外伝 殺人鬼
「何で……まだ、生きてるの?」
目を覚まして最初に思ったのは、自分の身体がどうなったのかではなかった。生きている。それがおかしかった。意識が戻った瞬間、酷いことをされたのだと分かった。けれど想像していたほどの激痛がない。痛くないわけじゃない。身体中がおかしい。それでも、もっと痛くて当然のはずなのに、頭の奥へ薄い膜でも張られたみたいに痛みが遠い。
「起きた?」
女の声がした。
明るい。優しい。病人を起こすみたいな声だった。
「……何、したの」
「いっぱい」
「私に……何したの」
「見れば分かるよ」
見た。
そして、悲鳴が出なかった。
右手だけがあった。
指が五本。手首。腕。その一本だけ。ほかは、もう自分が知っている身体ではなかった。失われた場所には処置の跡がある。傷は放置されていなかった。布が巻かれ、その下では傷口そのものまで縫い合わされているらしいことが分かった。
「……なんで」
女は私の横へ座っていた。知らない女。名前も知らない。ただ、笑っている。
「なんで、手当てしてるの……?」
「すぐ死んだら困るから」
頭の中が止まった。
「……え?」
「血が出っぱなしだったら、すぐ終わっちゃうでしょ」
女はまるでパンでも焦がす話をしているみたいだった。
「薬も使ったよ」
「薬……?」
「痛いの、少し遠いでしょ?」
そこで私は、腕に残る小さな痕へ気づいた。何かを注射された。薬の名前なんて分からない。ただ、強い鎮痛薬だということだけは分かった。
「麻薬……?」
「たぶん、そういう分類」
「何で……」
「痛すぎても、長く頑張れないから」
「何を……頑張るの」
女が私の右手を見る。
「這うの」
全身が冷えた。
「……嫌」
「でも、それ残したから」
「嫌」
「私もそれで這えたよ」
「嫌!」
女は怒らなかった。
「じゃあ、ここにいる?」
「助けて」
「それはしない」
「衛兵を呼んで」
「呼ばない」
「家に帰して!」
「帰りたいなら這わないと」
私は泣いた。何が起きているのか分からない。どうしてこんなことをされたのかも分からない。それなのに、この女だけが全部分かっている顔をしていた。
「何で私なの……?」
「昨日」
「昨日?」
「お婆ちゃん」
それだけで、すぐには思い出せなかった。
「何の……」
「大通りで困ってた」
「……」
「荷物、重そうだった」
ようやく思い出した。
仕事へ向かう途中。遅刻しそうだった。老婆に「少し向こうまで荷物を運んでくれませんか」と頼まれた。私は断った。
「……あれ?」
「うん」
「それ?」
「それ」
「それだけ?」
女の笑顔が少し変わった。
「それだけ?」
「だって!」
思わず声を荒らげた。
「仕事があったの! 遅刻できなかったの! あのお婆さんだって怪我してなかった! 死にそうでもなかった! ただ荷物が重かっただけでしょ!」
「うん」
「だったら!」
「困ってた」
「だからって、こんなことする!?」
「するよ」
「おかしい!」
「そう?」
「私は誰も殺してない!」
「でも助けなかった」
「そんなこと誰だってある!」
女が、ぴたりと止まった。
それから。
「……あ」
妙な声を出した。
「何……」
「今の」
「何?」
「もう一回言って」
「嫌」
「お願い」
女の頬が緩んでいる。目が熱に浮かされたみたいに細くなる。肩が小さく震えていた。
「何なの……」
「もう一回」
「誰だって……助けないことくらいある」
「……違う」
「何が!」
「その前」
女は私を見たまま、自分自身へ手を伸ばした。
「助けなかっただけ、って言って」
「……」
「言って」
理解したくなかった。
「何してるの……?」
「いいから」
女は自分への刺激を始めていた。
「やめて……」
「言って」
「何なの、あんた……」
「お願い」
「……助けなかっただけ」
瞬間。
「お゛っ……」
女の身体が大きく震えた。
「……」
私は息を止めた。
肩。背中。腕。全身が痙攣するみたいに揺れ、女は一度床へ手をついた。
「はぁ゛……はぁ……」
「……何なの」
女は顔を上げた。
笑っていた。
「本当に」
呼吸が濁る。
「酷い」
「違う!」
「お婆ちゃんが困ってたのに」
「だから何なの!」
「見たよね」
「見た!」
「分かってたよね」
「分かってた!」
「それで行った」
「仕事があったから!」
「うん」
女がまた震え始める。
「そういう人」
「何が!」
「自分の方が大事な人」
「当たり前でしょ!」
女の目が大きく開いた。
「……あ゛っ」
また全身が跳ねる。
「やめてよ……」
「ふふ……」
「こっち見ながらそんなことしないで!」
女は笑った。
「じゃあ、這って」
「何で!」
「見たいから」
「何を!」
「あなたが生きようとするところ」
もう。
本当に。
意味が分からなかった。
私は右手を床へついた。
死にたくない。
理由なんてそれしかなかった。
指で床を掴み、身体を引く。
ずる。
ほんの少しだけ動いた。
「そう」
女の声が弾んだ。
「できるじゃん」
「助けて……」
「もう一回」
「お願い……」
「頑張って」
もう一度、右手を伸ばした。床を掴む。引く。薬のせいなのか、意識が少しぼやける。それでも痛みは消えない。鈍く、重く、身体の奥に居座っている。
「……っ」
「上手」
「黙って……」
「でも見てる」
「見ないで!」
「嫌」
また這う。
女は隣をついてくる。
逃げないように押さえつけるわけでもない。ただ、私と同じ速度で歩く。私が止まれば止まり、私が這えば歩く。
そして。
「はぁ゛……」
また。
自分自身へ触れ始める。
「やめて……」
「もう一回」
「やめてよ……」
「這って」
「嫌……」
「死にたい?」
「死にたくない!」
女の身体が跳ねた。
「お゛っ……あ゛……」
喉から、声なのか息なのか分からない濁った音が漏れる。肩が震える。女は歓喜していた。
私が。
死にたくない。
そう言ったことに。
「……何で」
「はぁ゛……」
「何でそんなに嬉しそうなの」
「だって」
女は呼吸を整えながら笑った。
「あなたも今は、助けてほしいんだね」
「……」
「お婆ちゃんと同じ」
「違う!」
「同じだよ」
「違う!」
「あの人も困ってた」
「こんなのと一緒にしないで!」
「困ってる人には」
笑顔。
「大きいも小さいもないでしょ」
「あるよ!」
「私はないと思う」
その瞬間。
分かった。
この女とは。
何を話しても。
駄目だ。
基準が違う。
私は老婆の荷物を運ばなかった。
だから。
死んでいい。
この女の中では。
本当に。
それだけで。
つながっている。
「狂ってる……」
「そうかな」
「狂ってるよ」
「でも」
女は私を見る。
「あなたはいなくなる」
「……」
「そうしたら、もう困ってる人を見捨てない」
「……」
「二度と」
嬉しそうに笑う。
「悪いことできなくなる」
背筋が凍った。
*
どれくらい時間が経ったのか分からない。
女は、私をすぐには死なせなかった。
傷が開いたように見えれば処置した。意識が痛みに飲まれそうになると、用意していた強い鎮痛薬を使った。やり方は分からない。何をどれだけ使われているのかも分からない。ただ、私は何度も思った。
この女は。
私を助けているんじゃない。
死なせないようにしている。
それだけ。
「何で……」
声がもうほとんど出ない。
「何?」
「何で……手当て……」
「言ったでしょ」
「……」
「すぐ終わったら嫌だから」
「……」
「せっかく右手残したんだもん」
女が私の右手を見る。
「ちゃんと使って」
「もう……無理」
「まだ指動くよ」
「無理……」
「じゃあ休む?」
優しい声。
一瞬。
ほっとした。
自分でも信じられない。
この女の「休む」という言葉に。
安心した。
「……うん」
「いいよ」
女は床へ座った。
私の隣。
少しだけ。
何もしなかった。
「……」
「……」
静かだった。
私は。
もしかしたら。
少しだけ。
この女にも。
何か。
人間らしいものがあるんじゃないかと。
思ってしまった。
「ねえ」
「……何」
「あのお婆ちゃん」
「……」
「今だったら助ける?」
涙が出た。
「助ける……」
「本当に?」
「助けるよ……」
「どうして?」
「こんな目に遭いたくないから……」
女の笑顔が。
消えた。
「……」
「何?」
「違う」
「何が……」
「そこじゃない」
「じゃあ何て言えばいいの!」
女は。
少し悲しそうな顔をした。
「困ってるから助ける、でしょ」
「そんなの……」
無理。
この女の正解を。
当て続けるなんて。
できない。
女がまた笑った。
「休憩終わり」
「嫌……」
「ほら」
「嫌!」
「右手」
「やめて!」
「使って」
「もう嫌!」
「死にたくないんでしょ?」
「……」
「なら」
女の目がまた熱を帯びる。
「見せて」
*
私はまた這った。
右手。
床。
掴む。
引く。
「そう」
女もついてくる。
「頑張って」
「……」
「もう少し」
「うるさい……」
「ふふ」
また。
あの笑い。
私が這えば。
女が震える。
「はぁ゛……」
私が止まれば。
「もう一回」
催促する。
這う。
「お゛っ……」
女が身体を震わせる。
崩れる。
息を吐く。
それでも。
少し経つと。
また。
自分への刺激を繰り返す。
何度も。
何度も。
「そんなに……」
「何?」
「楽しいの……?」
女は少し考えた。
「楽しい?」
「……」
「違うかも」
「じゃあ何」
「嬉しい」
「何が……」
「酷い人が」
にこっと。
笑う。
「一人減る」
「私は酷くない……」
「酷いよ」
「犯罪なんてしたことない……」
「関係ない」
「誰も殴ってない……」
「うん」
「誰も殺してない……」
「うん」
「じゃあ!」
「助けなかった」
「それだけじゃない!」
女の身体がまた震えた。
「お゛……あ゛っ……」
「……」
私は。
その音を聞くたび。
寒くなった。
何度見ても。
慣れない。
人が死にかけている横で。
この女は。
嬉しくて。
たまらない。
「酷い人」
「……」
「いなくていい」
「……」
「いなくなった方が」
濁った呼吸。
「みんな」
笑顔。
「幸せ」
「……」
狂っている。
でも。
この女自身は。
狂っているとは。
少しも。
思っていない。
そこが。
一番。
怖かった。
*
出口が見えた。
ずっと前から見えていた。
でも。
やっと。
本当に。
近くなった。
「……もう少し」
右手を伸ばす。
床を掴む。
引く。
「そう」
女が横で言う。
「頑張って」
「黙って……」
「うん」
今度は黙った。
私は這う。
薬で痛みが遠くなっていても、身体そのものがもう動かない。意識も何度も沈みそうになる。
それでも。
出口。
少し。
近づく。
頭に。
昨日の老婆。
浮かんだ。
「すみません」
重そうな荷物。
「これを向こうまで……」
私は。
「ごめんなさい」
行った。
仕事へ。
もし。
戻れたら。
今度は。
止まる。
荷物を持つ。
何でもする。
「……お願い」
声。
出ない。
右手。
伸ばす。
床。
掴む。
引く。
もう少し。
「……」
女が見ている。
私を。
ずっと。
見ている。
「……助けて」
「……」
「お願い……」
今度は。
女も。
何も言わない。
「もう……いいでしょ……」
右手。
伸ばす。
指が。
床に触れる。
動かない。
「……」
「……」
「まだ?」
女が。
しゃがんだ。
私の顔を覗き込む。
「もう一回」
無理。
「頑張って」
無理。
「出口、近いよ」
分かってる。
「ほら」
右手。
動かない。
女の顔が。
少しずつ。
嬉しそうになる。
「……そっか」
声が震えた。
「終わるんだ」
また。
自分自身へ手を伸ばす。
「はぁ゛……」
嫌だ。
最後まで。
これを見るの。
嫌だ。
「お゛っ……あ゛……」
女の身体が。
歓喜に震える。
「よかった」
私を見る。
「こんなに酷い人」
笑う。
「もう」
濁った息。
「いなくなる」
その顔が。
最後まで。
見えていた。
*
翌朝、死体はすぐに見つかった。
成人女性。普通の仕事をしていた。犯罪歴なし。借金による揉め事なし。暴力沙汰なし。他人から強い恨みを買っていた形跡も見つからなかった。
ただ。
片手だけが残されていた。
そして、その手を使って長い距離を這った跡が、出口へ向かって続いていた。途中には、犯人が被害者を放置せず、傷へ何らかの処置を施した痕跡も確認された。強い鎮痛薬が使われていたことも分かった。
衛兵の一人が、顔を青くした。
「殺さないために?」
別の男が答える。
「いや」
床。
長く続く。
這った跡。
「殺すまでの時間を、延ばしたんだろう」
今までの被害者とは違った。
今回の女には、分かりやすい悪評がない。人を騙していない。暴力を振るっていない。殺そうともしていない。
近所の者は言った。
「普通の人でした」
同僚は言った。
「悪い人じゃありません」
家族は泣いた。
「どうしてこの子が」
誰にも分からなかった。
ただ、前日の昼。
大通りで。
一人の老婆が重い荷物を抱えて困っていた。
その横を。
仕事へ急いでいた一人の女が。
通り過ぎた。
そして。
それを見ていた人間が。
一人だけ。
いた。
その人間だけは。
彼女を。
「悪い人ではなかった」
とは。
最後まで。
思わなかった。




