第六十八話 『女将に恋人ができる』
『女将に恋人ができる。』
「これなら大丈夫だろ」
俺は日記帳へ、たった一行だけ書いた。
期限は書かない。相手も指定しない。どこで知り合うかも、どうやって恋仲になるのかも、何一つ決めない。
これまで散々失敗した。
一週間と書けば、世界は一週間に間に合わせるために無茶をする。明日までと書けばもっと酷い。方法まで指定すれば、その方法を成立させるために周囲の事情がねじ曲がる。
だったら、何も決めなければいい。
女将だって成人女性だ。ずっと一人でパン屋を切り盛りして、俺を拾い、飯を食わせ、住む場所をくれた。今じゃリサ、セリア、ミレア、そのうえ新しく来た女たちまで店へ出入りしている。
他人の面倒ばかり見ている。
なら、いつか女将にもいい男ができたっていい。
『記載内容を確認。』
『女将に恋人ができる。』
『期限――指定なし。』
『成立方法――指定なし。』
『対象人物――指定なし。』
「そう。何も急がなくていい」
そこで文字は止まった。
「……よし」
余計なことを書かない。
これが一番安全だ。
*
その日の女将は、少しだけ機嫌が悪かった。
「ルーク、これ持って」
「はい」
クラリッサに頼まれて帳簿箱を持ち上げると、
「ルーク! 三番棚!」
「今行く!」
厨房から呼ばれた。
サラが試作品を差し出せば、
「味見してみて」
「何これ」
「薬草入り」
「ルーク! 昼飯!」
「今食べる!」
ミレアが俺の襟についた粉を取ろうとすると、
「じっとして」
「ありがとう」
「ルーク!」
「今度は何!?」
「……水樽見てきな!」
「何で今!?」
そんなことが何度か続いた。
「女将、今日変じゃない?」
ミレアが小声で言った。
「忙しいんじゃない?」
「そうかなあ」
俺は、その程度にしか考えなかった。
夕食の席でマルタが、
「しかし、ルークの周りって本当に女ばっかりだな」
と笑った時だけ、女将の手が止まった。
「俺が集めてるんじゃないからね!」
「でも皆、ルークと仲良いよね」
「やめて。並べると嫌な感じになる」
皆が笑った。
女将だけは一瞬黙り込み、それから俺の空いた皿を乱暴に回収した。
「食べ終わったなら片付けな!」
「はい!」
それで終わった。
少なくとも、その時の俺はそう思っていた。
*
夜中。
扉の軋む音で目が覚めた。
「……誰?」
返事はなかった。
廊下の微かな光を背に、人影が立っている。
「女将?」
言葉が止まった。
何も着ていなかった。
いつもの服も、前掛けもない。小麦粉をつけて厨房を歩き回り、鍋を振り、俺へ怒鳴っている姿とはあまりにも違う。
「……何して」
最後まで言えなかった。
女将が後ろ手に扉を閉めた。
部屋が暗くなる。
「……はぁ゛……」
返ってきたのは言葉ではなかった。
濁った息。
一歩、近づく。
「女将……?」
「はぁ゛……」
もう一歩。
月明かりが僅かに顔へ落ちた。
目が違った。
昼間の女将じゃない。
俺を叱る店主でも、飯を食わせる年長者でも、俺を「うちの倅」と呼ぶ家族でもない。
ただ。
俺だけを見ていた。
その視線を受けた瞬間、昼間の出来事が少しだけ頭をよぎった。クラリッサに呼ばれた時。サラと話していた時。ミレアが俺へ触れた時。
でも、それを考える余裕はすぐになくなった。
女将の手が俺の頬へ触れたからだ。
「……っ」
指先が震えている。
「はぁ゛……」
近い。
俺も手を伸ばした。
肩に触れた。
その瞬間。
「……っ!」
女将が大きく震えた。
次の瞬間には、俺の頭を両手で掴み、唇を重ねていた。
「ん゛っ……!」
優しくなかった。
確かめるための口づけでもない。
最初から、互いに息を奪うような強さだった。
「……ん゛……っ」
離れる。
荒い息。
「はぁ゛……はぁ……」
俺も同じだった。
「お゛……っ」
喉から変な音が出た。
息を吸う暇もなく、また唇を塞がれる。
「ん゛っ……!」
女将の方が、圧倒的に巧かった。
深く重なり、離れようとすれば追い、俺が息を吸おうとした瞬間にはまた口を塞ぐ。
舌が触れる。
絡む。
離れる。
また求める。
それを何度も繰り返す。
「はぁ゛……ん゛……っ」
「お゛っ……あ゛……」
まともな言葉が出なかった。
女将も喋らない。
俺も喋らない。
名前すら呼ばない。
ただ。
濁った呼吸と。
唇が重なる音だけ。
俺は、いつの間にか押し倒されていた。
「……っ」
背中が寝台へ落ちる。
女将が俺の上へ覆い被さった。
一瞬。
見上げた。
その姿が。
あまりにも。
俺の知っている女将ではなかった。
「……お゛っ」
息が詰まる。
今まで俺を叱りつけていた女が。
鉄鍋を片手に魔物を殴り飛ばした女が。
俺の飯を作り。
熱を出せば額に手を置き。
寝坊すれば布団を剥いだ女が。
今。
俺の上から。
熱に浮かされた目で。
俺を見下ろしている。
「はぁ゛……」
女将が身を屈める。
また。
唇。
「ん゛っ……!」
深い。
さっき以上だった。
俺も女将の背へ腕を回し、強く引き寄せる。
そこで。
はっきり理解した。
家族だと思っていたから。
興奮している。
ただの知らない年上の女じゃない。
昨日まで。
俺の中で。
絶対に女として見ることのなかった相手。
その人間が。
今まで一度も見せなかった姿で。
俺を欲しがっている。
その倒錯した事実が。
どうしようもなく。
頭を痺れさせた。
「……お゛っ、あ゛……っ」
俺の喉から。
また。
濁った音。
女将がそれを聞いて。
目を細めた。
笑った。
声のない。
獣じみた笑顔。
「……っ」
また。
俺へ。
顔を近づける。
「ん゛っ……!」
今度は俺も待たない。
互いに唇を貪る。
女将の身体が急に硬くなった。
「……ぁ゛っ」
四肢がぴんと伸びる。
背が反る。
指先まで力が入る。
全身を細かな震えが駆け抜けた。
「はぁ゛……っ、はぁ゛……」
そのまま。
数秒。
力が抜ける。
俺の上へ身体を預け、荒い呼吸だけを繰り返す。
「……」
終わった。
そう思った。
違った。
女将が顔を上げた。
「……はぁ゛」
目が合う。
まだ。
終わっていない。
むしろ。
さっき以上に。
欲しがっている。
俺の胸の奥が。
また。
熱くなる。
「……お゛っ」
俺の方から引き寄せた。
「ん゛っ……!」
唇。
舌。
息。
全部。
奪い合う。
女将の身体に力が戻る。
また。
俺を押さえ込む。
主導権なんて。
最初から。
女将に奪われたままだった。
それが。
嫌じゃない。
むしろ。
もっと見たかった。
俺の知らない。
女将を。
「はぁ゛……はぁ゛……」
呼吸。
乱れる。
「ん゛……っ」
何度目かの口づけ。
女将の方が経験豊富なのはすぐ分かった。
でも。
だからこそ。
異常だった。
慣れていないから我を忘れているんじゃない。
経験がある。
男を知っている。
大人として。
何をしているのかも。
明日の朝に何が待っているかも。
今までの関係が。
もう。
元通りにならないかもしれないことも。
分かるはずの女が。
全部承知で。
止まれなくなっている。
「……あ゛っ!」
また。
身体が跳ねた。
女将の背が反る。
腕が伸びる。
脚が硬く突っ張る。
首が後ろへ傾き。
口が開く。
荒い。
濁った息。
「はぁ゛……ぁ゛……っ」
数秒。
全身が震え続ける。
それから。
また。
力が抜ける。
「……はぁ゛……」
俺は支える。
でも。
止めなかった。
女将も。
止まりたがっていなかった。
少し呼吸が戻る。
また。
目が合う。
その瞬間。
互いに。
同じように。
顔を近づけた。
「ん゛……っ」
もう。
何度目か分からない。
何度。
女将の身体が震えたかも。
分からない。
力が入る。
反る。
四肢が伸びる。
小刻みに痙攣する。
力が抜ける。
荒く息を吐く。
それでも少しすれば。
また。
俺へ戻ってくる。
「はぁ゛……」
「お゛……っ」
言葉はいらなかった。
それどころか。
喋りたくなかった。
女将。
そう呼べば。
何かが戻ってしまいそうだった。
倅。
そう呼ばれれば。
ここまで崩れたものを。
もう一度。
元の形へ戻そうとしてしまいそうだった。
だから。
二人とも。
最後まで。
まともな言葉を使わなかった。
「ん゛っ……!」
唇。
「はぁ゛……」
息。
「お゛っ……」
喉から漏れる。
濁った。
破裂したような声。
それだけで。
互いに。
十分だった。
俺の中から。
女将という呼び方さえ。
少しずつ。
消えていった。
女。
違う。
もっと。
単純なもの。
雌。
俺の上で。
全身を震わせ。
力が抜けても。
まだ俺を求めている。
成熟した。
年上の。
雌。
そうとしか。
見えなくなる。
そして。
そんな目で女将を見る自分にも。
興奮した。
俺を拾ってくれた女なのに。
俺を家族みたいに育てた女なのに。
今。
その全部を忘れたみたいに。
俺も。
目の前の女を。
求めている。
「……お゛っ……あ゛……」
胸の奥から。
また。
濁った息。
女将が。
それに反応するように。
身体を大きく震わせた。
「ぁ゛……っ」
背が反る。
腕が伸びる。
脚も伸びる。
震える。
一度。
動かなくなる。
力が。
抜ける。
「はぁ゛……はぁ゛……」
それでも。
女将は。
俺から降りようとはしなかった。
額を俺へ押しつける。
呼吸。
少しずつ。
戻る。
そして。
また顔を上げる。
「……」
目。
合う。
それだけで。
俺も。
また。
駄目になる。
「……っ」
俺から唇を重ねた。
「ん゛っ……!」
女将も。
すぐ。
応える。
まだ。
終わらない。
何度も。
何度も。
繰り返す。
女将の全身が震える。
力が抜ける。
また戻る。
俺も。
濁った息を漏らしながら。
何度も。
女将を抱き寄せる。
途中から。
時間の感覚が。
完全になくなった。
長い夜なのか。
短い夜なのか。
分からない。
ただ。
女将が。
今まで一度も見せなかった顔をするたび。
俺の興奮が。
さらに。
強くなる。
昼間は。
店主。
年上の女。
俺を叱る人。
俺を守ってくれる人。
家族。
今は。
全部。
ない。
社会性も。
体面も。
年齢差も。
俺たちの過去も。
その瞬間だけ。
何もかも。
消えていた。
「はぁ゛……」
女将の目が。
また。
細くなる。
声のない笑い。
俺も。
たぶん。
似たような顔をしていた。
「お゛……っ」
互いに。
引き寄せる。
また。
深い口づけ。
女将が震える。
力が抜ける。
戻る。
また求める。
俺も。
止めない。
何度繰り返しても。
終わらない。
そのまま。
夜が。
明るくなるまで。
二人とも。
まともな言葉を。
一度も。
口にしなかった。
*
目を開けた時。
朝だった。
「……」
隣に。
女将がいる。
「……嘘だろ」
眠っている。
寝顔だけなら。
昨日までと。
何も変わらない。
俺の知っている。
女将。
それが。
余計に。
頭を混乱させる。
昨夜。
俺の上で。
何度も全身を震わせ。
力が抜けても。
また俺へ戻ってきた女。
その女と。
同じ人間。
「……」
俺は静かに身体を起こし、机の日記帳を開いた。
『女将に恋人ができる。』
俺が。
昨日。
書いた。
たった一行。
『期限――指定なし。』
『方法――指定なし。』
『対象――指定なし。』
『現在の人物関係および物語上の流れを優先。』
『新規人物との長期的関係形成より、既存人物との関係変化を利用する方が自然。』
「自然じゃないだろ……」
振り返る。
まだ。
寝ている。
『女将。』
『成人女性。』
『主人公ルークと血縁関係――なし。』
『主人公ルークとの社会的関係――疑似親子に近い。』
『成人男性としての主人公を恋愛対象から除外する設定――なし。』
『主人公周辺への成人女性増加。』
『排他的感情――顕在化。』
『従来の社会的役割による自己抑制――低下。』
『主人公を成人男性として再認識。』
『恋人候補――ルーク。』
「俺かよ!」
「……うるさい!」
布団が飛んできた。
「朝っぱらから何叫んでんだい!」
「女将!」
起きた。
「……」
「……」
目が合う。
二人とも。
止まった。
昨夜。
思い出した。
女将の顔が。
みるみる。
赤くなる。
「……朝飯」
「え?」
「朝飯作るよ!」
「今!?」
「朝なんだから朝飯に決まってるだろ!」
乱暴に服を掴む。
着る。
髪を直す。
俺の方を。
ほとんど。
見ない。
「女将」
「何だい!」
「昨日」
「知らない!」
「知らないは無理あるだろ!」
「うるさい!」
服を着て。
扉へ。
向かう。
いつもの。
女将。
みたいだった。
でも。
もう。
俺には。
そう見えなかった。
昨夜を。
知っている。
この女が。
どんな顔をするのか。
どんな濁った息を漏らすのか。
どれだけ身体を震わせ。
力が抜けても。
また。
求めてくるのか。
全部。
見てしまった。
「……」
「何見てるんだい!」
「いや!」
「さっさと起きな!」
「はい!」
女将は。
部屋を出ていった。
扉が閉まる。
「……」
俺は。
日記へ。
目を戻した。
『女将に恋人ができる。』
「俺は」
頭を抱えた。
「女将に、どこかのいい男と普通に幸せになってほしかっただけなんだけど……」
日記は返事をしない。
ただ。
文章だけが増える。
『主人公が記載した条件――成立可能。』
「可能って、まだ確定してないのかよ!」
階下から。
「ルーク! 朝飯冷めるよ!」
「はい!」
いつもの声。
昨日まで。
ずっと聞いていた声。
なのに。
もう。
以前と。
同じには。
聞こえなかった。
俺を拾ってくれた。
家族みたいな。
女。
俺が。
そう思っていただけ。
女将は。
最初から。
成人した。
一人の女だった。
そして。
俺も。
昨夜。
それを。
知ってしまった。
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