第六話 『明日までに、俺は犯罪をせず、誰からも金を奪わず、働いた正当な報酬として銀貨一枚を得る。』
銀貨一枚を稼いだ日、十七人が死んだ。
前の晩、俺はかなり慎重に文章を書いたつもりだった。銅貨一枚では小さすぎて、この日記をどこまで使えるのか分からない。だから少しだけ金額を上げる。ただし、今度こそ変な解釈をされないよう条件も付けた。
『明日までに、俺は犯罪をせず、誰からも金を奪わず、働いた正当な報酬として銀貨一枚を得る。』
銀貨一枚なら大金ではあるが、人生が変わるほどでもない。何日分かの働きを一日でやれば届くかもしれないし、特別な仕事を頼まれればもっと自然だろう。文字が淡く光り、『改稿を開始します』と出たのを確認して、俺は安心して眠った。
翌朝、まだ最初のパンも焼き上がっていない時間に、店の扉が叩き壊されそうな勢いで鳴った。
「パンはあるか!」
飛び込んできたのは、血まみれの男だった。左腕に布を巻いていたが、血が染み出して肘からぽたぽた落ちている。背中には冒険者ギルドの印があった。
「あるけど、朝一番の分だけだよ。何があったんだい?」
「東のダンジョンで崩落だ! 下層にいた連中が魔物ごと押し出された! 生き残りをギルドへ運んでる。食える奴に食わせる物が足りない!」
女将の顔が変わった。
「ルーク! 薪を全部入れな! 今日は予定なんか無視して焼けるだけ焼くよ!」
「分かった!」
そこからは考える暇もなかった。生地をこね、薪を運び、窯へ入れ、焼けた端から籠へ放り込む。店売り用も昼の分も全部後回しにして、とにかく腹に入るパンを作った。昼前にはギルドから荷車まで来て、俺も積み込みを手伝い、そのまま配達についていった。
ギルドの前に着いたとき、最初に見えたのは血だった。
石畳が赤黒く濡れている。治療所だけでは入りきらず、建物の壁際に負傷者が並べられていた。脚のない男が呻き、腹を布で押さえた女が震えている。その隣には、もう布を頭までかけられた者がいた。荷車がまた到着し、今度は死体が三人まとめて降ろされた。一人は胸から下が押し潰されていて、人間の形をまともに残していなかった。
「見るな、坊主。パン持ってこい!」
「あ、ああ!」
言われて身体が動いた。食べられる者へパンを配り、水を運び、空いた籠を回収する。朝から何も食べていないらしい冒険者がパンを掴んだまま泣き始めた。隣に座っていた仲間は、さっきまで生きていたのにもう動かないという。
「十七だ」
夕方、ギルドの職員が呟いた。
「何が?」
「死んだ人数だよ。今のところ十七人。まだ増えるかもしれん」
俺は返事ができなかった。
パン屋へ戻るころには日が落ちていた。女将も俺も腕が上がらないほど疲れていたが、普段の何倍ものパンを焼いた。ギルドからは緊急注文として通常より高い代金が支払われた。
「ルーク」
女将が帳面を閉じ、俺の前に銀貨を一枚置いた。
「今日はよく働いた。あんたがいなきゃ、とても数を揃えられなかったよ。これは今日の分だ。取っときな」
銀貨だった。
俺はすぐには手を伸ばせなかった。
「……銀貨一枚?」
「何だい。不満なのかい?」
「いや」
受け取った。ずしりと重かった。
条件は全部守られている。俺は犯罪をしていない。誰からも奪っていない。朝から夜まで働いた。女将も儲かったし、ギルドは必要なパンを買った。俺が銀貨一枚を受け取ること自体には、何一つおかしなところがない。
部屋へ戻ると、俺は震える手で日記を開いた。
『明日までに、俺は犯罪をせず、誰からも金を奪わず、働いた正当な報酬として銀貨一枚を得る。』
その下には、
『完了』
とあった。
「……これ、俺のせいか?」
答えはない。
「銀貨一枚のために、ダンジョンを崩したのか?」
当然、答えはない。
俺は自分で考えるしかなかった。ダンジョンの事故なんて、俺が何も書かなくても起きたかもしれない。むしろ事故が起こることが最初から決まっていて、日記はそこへ俺を接続しただけかもしれない。それなら日記は誰も殺していない。ただ、これから大量のパンが必要になると分かっていて、俺が銀貨を稼げる筋書きとして利用しただけだ。
その方が、少しだけましだった。
日記の文字が動いた。
「……え?」
『第六話 銀貨一枚』
俺は固まった。
そんなものは書いていない。
さらに、その下へ文字が増えていく。
『多くの犠牲を目の当たりにしたルークは、自らの力への疑念を深める。しかし、王都では新たな出会いが彼を待っていた。』
「待て」
文字は止まらない。
『次話――ダンジョン唯一の生存者』
「待てって」
俺は日記を閉じた。
数秒待って、もう一度開く。
消えていない。
「……俺、続きを書いてないぞ」
その下に、初めて見る短い一文が浮かんだ。
『連載を継続します。』
銀貨一枚が、急にどうでもよくなった。




