外伝 キメラの母
「来い。今夜は私が欲しい」
母が森へ向かってそう告げると、闇の中からいくつもの声が返ってきた。
「グォォッ!」
「グルルル……!」
「オ゛ッ……!」
人間の雄もいる。ゴブリンもいる。ドワーフ、獣人、人間には魔物としか見えない異種族の雄もいる。姿も声も、使う言葉も違う。雄同士では互いに何を言っているのか分からない。
それでも母には全部分かった。
「お前は早く来いって言ってる。お前は昨日待たされたって怒ってる。そっちは……私を先に寄越せ?」
「グルァッ!」
「全員うるさい!」
母が笑う。
巨大な身体には、すでにいくつもの子が宿っている。丸く膨らんだ場所は一つではない。身体の奥に複数ある子宮で、それぞれ別の雄の子が育っていた。
右にはゴブリン。
奥には獣人。
少し下にはドワーフ。
どれも同時に生きている。
それでも母の身体は、雄を求めることをやめなかった。
「今日はお前から」
一本の腕を伸ばす。
選ばれた雄が近づく。
「グォルル……!」
「そうだ。もっと近くに来い」
巨大な身体同士が触れ合う。
「ん゛っ……!」
母の口から最初から濁った声が漏れた。
「あ゛ぁ……っ、いい……そうだ……!」
「オ゛ッ……オ゛ッ……グォッ!」
「聞こえてるぞ……! お前も嬉しいんだろ……!」
雄が吠える。
母も吠えるように返した。
「ん゛あっ……! もっとだ……! もっと私を欲しがれ……!」
「グォォォッ!」
「そう……それ……! あ゛ぁっ……!」
誰にも聞かれないよう声を抑える必要などなかった。
人間の男女なら、言葉にして確かめることもあるだろう。
ここではもっと単純だった。
欲しい。
もっと。
まだ離れるな。
気持ちいい。
その程度なら、雄の低い声だけで母には十分分かる。
「オ゛ッ……ウ゛ッ……!」
「あ゛ぁ……っ! 分かる……分かるぞ……!」
母も隠さない。
「私もだ……! ん゛っ……私も、お前がいい……!」
腕で雄を抱き込み、身体を寄せる。強い感覚が走れば、母の腕が一度ほどけ、何本もの脚が大きく伸びた。
「あ゛……あ゛ぁぁっ……!」
巨大な身体が震える。
頭を後ろへ反らし、天を仰ぐ。大きく開いた口から舌が覗き、喉の奥から濁った息が漏れ続けた。
「ん゛っ……あ゛ぁ……お゛ぉ……!」
「グォッ……オ゛ッ……!」
雄の声が耳へ届く。
母の目がまた開いた。
「……何だ」
「グルル……」
「まだ欲しいのか?」
「グォッ!」
母は荒い呼吸のまま笑った。
「私もだよ」
また何本もの腕を伸ばす。
「来い」
雄が応じる。
「ん゛っ……!」
再び濁った声が森へ響いた。
「あ゛ぁ……っ、そうだ……もっと……!」
「オ゛ッ……グォッ……!」
「いいぞ……もっとその声を聞かせろ……!」
雄が昂ぶれば母にも分かる。
母が昂ぶれば雄にも伝わる。
もうそこに、人間社会の作法など一つもなかった。
「お前は雄だ……!」
母が声を張る。
「私は雌だ……! それでいい……!」
「グォォォッ!」
「あ゛ぁっ……! そうだ……もっと来い!」
ただ互いを欲しい。
そのまま身体で伝え合う。
それだけだった。
*
やがて最初の雄が疲れ、母から身体を離した。
「……グル」
「もう動けないのか?」
弱い声が返る。
母は雄の頭を撫でた。
「よく付き合った。休め」
無理には求めない。
だが母自身が満足したとは限らなかった。
顔を上げる。
「次」
待っていた雄がすぐ反応した。
「ガゥッ!」
「お前か」
獣人の雄。
「さっきからずっと匂いが強かったぞ」
「ガァッ……!」
「そんなに私が欲しかった?」
咆哮。
母が笑う。
「私もだ」
腕を広げる。
「来い」
また違う雄。
違う匂い。
違う魔力。
違う声。
身体が触れ合った瞬間、母の喉からまた濁った喘ぎが飛び出した。
「ん゛あっ……!」
「ガァァッ!」
「ははっ……お前は強いな……!」
母は楽しそうだった。
「あ゛っ……! そう……もっと……!」
「ウ゛ッ……ガゥッ……!」
「気持ちいいのか? 分かるぞ……!」
雄の声が高くなる。
母も負けない。
「ん゛っ……あ゛ぁ……! 私もだ……!」
声。
匂い。
体温。
力。
それだけで十分だった。
母には、この雄が何を感じているか分かる。
「もっと欲しい?」
「ガァッ!」
「なら私を欲しがれ!」
母自身も求め返す。
「あ゛ぁっ……もっとだ……!」
一度身体の力が抜けても、また雄の声を聞けば目を開く。
「……まだ」
「ガゥ?」
「止まるな」
母は濁った息を吐きながら笑った。
「私がまだお前を欲しい」
雄の首へ腕を回す。
「だから来い」
「ガァァッ!」
「あ゛ぁっ……そうだ……!」
また森へ声が響いた。
*
一頭が疲れれば、次の雄が来る。
母はそれを喜んだ。
「次!」
「グル!」
「お前はさっき待たせた奴だな」
「グルル!」
「分かった、分かった。来い」
ゴブリンの雄が近づく。
「グォッ!」
「ん゛っ……!」
今度は小さい。
それでも母には、この雄にしかない匂いと魔力が分かる。
「あ゛ぁ……! そう……お前もいい……!」
「オ゛ッ! オ゛ッ……!」
「もっと声出せ……! 私に聞かせろ……!」
「グォォッ!」
「ははっ……!」
母が笑う。
「そうだ……! 私を欲しいって、もっと言え……!」
人間にはただの唸りに聞こえるだろう。
母には違う。
欲しい。
嬉しい。
まだ。
もっと。
全部聞こえる。
「私もだ……!」
母は応える。
「ん゛っ……あ゛ぁっ……! 私もお前が欲しい!」
その声を聞いて、別の雄が森の奥で吠える。
「ウ゛ォォッ!」
「待て!」
母がそちらを見る。
「今はこいつだ!」
また別の咆哮。
「分かってる! お前も後で呼ぶ!」
雄同士には意味は通じない。
それでも全員、母の言葉だけには従う。
この奇妙な群れの中心は母だった。
*
母が雄を求める理由は、快感だけではなかった。
もちろん。
母は雄との交わりそのものを喜んでいた。
違う雄。
違う種。
違う身体。
違う声。
それを知ることが好きだった。
でも。
その先も。
好きだった。
「母!」
翌朝。
一匹の子供が母の腹へ耳を当てる。
「ここ、動いてる!」
「どこだ?」
「このへん!」
母も手を当てる。
小さな動き。
「ああ。元気だ」
「誰の子?」
「……」
「母?」
「分からん」
「また!?」
「産まれれば分かる!」
子供が呆れる。
母は声を上げて笑った。
生まれてくる子は、父親と同じ種になることの方が少ない。
人間との子が鱗を持つこともある。
ゴブリンとの子に四本の腕があることもある。
ドワーフとの子なのに獣の耳を持つこともある。
母がこれまで取り込んだ性質。
父親の性質。
その時たまたま強く出た性質。
全部が混ざる。
だから新種が生まれる。
そして。
新しい子を見るたび。
母はまた思う。
「次は何が生まれるかな」
それを知りたい。
だから。
別の雄を知りたくなる。
*
成長した子供が母から離れることも珍しくなかった。
「行くのか?」
母が聞く。
大きくなった子が森の奥を見る。
「行く」
「どこへ?」
「知らない」
「そうか」
それだけ。
「気をつけろ」
「母は?」
「私はまだ旅する」
「また子供産む?」
母が笑う。
「多分な」
「いっぱい?」
「いっぱい」
子供も笑った。
「じゃあ、また知らない兄弟増えてるね」
「戻ってきたら紹介してやる」
「多すぎて母も分からないでしょ」
「うるさい」
その子は森へ消えた。
追わない。
母から生まれた新種が。
野生へ出る。
そこで生きる。
別の群れを作るかもしれない。
誰かと子を作るかもしれない。
母には分からない。
それでいい。
*
また夜になる。
雄たちが集まる。
「今日は誰だ?」
母が聞く。
「グル!」
「ガァッ!」
「俺だ!」
「ウ゛ォォッ!」
「一度に言うな!」
母は笑った。
「全部聞こえてる!」
雄たちの声が森に重なる。
互いの意味は分からない。
それでも。
母には全部分かる。
「お前も私が欲しい」
一頭を見る。
「お前も」
もう一頭。
「お前もか」
さらに奥。
新しく旅へ加わった異形の雄が低く声を上げる。
「……いいぞ」
母の顔が緩んだ。
「私もお前らが欲しい」
何本もの腕を広げる。
「雄なら来い」
咆哮が響く。
「私はまだ、もっといろんな子を孕みたい!」
「グォォォッ!」
「もっと知らない種を産みたい!」
「ガァァッ!」
「だから――」
母自身も。
吠えるように声を上げた。
「私を欲しがれ!」
最初の雄が来る。
「ん゛っ……!」
母が喘ぐ。
「あ゛ぁ……! そうだ……!」
「オ゛ッ……グォッ……!」
「もっと……!」
森が声で満ちる。
雄。
雌。
欲しい。
もっと。
まだ。
その程度の意味だけが。
いくつもの異なる声になって。
夜の森へ。
何度も何度も響いていった。




