第五十八話 カーナが行方不明になって二カ月が経ちました
「まだ、見つかってないんですか?」
「ああ。今日でほぼ二か月だ」
ギルドの受付でそう言われて、俺は思っていたより長い時間が経っていたことに気づいた。
カーナが消えたのは、研究院から自宅へ戻れるようになってしばらくしてからだった。仕事には復帰できない。定期検査は続く。国から生活費は出る。それでも外出そのものは禁止されていなかった。
だからある朝、検査日に研究院へ来なかった時も、最初は大騒ぎにはならなかった。
翌日も来ない。
家にもいない。
そこから捜索が始まった。
「家は?」
「荒らされた形跡なし。荷物は一部なくなっていたらしい」
「じゃあ、自分で出ていった?」
「その可能性が高いって話だ」
受付が肩をすくめる。
「置き手紙もなし。争った跡もなし。血痕もなし。近所で騒ぎを聞いた奴もいない。少なくとも、誰かに家から引きずり出されたようには見えなかったらしいよ」
「……だったら」
逃げた。
そう思った。
研究院から。
王国から。
キメラ母体なんて呼び方をされる未来から。
自分で。
「それなら、見つからない方がいいのかも」
「何が?」
「いや、何でもないです」
受付は変な顔をしたけど、それ以上は聞かなかった。
カーナ本人が自分で消えたのなら。
それでいい。
二か月も捕まっていない。
なら、もうどこか遠くで普通に暮らしているのかもしれない。
その可能性を考えたら、少しだけ安心できた。
*
日記帳にも、この二か月、ほとんど新しい記載はなかった。
『対象カーナ――所在未確認。』
『王国側捜索――継続。』
『研究院との接触――なし。』
『死亡――確認されず。』
『キメラ母体関連展開――進行保留。』
進行保留。
最初に見た時は、その言葉も怖かった。
でも一週間。
二週間。
一か月。
二か月。
何も起きない。
日記帳はティナの地下水路異常と同じように、未解決の展開をただ維持しているだけだった。
だから。
「……本当に逃げ切ったのかな」
そう思い始めていた。
カーナは元研究員だ。魔術の知識もある。今は嗅覚や暗所視力まで普通の人間より高い。
追っ手を避けるには、むしろ以前より有利かもしれない。
仕事には戻れない。
元の生活にも戻れない。
でも。
国から離れた場所で、新しく暮らすことならできる。
そういう終わりでも。
いい。
*
「ルーク、これ運んで」
「はい」
午後は普通にパン屋を手伝った。
女将に言われて小麦粉の袋を運び、ミレアと棚を入れ替える。リサは依頼で外。セリアも朝からギルドへ行っている。
カーナが消えても、王都は何も変わらない。
パンは焼ける。
客は来る。
水も出る。
ティナも時々パンを買いに来る。地下水路の変な脈動音については、最近聞こえなくなる時間が増えたらしい。
何も解決していない。
でも。
何も起きない。
最近俺は、その状態が一番いいんじゃないかと思い始めていた。
「何にやにやしてるんだい」
女将に言われた。
「してました?」
「してたよ」
「ちょっと平和だなと思って」
「平和なパン屋で何言ってんだい」
「ですよね」
笑った。
本当に。
その時までは。
*
夕方、セリアが店へ戻ってきた。
「ルーク」
「おかえり」
「ギルドから呼ばれてる」
「俺?」
「ああ」
「何で?」
「知らん。ただ、遠方から来た冒険者の報告らしい」
「俺、遠方に知り合いいないよ?」
「私に聞くな」
嫌な感じはした。
でも黒い石の件なら、今でも時々研究結果の説明を受ける。
その程度だと思った。
ギルドへ行くと、応接室には見覚えのある責任者と、知らない冒険者が三人いた。旅装はぼろぼろで、一人は腕に包帯を巻いている。
「何かありました?」
「東部から来た連中だ」
「東部?」
かなり遠い。
普通に旅をすれば何週間もかかる距離だ。
「最近、あちらで妙な魔物の目撃報告が増えている」
「魔物?」
「分類できない」
責任者が一枚の紙を出した。
絵。
だった。
上手いわけじゃない。
でも。
おかしいことだけは分かる。
「……何これ」
四本脚。
そこまでは普通。
でも身体の一部が妙に平たく、背中には硬そうな鱗。頭部は狼みたいなのに、口の形が違う。
「描いた奴が下手なんじゃなくて、本当にこうだった」
冒険者の一人が言った。
「森狼かと思った。最初はな」
「違った?」
「斬った傷が塞がった」
「……」
「それだけじゃない。夜でもこっちを正確に追ってきた。寒い川へ入っても速度が落ちなかった」
聞いたことがある。
再生。
嗅覚。
暗所。
温度耐性。
「一匹?」
「最初は」
「最初は?」
「今は群れで出る」
部屋が静かになった。
「村が三つ襲われた。家畜を食ってる。人も襲う。ただ、既知のどの魔物にも当てはまらない」
「新種?」
「そういう扱いになってる」
責任者が答える。
「もっと問題なのは、個体ごとに特徴が違うことだ」
次の紙。
二足。
細長い腕。
硬い外皮。
次。
小さい。
丸い身体。
異様に長い脚。
次。
四足だけど、背中から膜のようなものが伸びている。
「……同じ種類?」
「分からない」
「群れは一緒?」
「ああ」
冒険者が頷く。
「見た目はばらばらなのに、一緒に動く。争わない。むしろ役割があるみたいだった」
「役割?」
「鼻の利く奴が先に見つける。硬い奴が柵を壊す。小さい奴が隙間から入る」
ぞっとした。
魔物。
というより。
組み合わせてる。
*
「それで、何で俺が?」
聞くと、責任者が別の書類を出した。
「魔力検査をした」
「倒した個体の?」
「ああ」
「結果は?」
「一個体から、複数種の魔物に似た魔力特性が検出された」
嫌な予感。
もう。
ほとんど答えだった。
「どんな?」
「森狼。地下蜥蜴。スライム系。その他、未同定が複数」
「……」
俺が黒い石の研究で聞いた名前。
全部。
入ってる。
「偶然ですよね」
「可能性はある」
「ですよね」
一瞬。
安心。
した。
「ただし」
責任者が続ける。
「王立魔術研究院が保管しているカーナの検査記録と、一部の魔力特性が一致した」
安心した俺が馬鹿だった。
*
胸元が熱くなった。
日記帳を開く。
『並行展開を更新します。』
『対象カーナ――行方不明から二か月経過。』
『死亡――確認なし。』
『所在――未確認。』
『同時期より、王都から遠く離れた複数地域で未分類生物の目撃件数が増加。』
遠い。
本当に遠い。
俺たちが今から行ったところで、到着まで何週間かかるか分からない。
『未分類生物。』
『個体ごとの外見――不統一。』
『複数種魔物形質――確認。』
『群れ形成――確認。』
『人里への襲撃――確認。』
『家畜被害――確認。』
『人的被害――発生。』
「……」
次。
『カーナとの因果関係――未確定。』
そこ。
確定。
じゃない。
「まだ……」
まだ。
違う。
可能性。
ある。
『ただし。』
嫌。
本当に。
この言葉。
嫌い。
『未分類生物から検出された複数の形質が、対象カーナへ定着していた外来形質と部分一致。』
『発生時期――対象失踪後。』
『初期目撃地点――対象捜索範囲外。』
『現在の生息域――拡大中。』
俺は頁を閉じた。
*
「行くのか?」
セリアが聞いた。
「無理」
即答した。
「遠すぎる」
「ああ」
「行っても、その頃にはもう場所変わってる」
「そうだな」
何より。
俺たちには依頼もない。
証拠もない。
カーナがそこにいるかすら分からない。
俺が日記帳を読めるからって、それを他人に説明することもできない。
結局。
できるのは。
噂を聞く。
報告を読む。
それだけ。
「……嫌だな」
「何が?」
「何もできないの」
セリアは少し黙った。
「遠くの魔物全部をルークがどうにかする必要はない」
「分かってる」
分かってる。
だから。
余計に。
嫌。
*
数日後。
また新しい噂が届いた。
今度はさらに北東。
「また?」
受付も嫌そうだった。
「別の村。一晩で家畜がかなりやられた」
「人は?」
「負傷者あり。死者も出たらしい」
「生き物は?」
「三体討伐。一体逃走」
「同じ?」
「似てる。でも、前に報告された個体とは姿が違う」
紙。
見る。
今度のは。
もっと。
変。
二本の脚で立つ。
長い腕。
背中に硬い殻。
顔。
魔物。
何の種類か。
分からない。
「これ……」
「何だ?」
「いや」
人間。
みたい。
そう言いそうになって。
やめた。
*
夜。
日記帳。
『未分類生物による人里襲撃――継続。』
『発生地域――複数。』
『王都からの距離――主人公による即時介入不能。』
『主人公は現地情報を噂、ギルド報告および本記録から取得します。』
「……」
やっぱり。
俺。
行かない。
行けない。
『未分類生物について、単一種としての形態統一が確認されません。』
『共通点。』
『複数種由来形質。』
『高い環境適応力。』
『個体ごとに異なる特徴。』
『群れ行動。』
『人里への警戒が低い。』
『繁殖経路――未確認。』
最後。
そこで。
手。
止まる。
「繁殖……」
キメラ。
母体。
カーナ。
行方不明。
二か月。
『現時点では、対象カーナが未分類生物の発生へ直接関与した証拠はありません。』
よかった。
とは。
もう。
思わない。
学んだ。
次。
『調査継続。』
それだけ。
「……」
安心。
しなかった。
今度こそ。
しなかった。
なのに。
次の頁。
『追加情報。』
「……何だよ」
『討伐された未分類生物の推定成長期間――二か月未満。』
カーナ。
消えた。
二か月。
俺は。
しばらく。
頁から。
目を離せなかった。
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