第五十九話 遠くの噂は、いつの話なのかも分かりません
「怪我が治る歌姫がいるらしいぞ」
「……何て?」
朝。パンを届けに冒険者ギルドへ行った俺は、受付前でそんな話を聞いて足を止めた。
話していたのは、昨日王都へ着いたばかりだという商隊護衛の男たちだった。西のずっと遠い地方で、不思議な歌を歌う女が現れたという。戦いや事故で傷ついた人間のそばで歌うと、傷の治りが異様に早くなる。切り傷程度なら歌っている間にも塞がり、重傷者まで助かったことがある。そのせいで、今では怪我人だけでなく、病人や身体の悪い老人まで彼女のいる場所へ集まり始めているらしい。
「歌だけで?」
「ああ。俺も直接見たわけじゃないけどな。向こうから来た荷運び屋が言ってた」
「その荷運び屋は見たの?」
「いや。そいつも宿で聞いたって」
「……いつの話?」
「さあ?」
男はあっさり首を傾げた。
「俺たちが聞いたのは二十日くらい前だけど、その時点で結構有名だったらしいぞ」
「じゃあ、実際に歌姫が現れたのは?」
「一か月前かもしれんし、三か月前かもしれん」
「だよね……」
遠い。
遠すぎる。
馬を飛ばして一日二日という距離じゃない。いくつも町を越え、商人から旅人へ、旅人から冒険者へと渡ってきた話だ。途中で何日止まったのかも分からない。噂の歌姫が今もそこで歌っているのか。それどころか、無事なのかさえ分からない。
「ルーク、パン置くなら早くしなさい」
「あ、はい!」
受付に呼ばれて、俺は慌てて籠を置いた。
これだけなら。
珍しい能力を持った人が遠くにいる。
それだけだった。
そう思おうとした。
*
「そういえば、北の方じゃ貴族が一家まとめて没落したって話もあるわね」
「待って」
昼。パン屋へ戻った俺は、今度はリサの話で手を止めた。
「何で今日そんな話ばっかり来るの?」
「知らないわよ。市場で聞いただけ」
リサはパンをちぎりながら眉を寄せた。
「地方領主だったか、その下の貴族だったか。そこも話す人によって違うのよ。何か失敗して財産を失って、屋敷も手放したとか」
「何かって?」
「それが分からない」
「不正?」
「そう言う人もいたし、商売に失敗したって人もいたし、上の貴族を怒らせたって話もあったわ」
「家族は?」
「知らない」
「使用人は?」
「だから知らないって」
「いつ?」
「それも知らない」
全部。
分からない。
分かるのは。
遠くで。
どこかの貴族が。
没落した。
それだけ。
「何よ。その顔」
「いや……」
「知り合い?」
「違う」
「じゃあ何?」
「何でもない」
「またそれ?」
リサが呆れた顔をする。
俺はそれ以上言わなかった。
言えるはずがない。
貴族の没落なんて、この世界では珍しくないかもしれない。借金。不正。政争。領地経営の失敗。理由はいくらでもある。
でも。
歌姫。
没落した貴族。
並べると。
嫌だった。
前に日記が。
どこかの物語から。
似たような破滅展開を調べていなかったか。
嫌な記憶が引っ掛かる。
*
夕方。
今度はセリアだった。
「そうだ。武術大会の話、聞いたか?」
「聞きたくない」
「何でだ?」
「ごめん。続けて」
セリアが怪訝な顔をした。
「南の大都市で大きな武術大会をやってるらしい。腕の立つ女拳士が二人、かなり勝ち上がってるそうだ」
「二人?」
「ああ。昔からのライバルらしいぞ。片方が出る大会には、もう片方も出るとか。何度か戦ったこともあるらしい」
やめて。
「それで?」
「今回、別々の組に入ったらしくてな。二人とも勝ち続ければ最後の方で当たるんじゃないかって、向こうでは盛り上がってるらしい」
「……二人とも成人?」
「当然だろ。何を聞いてるんだ」
「いや、念のため」
「変な奴だな」
セリアはそれだけ言って、剣の手入れへ戻った。
俺は椅子に座ったまま動けなかった。
一日で。
三つ。
怪我を治す不思議な歌姫。
没落した貴族。
武術大会を勝ち上がる、ライバル同士の女拳士。
どれも。
遠い。
今すぐ俺が行ける場所ではない。
そして。
どれも。
いつ起きた話なのか分からない。
今日起きているのかもしれない。
一週間前には全部終わっているかもしれない。
そもそも噂が何人もの口を通る間に、内容そのものが変わっているかもしれない。
「……偶然」
小さく呟いた。
「何が?」
セリアが顔を上げる。
「何でもない!」
俺は胸元へ手を入れた。
開く。
『遠方地域における噂話を複数確認。』
やっぱり。
『第一。』
『負傷者の回復を促進する不思議な歌を歌う、成人女性の歌姫。』
『詳細――未確認。』
『現在位置――未確認。』
『噂の発生時期――未確定。』
次。
『第二。』
『遠方における貴族家の没落。』
『没落原因――情報不一致。』
『関係者の現在状況――未確認。』
『発生時期――未確定。』
次。
『第三。』
『遠方都市で開催された、または開催中とされる武術大会。』
『成人女性拳士二名が勝ち進んでいるとの噂あり。』
『両名――長期的な競争関係にあるとされる。』
『大会進行状況――未確認。』
『情報取得時点と現地時間の差――算定不能。』
「……そこまで分かってないなら、ただの噂だろ」
日記は何も返さない。
ただ。
続きを書いた。
『三事象と、過去に収集した物語構造との類似性――あり。』
「…………」
やっぱり。
俺は椅子から立ち上がった。
「何だ、今度は」
「セリア」
「うん?」
「遠い場所の噂って、どれくらい遅れて届く?」
「場所による。商隊なら一か月なんて普通だぞ。冬を挟めばもっと遅れる」
「半年とかも?」
「あるだろうな」
「……そうだよね」
「だから何なんだ?」
「いや」
俺はもう一度、文字を見る。
『ただし。』
『各事象が本記録による過去の展開調査と因果関係を持つ証拠――なし。』
「そうだ」
証拠はない。
歌を歌う女なんて、他にもいるかもしれない。
貴族が没落することだってある。
女拳士二人が大会で勝つことだって。
偶然。
全部。
偶然かもしれない。
何より。
遠方だ。
俺には何もできない。
走っていく必要もない。
「今回は……」
言いかけて。
止めた。
安心したら。
ろくなことにならない。
「言わない」
「さっきから本当に何なんだ、お前」
「自衛」
「何からだ?」
「分からないものから」
「余計分からん」
セリアが呆れる。
俺は日記を閉じようとした。
その直前。
最後に一行。
『なお、三件の噂について、現地での出来事がすでに終了している可能性があります。』
「……」
つまり。
これから何か起きるとは。
限らない。
もう。
起きた後かもしれない。
俺が噂を聞いた時には。
歌姫がどうなったのか。
没落した家で何が起きたのか。
二人の女拳士が大会の先で何を経験したのか。
全部。
とっくに決まっている可能性がある。
遠いということは。
助けに行けないというだけではない。
結果を知ることさえ。
遅れるということだった。
『続報待機。』
「……それが一番嫌なんだよ」
「何が?」
「何でもない!」
今日四回目だった。
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