第六十四話 笑顔のかわいいヒロイン
「立てる」
ミレアが笑った。
「ルーク。見てて」
「見てる」
「ちゃんと」
「見てるって!」
魔導技師の工房。その中央で、ミレアは三本の魔導義肢をつけて立っていた。救出された時、壊された両脚と左腕は残せなかった。元からある四肢で残ったのは右腕だけ。それでも王都の魔導技師が用意した左腕と両脚は、魔石と術式を組み込んだ接続具によって、もうミレア自身の意思で動かせる。
「行くよ」
一歩。
「……っ」
「ミレア」
「平気」
二歩。三歩。義足が床を踏む硬い音が続く。最初の訓練では一歩ごとに倒れていた。それが今日は止まらない。五歩。六歩。俺の前まで来た。
「ほら」
「……すごい」
「それだけ?」
「いや、本当にすごい」
「ふふっ」
笑った。
救出された直後には、ほとんど見なかった笑顔だった。
『ヒロイン・ミレア。』
『魔導義肢による身体機能補完――成功。』
『歩行――可能。』
『左上肢――日常動作訓練中。』
『右上肢――生来の身体として維持。』
『社会生活への復帰――可能。』
『笑顔――かわいい。』
「最後だけ評価基準がおかしくない?」
「何?」
「何でもない」
「また?」
「またです」
ミレアは身体を回してみようとして、危なっかしくよろけた。
「わっ」
「ほら!」
「大丈夫!」
右手で俺の肩を掴む。
あの夜。
俺へ伸ばされた手。
一本だけ残っていた手。
「……ルーク?」
「何?」
「変な顔」
「してない」
「してる」
ミレアは自分の右手を見た。それから左の義手を見る。
「私、戻れるかな」
「どこに?」
「パン屋」
「戻れる」
「すぐ言うね」
「女将に『迷惑ですか』なんて聞いてみな。たぶん怒鳴られるぞ」
少し黙ってから、ミレアは笑った。
「確かに」
*
「遅い!」
予想通りだった。
「ご、ごめんなさい!」
「働きに戻るって自分で言ったんだろ! 客が待ってるよ!」
復帰初日。女将はミレアを見るなり怒鳴った。
「ちょっと女将!」
「何だい」
「初日なんだから、もう少し優しく……」
「この子を腫れ物扱いしろってのかい?」
「いや」
「だったら従業員は従業員だ。ミレア!」
「はい!」
「その籠を三番棚へ!」
「はい!」
ミレアが義手で籠を持つ。
ぐしゃ。
「あ」
パンが一つ潰れた。
「……」
「……」
「ミレア!」
「ごめんなさーい!」
「パンに恨みでもあるのかい!」
「力加減が!」
「だったら覚えな!」
「はい!」
セリアが吹き出した。リサも笑う。俺も我慢できなかった。最後にはミレア自身まで笑っていた。
「笑ってないで次!」
「はい!」
そこからは早かった。三日で籠を普通に運べるようになった。一週間で皿を割らなくなった。十日も経つ頃には、義手の指で銅貨を一枚ずつ摘まめるようになった。
「いらっしゃいませ!」
「お姉ちゃん、その手なに?」
「新しい手」
「強い?」
「すっごく強いよ」
「石割れる?」
「多分」
「やって!」
「女将に怒られるから嫌」
「けち!」
「こら! 店の中で何の話してるんだい!」
「はーい!」
ミレアが笑う。
客も笑う。
子供も笑う。
その笑顔は作ったものじゃなかった。
パンを売るのが楽しい。
女将に叱られるのも。
リサとくだらない話をするのも。
セリアに義足の歩き方を直されるのも。
俺に新しい左手の動きを見せるのも。
本当に楽しい。
『ミレア――ヒロイン昇格完了。』
『パン屋勤務――継続。』
『身体的欠損――補完。』
『日常生活――回復。』
『幸福感――回復傾向。』
『主人公生活圏への定着――成功。』
「いらっしゃいませ!」
また客が入る。
ミレアは笑顔で振り返った。
「今日は焼きたてですよ」
かわいい。
明るい。
親しみやすい。
普通のヒロインになった。
*
その日の閉店後。
「ミレア、明日も朝から頼むよ!」
「はい!」
「寝坊するんじゃないよ!」
「しません!」
「この前しただろ!」
「あれ一回だけです!」
「一回でも寝坊は寝坊だ!」
「はーい!」
ミレアは笑いながら前掛けを外した。
「じゃあ、おやすみ」
俺が言う。
「おやすみ、ルーク」
「気をつけてね」
「うん」
笑顔。
そのまま。
店を出た。
*
「こんばんは」
「……ミレア?」
同じ笑顔だった。
元婚約者の顔から血の気が引いた。
「久しぶり」
「どうしてここにいる」
「私が呼んだんだけど」
「いや、そうじゃなくて……」
王都の外れにある古い倉庫。昼間でもほとんど人の来ない場所だった。
私は左腕を持ち上げた。
「見て」
「……」
「新しい手」
握る。
開く。
「脚も」
一歩。
また一歩。
「ちゃんと歩けるようになったよ」
「……良かったじゃないか」
「うん」
私は嬉しくて笑った。
「すごいでしょ?」
「ミレア」
「最初はパン潰しちゃったけど、今は銅貨も摘めるんだよ」
「何の話をしてる」
「私の新しい生活の話」
一歩。
「女将は相変わらず怒鳴るし」
一歩。
「ルークは変な顔ばっかりするし」
一歩。
「でも楽しいよ」
「……」
「私、今」
笑う。
「結構幸せ」
男の表情が、わずかに緩んだ。
「だったら……もういいだろ」
「何が?」
「俺のことなんて忘れて」
「うん」
頷いた。
「忘れたい」
「なら」
「その前に」
もう一歩。
「身辺整理しないと」
男が止まった。
「……何だって?」
「身辺整理」
私は笑った。
「あんたが言った言葉」
「ミレア」
「新しい人生に、昔の婚約者が邪魔だったんでしょ?」
「待て」
「私もね」
右手を胸へ当てた。
「新しい人生ができた」
「……」
「だから」
にこっと笑う。
「今度は私の番」
男が逃げた。
三本の魔導義肢が同時に動いた。
*
「起きた?」
柔らかく声を掛けた。
パン屋で寝てしまった子供を起こす時と、ほとんど同じ声だった。
「……ミ……レア……」
「うん」
私はすぐ横に座っていた。
「何……を……」
男が身体を動かそうとする。
そして。
顔色が変わった。
「……あ……」
「分かった?」
「な……何で……」
「片手は残したよ」
自分の右手を見せる。
「私も、これだけ残ったから」
「助け……」
「大丈夫」
笑った。
男の顔に一瞬だけ希望が浮かぶ。
「助けて……くれるのか……?」
「違うよ」
笑顔のまま。
「ちゃんと最後まで一緒にいてあげる」
希望が消えた。
その顔を見た瞬間。
「……あ゛」
私の喉が鳴った。
自分でも驚いた。
「はぁ゛……」
胸が大きく上下する。
身体の奥がざわつく。
怖い。
懐かしい。
気持ち悪い。
それなのに。
目が離せない。
「這えるよ」
「……」
「やってみて」
「無理だ……」
「できる」
「頼む……」
「私もできたから」
男は泣きながら、残された手を床についた。
身体を引く。
ずる。
少し進む。
「……っ!」
その瞬間。
「お゛……っ」
息が漏れた。
膝から力が抜けた。
義足なのに。
身体全体が座り込もうとするように震える。
「あ゛……はぁ゛……」
「ミレア……?」
男が振り返った。
私は笑っていた。
「そう」
「……」
「上手」
もう一度。
「這って」
「助けて……」
「もう一回」
「ミレア……」
「頑張って」
男が床を掴む。
ずる。
身体を引く。
「……あ゛」
また。
胸の奥から。
何かが突き上がる。
「はぁ゛……っ、お゛……」
喉が震える。
唾を飲み込もうとして。
うまくいかない。
「ぐ……っ、ふ……」
笑いが混じった。
「ふふ……」
「何で……」
「何?」
「何で……笑ってる……」
私は答えようとして。
「……あ゛……」
声にならなかった。
男が這う。
それを見る。
また。
あの日が。
重なる。
床。
右手。
指。
血。
痛み。
辱め。
誰かの笑い声。
自分の悲鳴。
帰りたい。
死にたくない。
助けて。
「はぁ゛……はぁ゛……」
息が速くなる。
肩が震える。
「私も……」
右手を見る。
「こうだった」
「……」
「これだけで」
床を指す。
「帰ろうとした」
男がまた這う。
「お゛っ……!」
今度は。
身体が大きく震えた。
「……っ」
一瞬。
力が抜ける。
頭の中が白くなる。
私は床へ右手をついた。
「はぁ゛……はぁ……」
「ミレア……」
「待って」
笑う。
「ちょっと……待って……」
呼吸を整える。
でも。
男がまた手を伸ばす。
床を掴む。
引く。
「……あ゛ぁ……」
また。
戻ってくる。
異常な感覚。
恐怖でもない。
怒りだけでもない。
嬉しいだけでもない。
全部が混ざっている。
「何……これ……」
自分で呟いた。
でも。
嫌じゃなかった。
「もう一回」
「……」
「ねえ」
私は笑った。
「もう一回やって」
「無理だ……」
「お願い」
声が。
妙に優しくなった。
「見たいの」
「……」
「私がそうだったから」
男が震える手を伸ばす。
ずる。
「……っ」
「あ゛……!」
喉が鳴る。
「お゛……っ、はぁ゛……!」
身体にまた震えが走る。
一度。
力が抜ける。
それから。
戻る。
「はぁ……っ」
私は立ち上がった。
「まだいける」
「もう……」
「まだ死んでない」
「やめ……」
ぞくり。
背中が震えた。
「……それ」
「……」
「私も言った」
にこっと笑う。
「やめて、って」
男が這う。
「嫌だって」
這う。
「何回も」
這う。
「でも止まらなかった」
私はその横を歩いた。
硬い義足の音。
ずる。
男が這う音。
硬い音。
ずる。
その繰り返し。
「はぁ゛……お゛……」
私の呼吸も。
そこへ混ざった。
「痛い?」
「……」
「怖い?」
「助けて……」
「死にたくない?」
「死にたくない!」
その言葉。
聞いた瞬間。
「あ゛――」
身体から。
力が抜けた。
壁へ肩を預ける。
「はぁ゛……はぁ゛……っ」
震える。
何度も。
小さく。
「お゛……お゛……」
喉の奥から。
声が勝手に漏れる。
男がこちらを見る。
怯えている。
その目。
それすら。
あの日の自分に重なった。
「そっか……」
笑った。
「死にたくないんだ」
「頼む……」
「私も」
息を吐く。
「同じだったよ」
「助けてくれ……!」
「もっと言って」
「……」
「お願い」
私は。
笑顔のまま。
「もう一回聞かせて」
「助けて!」
「うん」
「死にたくない!」
「……あ゛……」
また身体が震える。
「そう……」
「ミレア……」
「そうだった」
右手を握る。
「あの日の私も」
自分の胸を押さえる。
「同じこと言ってた」
「……」
「だから」
恍惚とした笑いが漏れた。
「ふ……ふふ……」
呼吸。
「はぁ゛……」
震え。
「お゛……」
笑い。
「ふふっ……」
全部が混ざる。
「分かる」
私は男を見た。
「今なら」
「何が……」
「あの時の私が」
少し。
首を傾げる。
「すごくよく分かる」
男は。
泣いた。
私は。
笑った。
でも。
怒っているわけじゃない。
少なくとも。
今は。
「もう一回」
「……」
「這って」
男が動く。
「そう」
少し進む。
「あ゛……」
また身体が震える。
「上手」
もう一度。
「頑張って」
ずる。
「そう」
ずる。
「もっと」
ずる。
「はぁ゛……お゛……」
私の呼吸も。
何度も乱れる。
力が抜ける。
しゃがみ込む。
少し待つ。
また立つ。
「……まだ」
男を見る。
「まだ生きてる」
「……」
「じゃあ、まだできるね」
男の手が震える。
「無理……」
「私も無理だった」
「……」
「でも」
笑う。
「やったよ」
男の指が床を掴む。
「そう」
身体を引く。
「そのまま」
「……」
「もう少し」
私の喉から。
「お゛っ……」
また声が漏れた。
「はぁ゛……」
目の前が。
一瞬。
ぼやける。
あの日の自分。
今の自分。
どちらがどちらか。
分からなくなる。
這っているのは。
あの時の私。
見ているのは。
今の私。
でも。
同時に。
逆でもある。
「……変なの」
笑った。
「私、今」
男を見る。
「すごく生きてる」
「……」
「あの日より」
自分の義手を見る。
「ずっと」
男の手が。
また。
前へ伸びた。
震える。
床へ落ちる。
「ほら」
私はしゃがんだ。
「まだ」
「……」
「頑張って」
指先。
動く。
「そう」
もう一度。
動く。
「あ゛……」
私の身体にも。
また震えが走った。
「はぁ゛……」
でも。
今度は。
すぐ戻った。
「まだいるよ」
男の横。
「ちゃんと見てる」
「……」
「最後まで」
手が伸びる。
床を掴めない。
「もう一回」
動かない。
「ねえ」
返事もない。
「まだ?」
何も。
「……」
私は待った。
長く。
呼吸はまだ乱れている。
「はぁ゛……はぁ……」
喉も。
まだ。
勝手に鳴る。
「お゛……」
でも。
男は。
動かない。
「死んだ?」
返事はない。
私は。
男の顔を覗き込んだ。
「……そっか」
しばらく。
そのまま見ていた。
胸の中にあった異常な昂ぶりが。
少しずつ。
静まっていく。
「終わったんだ」
立つ。
男を見る。
店で客を送り出す時と。
同じ笑顔になった。
「じゃあ」
優しく。
「おやすみなさい」
*
「おはよう!」
翌朝。
ミレアが昨日と同じ笑顔で店へ入ってきた。
「おはよう」
「ルーク、眠そう」
「昨日ちょっと遅くまで起きてた」
「駄目だよ。ちゃんと寝ないと」
「ミレアは?」
「よく寝たよ」
「そっか」
「うん!」
女将が奥から怒鳴る。
「ミレア! ぼさっとしてないで三番棚!」
「はい!」
義手で籠を持つ。
パンを一つ。
二つ。
丁寧に並べる。
「見て」
「何?」
「もう全然潰さない」
「本当だ」
「でしょ?」
ミレアが嬉しそうに笑った。
「褒めて」
「えらい」
「雑!」
「じゃあ、すごくえらい」
「よし」
笑う。
本当に。
楽しそうだった。
昨夜があったから笑っているわけじゃない。
パン屋だから。
ここが好きだから。
仲間がいるから。
笑っている。
全部。
本物だった。
*
その日の昼。
王都の外れで男の死体が見つかった。
「ミレアの元婚約者?」
「らしい」
セリアから聞かされた俺は、パンを置いた。
「殺されたの?」
「ああ」
「誰に?」
「分からない」
「強盗?」
「そういう感じじゃない」
セリアの表情は険しかった。
「かなり妙な死体だったそうだ」
「妙?」
「片手だけ残ってた」
「……片手?」
「ああ。それで逃げようとしたらしい。床に這った跡が長く残ってる」
「それで?」
「途中で死んだ」
気分が悪くなった。
「犯人は?」
「分からない」
「何か手掛かりは?」
「今のところ、犯人に直接つながるものはないらしい」
その時。
「いらっしゃいませ!」
奥から声がした。
振り向く。
ミレア。
「今日は焼きたてですよ!」
客へ。
にこっと笑う。
俺は日記を開いた。
『ヒロイン・ミレア。』
『魔導義肢への適応――良好。』
『パン屋勤務――安定。』
『接客――良好。』
『笑顔――増加。』
『主人公生活圏への定着――完了。』
終わり。
頁をめくる。
白紙。
もう一枚。
白紙。
元婚約者。
死体。
殺人。
片手。
何も。
書かれていない。
「今回は書かないのか……」
「何?」
「いや」
俺は日記を閉じた。
「ルーク!」
ミレアが呼ぶ。
「何?」
「こっち手伝って!」
「今行く」
「早く!」
「はいはい」
「返事は一回!」
「女将みたいになってきたな」
「それ褒めてる?」
「たぶん」
「何それ」
ミレアが笑った。
俺も笑った。
その笑顔を見て。
まさか。
昨日の夜。
同じ顔で。
片手だけで這う男に。
「頑張って」
と声を掛けながら。
喉を濁らせ。
身体を震わせ。
何度も力を失っては。
また立ち上がり。
最後までその死を見届けていたなんて。
俺が考える理由は。
何一つなかった。
ミレアは。
笑顔のかわいいヒロインになった。
それは。
間違いではない。
ただ。
その笑顔が。
一つの意味だけを持つものでは。
なくなっただけだった。
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