人ができればいいと思ってたんだろ?」
「うん」
「だったら」
女将。
俺の胸を。
指で。
軽く。
押した。
「あんたがやりな」
「……」
「嫌かい」
「嫌じゃない」
「じゃあ決まり」
「そんな簡単!?」
「何日悩めば満足なんだい」
「恋人ってもう少しこう!」
「昨日あれだけやっといて、今更順番気にするのかい?」
「ぐっ」
何も。
言えない。
「女将」
「何だい」
「じゃあ」
ものすごく。
恥ずかしい。
「付き合う?」
「……」
女将。
俺を見る。
そして。
「今更だねえ」
笑った。
「付き合うよ」
「……そっか」
「何だい」
「いや」
俺も。
笑った。
「そっか」
何だろう。
昨日。
あれだけ。
激しいことをしたのに。
この一言の方が。
妙に。
心臓に来た。
*
部屋へ戻る。
日記。
開く。
『女将に恋人ができました。』
「……」
その下。
『対象――ルーク。』
『当人間の明示的合意――成立。』
『恋人関係――確定。』
「確定した……」
俺が。
書いた。
『女将に恋人ができる。』
それは。
確かに。
叶った。
店。
燃えてない。
誰も死んでない。
魔物も来てない。
村も滅びてない。
死人。
なし。
怪我人。
なし。
期限も。
つけなかった。
方法も。
決めなかった。
「……成功?」
怖い。
でも。
これ。
成功じゃない?
俺が望んだ通り。
女将に。
恋人ができた。
しかも。
女将自身も。
嫌じゃない。
俺も。
嫌じゃない。
「今回は……」
言うな。
分かってる。
でも。
「さすがに大丈夫だろ」
言った。
日記。
文字。
増えた。
「……」
『既存主要女性キャラクターとの関係整合性を再評価します。』
「……あ」
リサ。
成人同士の。
親密関係。
成立済み。
「待って」
『主人公と女将の恋人関係成立に伴い、既存女性キャラクターの感情および関係性についてストーリー上の整理が必要です。』
「待って待って待って」
セリア。
ミレア。
それに。
一気に増えた。
四人。
『主人公周辺の成人女性キャラクター数――多数。』
「数えなくていい!」
『恋人――一名。』
『身体的親密関係成立済み女性――複数。』
「そこ並べるな!」
『今後の人間関係変化――利用可能。』
「利用するな!」
階下。
「ルーク!」
「はい!」
女将。
「明日の朝早いんだから寝な!」
「分かった!」
一瞬。
笑う。
恋人。
になった。
でも。
女将は。
女将のままだ。
「……これなら」
安心。
しかける。
日記の最後。
『恋愛関係の複数化について検討します。』
「やめろ!」
俺の声が。
夜のパン屋に。
響いた。
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