第六十九話 女将の爛れた色気が漏れる
『女将の爛れた色気が漏れる。』
「漏らすな!」
「朝から何叫んでんだい!」
厨房から女将の怒鳴り声が飛んできた。
「何でもない!」
「だったら飯食いな!」
「はい!」
俺は日記帳を閉じた。
昨日までだったら、それで終わった。
女将に怒鳴られる。俺が返事をする。朝飯を食う。いつもの朝。
でも。
今日は違った。
「ほら」
「え?」
皿を置いた女将が、そのまま俺の後ろへ回った。
「襟、曲がってるよ」
「自分で――」
「じっとしてな」
背後から両手が伸びてきた。襟を直すだけのはずなのに、女将の指が首筋をなぞり、そのまま肩から胸へゆっくり下りる。
「……女将?」
「何だい」
「もう襟じゃないよね?」
「服に粉ついてる」
「胸まで払わなくていいでしょ!」
「うるさいねえ」
ぱん、ぱん。
胸元を叩かれる。
それだけなら、まだ分かる。
最後。
手のひらが妙にゆっくり離れた。
「……」
「何さ」
「いや」
女将。
普通の顔。
昨日の朝と同じ。
前掛け。
まとめた髪。
厨房から出てきたばかりだから、腕には小麦粉。
全部。
いつもの女将。
なのに。
「はぁ……」
俺の耳のすぐ横で。
息。
「っ!」
振り向く。
「近い!」
「襟直しただけだろ」
「絶対それだけじゃない!」
「朝から何考えてんだい」
「俺が悪いの!?」
女将は鼻で笑って厨房へ戻った。
腰。
揺れている。
「……」
今まで。
そんなところを。
見たことなかった。
いや。
見ようとしたことが。
なかった。
頭の中へ昨夜が戻る。
「駄目だ」
「何が駄目なの?」
「うわっ!」
今度はミレア。
「今日も驚きすぎ」
「皆、背後から来るのやめて!」
「普通に歩いてきただけ」
ミレアは俺と厨房を交互に見た。
「……何?」
「別に」
にこっ。
「なんかあった?」
「ない!」
「早い」
「何もない!」
「ふーん」
絶対。
信じてない。
*
もっと困ったのは。
あれが朝だけでは終わらなかったことだった。
「ルーク」
「はい」
パンを運んでいる途中。
女将が呼ぶ。
「何?」
「ちょっと」
「だから何?」
「こっち来な」
近づく。
女将が俺の腰へ手を回した。
「……」
「……」
「女将」
「何だい」
「俺、何も運んでないよ?」
「見れば分かる」
「じゃあ何で腰掴んでるの?」
「邪魔だったから動かした」
ぐい。
身体を横へずらされる。
「口で言って!」
「こっちの方が早い」
「今までそんなことしなかった!」
「そうだったかい?」
「そうだったよ!」
女将。
何でもない顔で仕事へ戻る。
おかしい。
絶対。
おかしい。
しかも。
触り方が。
いちいち。
長い。
肩を押すだけでいいのに。
肩から腕。
腕から背中。
背中から腰。
どこかへ移動させる時も。
ただ押すんじゃない。
手のひらが。
妙に。
俺の身体を確かめる。
「……」
『女将の爛れた色気が漏れる。』
「これかよ……」
「ルーク!」
「はい!」
「客!」
「今行く!」
「いらっしゃいませ!」
店へ出る。
女性客。
「胡桃パン二つください」
「二つですね」
「それと」
客が笑う。
「こっちも」
「はい」
包む。
「銅貨六枚です」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
普通。
これが。
普通。
俺は客を送り出す。
「ありがとうございました!」
「ルーク」
「何?」
後ろから。
女将。
「ちゃんと接客できるじゃないか」
「そりゃできますよ」
「そうかい」
ぽん。
肩。
そして。
そのまま。
胸元を。
ゆっくり。
撫でられた。
「……っ!」
「何さ」
「人前!」
「何が?」
「何がって!」
女将はもう離れている。
今の。
見られた?
振り向く。
ミレア。
「……」
「……」
目が合った。
「何」
「何でもない」
「絶対何か思ってる!」
「何でもないって」
笑ってる。
「ミレア!」
「私何も言ってないよ!」
「顔!」
「顔は仕方ないでしょ!」
リサまでいる。
こっちを見ている。
「……」
「リサ」
「私は何も見てない」
「まだ聞いてない!」
「何も見てない」
「二回言うな!」
セリア。
「今のは見たぞ」
「セリア!」
「何で私が怒られる」
「頼むから忘れて!」
「何を?」
「もういい!」
嫌だ。
俺以外。
皆。
何か。
察し始めてる。
*
「ルーク」
午後。
「何?」
「こっち来な」
「また?」
「いいから」
厨房。
女将の横へ行く。
「これ持って」
「粉?」
「ああ」
「これなら普通だ」
「何が普通なんだい」
「こっちの話」
袋を持つ。
女将が横に立つ。
近い。
「女将」
「何」
「もう少し離れても作業できるよね?」
「狭いんだよ」
「昨日まで狭くなかったよ!」
「昨日より人が増えただろ」
「増えてない!」
「細かい男だね」
肩。
触れる。
腰。
触れる。
女将は気にしない。
俺だけ。
意識している。
「……」
「何赤くなってんだい」
「誰のせいだよ!」
「知るか」
女将が俺を見上げた。
近い。
昨日。
何度も見た。
あの目。
ほんの一瞬。
同じものが。
出た。
「……」
俺も。
止まる。
女将も。
止まる。
「女将」
呼ぶ。
瞬間。
目が戻った。
「何ぼさっとしてる!」
「切り替え早っ!」
「さっさと運びな!」
「はい!」
追い出された。
本当に。
何なんだ。
*
さらに。
悪化した。
夕方。
「ルーク」
「はいはい」
もう。
呼ばれるだけでは驚かない。
「何?」
女将の横。
「耳貸しな」
「何で?」
「いいから」
「?」
少し屈む。
耳。
女将が口元を近づける。
「……」
囁かれた。
今日。
服の下に何を着けていないのか。
ものすごく。
どうでもよくない秘密を。
「っ!?」
俺は飛び退いた。
「何言ってるの!?」
「声でかい!」
「そっちのせいだろ!」
「誰にも言うんじゃないよ」
「何で俺に言ったの!?」
「さあね」
「さあねじゃない!」
女将は笑ってる。
楽しんでる。
完全に。
俺の反応を。
楽しんでる。
「……」
しかも。
一度。
そういう目で見てしまうと。
もう。
駄目だった。
女将の服。
いつもの。
何の変哲もない服。
なのに。
胸元の布が。
いつもより。
わずかに張って見える。
意識した瞬間。
目を逸らした。
「見るんじゃないよ」
「見せてるのそっちだろ!」
「何を?」
「知らない!」
「変な男だねえ」
「俺がおかしいみたいに言うな!」
女将。
口元。
笑ってる。
俺は。
日記を開いた。
『女将の爛れた色気が漏れる。』
「だから具体的に漏らすなよ!」
「何が漏れたの?」
「ミレア!」
「呼ばれた気がした」
「呼んでない!」
「女将と何してたの?」
「何もしてない!」
「ふーん」
ミレアが女将を見る。
女将。
普通。
「仕事してただけだよ」
「そうなんだ」
「ああ」
「じゃあルーク、何でそんな真っ赤なの?」
「暑い!」
「今日寒いよ」
「厨房が暑い!」
「さっきまで店にいたよ」
「もう勘弁して!」
ミレア。
笑う。
女将も。
笑ってる。
絶対。
わざとだ。
*
夜。
夕食。
「今日のルーク変じゃない?」
エリナが言った。
「いつも変よ」
リサ。
「ひどい!」
「今日は特に」
サラまで。
「顔赤くなったり青くなったり」
「忙しかったから!」
「そんな仕事した?」
クラリッサ。
「した!」
「私より?」
「……」
クラリッサ。
今日ずっと帳簿と店番。
俺より働いてる。
「ごめんなさい」
「何で謝るんですか?」
皆。
笑う。
「若い男なんてそんなもんだよ」
女将が言った。
「女将!」
「何だい」
「他人事みたいに言うな!」
「何であたしの責任なんだい」
「……」
言えない。
女将。
平然。
スープ。
飲んでる。
「ルーク」
ミレア。
「何」
「仲いいね」
「前から!」
「今日は特に」
「……」
女将。
一瞬。
俺を見る。
俺も。
見る。
「……」
「……」
目。
逸らした。
「怪しい」
リサ。
「怪しくない!」
「まだ何も言ってない」
「言っただろ!」
「怪しい、とは言ったけど何がとは言ってない」
「それ屁理屈!」
皆が笑う。
女将も。
笑う。
いつもの。
食卓。
でも。
女将の足が。
机の下で。
一度。
俺へ。
触れた。
「……っ」
すぐ。
離れる。
偶然。
かと思った。
もう一度。
触れる。
「……」
女将。
こっちを。
見ない。
普通に。
「クラリッサ、明日の仕入れ帳できてる?」
「はい」
「後で見せて」
「分かりました」
会話。
普通。
なのに。
机の下。
俺だけ。
分かる。
「……」
俺は。
もう。
何も言えなかった。
*
夜。
部屋。
「……」
眠れない。
当たり前だ。
今日は。
一日。
女将のことばかり。
考えていた。
昨日まで。
こんなことなかった。
そもそも。
俺は。
女将を。
女として。
ほとんど。
見ていなかった。
昨夜。
一晩で。
それが。
壊れた。
そして。
今日。
女将自身が。
壊れたまま。
日常へ戻ってきた。
いや。
違う。
日常に。
持ち込んできた。
「……」
日記。
開く。
『女将の爛れた色気が漏れる。』
「嫌な表現」
下。
『前夜の関係変化――継続。』
『従来の疑似親子関係のみを前提とした接触距離――消失。』
『女将から主人公への身体接触――増加。』
『接触理由の必要性――低下。』
「理由なしで触るな」
『主人公の女将に対する成人女性としての認識――固定。』
「固定しないで!」
その下。
『女将側も主人公の反応を認識。』
『主人公が自身を女性として意識することへの満足――高。』
「だから楽しんでたのか……」
昼。
何度も。
俺が慌てるたび。
笑っていた。
『前夜まで抑制対象であった色気、身体的距離および異性としての自己認識――日常生活へ流出。』
「それを」
最初の一行。
「爛れた色気が漏れるって言ってるのか」
文字。
増える。
『はい。』
「会話するな!」
俺は思わず立ち上がった。
そして。
止まった。
「……」
今。
返事した。
駄目だ。
「違う」
ペンを掴む。
書く。
『作中認識および日記帳挙動について再調整を実施。』
『日記帳は主人公との会話を行わない。』
『主人公の発言または疑問へ応答する形式の記載を禁止。』
「……よし」
少し待つ。
文字。
『前夜の関係変化が日常へ及ぼす影響について継続記録。』
「そう。それならいい」
これは。
返事じゃない。
独立した記録。
『女将。』
『社会的養育者に近い役割――継続。』
『パン屋店主――継続。』
『主人公への生活上の世話――継続。』
『主人公への異性的欲求――追加。』
「追加するなよ……」
最後。
『以上の要素は相互排他的ではありません。』
「……」
それが。
一番。
困る。
女将は。
女将のまま。
俺へ飯を作る。
俺を叱る。
店で働かせる。
寝坊すれば怒鳴る。
それなのに。
その合間。
突然。
俺へ。
女として。
近づいてくる。
以前の女将が。
消えたわけじゃない。
残ったまま。
もう一人。
俺の知らなかった女が。
表へ出てきた。
「……寝よう」
日記を閉じる。
布団。
入る。
目を閉じる。
少し。
すると。
廊下。
足音。
「……」
止まる。
俺の。
部屋の前。
「……まさか」
扉。
少しだけ。
開いた。
女将の顔。
「起きてるかい」
「……起きてる」
昨日と違って。
服は着ていた。
それだけで。
少し。
安心した。
女将。
部屋へ。
入る。
扉。
閉める。
「何?」
聞く。
女将が。
近づく。
そして。
俺の耳元。
「……」
また。
昼間と同じ。
服の下についての。
余計な秘密。
「何で二回言うの!?」
「声!」
「言わせてるのそっちだろ!」
女将は。
笑った。
俺は。
頭を抱えた。
どうやら。
『女将の爛れた色気が漏れる。』
漏れるどころか。
完全に。
日常へ。
入り込んできたらしい。
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