第五十六話 安全だから、もう少し試せるそうです
「追加の実験は中止してください」
「中止する理由がない」
「あるでしょ!」
翌朝、研究院へ着いて早々、俺はバルドに食ってかかった。
カーナは魔力を取り戻した。そこまではいい。問題は、その身体に黒い石が吸収していた別の生物の性質まで定着し、しかも生殖に関わる部分にまで影響が出ていることだ。
日記帳は昨日、それをはっきりと書いた。
『キメラ母体――完成。』
だったら、ここで止める。それ以外ないと思っていた。
「本人の身体が変わってるんですよ?」
「分かっている」
「じゃあ!」
「だから調べる。異常が起きているのに、何も確認せず帰す方が危険だ」
「……」
言っていることは正しい。
正しいのが嫌だった。
「それに、現時点でカーナに健康上の問題は確認されていない」
「問題ない?」
「ああ。体温、血圧、食事、睡眠、運動能力、内臓機能。すべて正常だ。魔力循環については事故以前より安定している」
バルドが記録を一枚ずつ見せる。
「だから、安全だからもう少し試せる」
「その言い方、やめてください」
*
カーナ本人は別室にいた。
「帰れそうですか?」
俺が聞くと、彼女は困ったように笑った。
「まだだそうです」
「帰りたい?」
「そりゃ帰りたいですよ。家、二週間以上空けてますから」
「嫌なら検査断れないんですか?」
「検査自体は断れるって言われました。でも……」
カーナは自分の手を見る。見た目は普通だった。ただ以前より爪が硬くなり、小さな切り傷なら翌日にはほとんど残らなくなったらしい。
「この身体がどうなってるのか、私も知りたいです」
「そうですよね」
「魔力が戻ったのは嬉しいんです。本当に。二年間、もう魔法は使えないと思ってたから」
指先に、小さな光が灯る。
「これが出た時、泣くほど嬉しかったんですよ」
「見てました」
「だから、全部失敗だったって思いたくないんです」
それも分かる。
成功した。
だからこそ。
やめにくい。
*
検査は増えたが、危険なことはしなかった。血液や魔力の測定、視力や聴力、温度変化への反応、傷の治癒速度。どれも普通の健康診断を少し大げさにした程度だった。
そして、その全部で新しい結果が出た。
「暗いところ、前より見えます」
「どの程度?」
「夜でも足元くらいなら」
「聴力は?」
「隣の部屋の会話が少し聞こえるようになりました」
「匂いは?」
「……昨日の夕食、厨房で魚焼いてましたよね?」
研究員が顔を見合わせる。
「三部屋離れていたぞ」
「私もびっくりしてます」
体力も上がっている。傷も早く治る。寒さにも強くなった。
それだけなら。
「便利になってない?」
俺は思わず言った。
カーナも少し笑う。
「そうなんですよね」
その瞬間、自分で言ってしまったことに気づいた。
「……いや、今のなし」
「何でです?」
「俺が安心するとろくなことにならないから」
「変な人ですね」
「最近よく言われます」
*
午後、その理由が分かった。
「これは、いつ採取した魔力です?」
バルドが机の上に三つの魔石を並べる。
「スライム、森狼、地下蜥蜴。例の黒い石に保存させたものだ」
「それ、カーナさんには使ってないですよね?」
「直接はな」
「直接は?」
嫌な言葉だった。
「黒い石を覚えているか。接触しなくても一定範囲内の魔力を吸収する」
「はい」
「逆も成立していた」
「……逆?」
「魔力が著しく少ない対象が近くに存在すると、石が自動的に魔力を移していたらしい」
頭の中で何かが繋がった。
カーナは魔力を作る器官を損傷していた。
だから、ずっと魔力が少ない。
そして経過観察中。
「黒い石、どこに置いてました?」
「同じ研究棟だ」
「距離は?」
「カーナの部屋から最も近い時で十数メートル」
「吸収範囲、三十センチくらいじゃなかった?」
「通常時はな」
バルドが別の記録を出した。
「大量の魔力を蓄積した状態では、移送可能距離が伸びる」
「……どれくらい?」
「まだ正確には分からない」
つまり。
魔物由来の魔力を石へ入れた。
その時、近くに。
魔力の少ないカーナがいた。
「全部、入った?」
「全部ではない」
一瞬だけ安心した。
「複数種が少量ずつ移っている」
「安心させてから言うのやめて!」
「何の話だ?」
「こっちの話です!」
*
検査結果が並ぶ。
スライム由来の再生性。
森狼由来の嗅覚と聴覚。
地下蜥蜴由来の温度耐性。
それぞれが、そのまま魔物の身体を作るほど強く出ているわけではない。人間の身体を基準に、役に立つ範囲で混ざっている。
「拒絶反応は?」
「ない」
「身体が壊れたり?」
「していない」
「元に戻る可能性は?」
「今のところ低い。外来性質を身体自身が正常な機能として維持している」
バルドは研究者として興奮を隠せていなかった。
「凄いぞ。普通なら異種魔力を直接入れれば反発する。それがない。黒い石を通すことで、対象へ適合するよう調整されている可能性がある」
「つまり?」
「魔物の性質だけ、人間へ安全に移植できる可能性がある」
「安全って言葉、今日何回言うんですか」
「安全だから重要なんだ」
そう。
危険なら止まる。
死ぬなら止める。
拒絶反応が出るなら、研究として失敗になる。
でも。
安全。
だから。
先へ進める。
*
胸元が熱くなった。
日記帳を開く。
『安全性評価を更新。』
『対象カーナ。』
『生命維持――安定。』
『人格――維持。』
『記憶――維持。』
『知能――維持。』
『日常生活能力――維持。』
『異種形質による健康被害――現時点で確認なし。』
『複数魔物由来性質の安定共存――確認。』
全部。
いい結果。
なのに。
嫌な予感しかしない。
『安全実験が成功したため、次段階への移行条件を満たしました。』
「満たさなくていい」
日記帳は何も返さない。
『研究上の課題。』
『移送可能な形質の種類。』
『一個体へ保持可能な形質数。』
『世代を超えた形質維持の可否。』
「最後」
もう。
分かった。
『対象カーナの生殖機能――正常。』
『外来形質――生殖系魔力循環にも定着済み。』
『理論上、子孫への継承可能性あり。』
「確認しなくていいだろ……」
*
夕方、さらに王国側の人間が増えた。
「保護対象?」
カーナが聞き返した。
「正確には、希少魔術現象の当事者として一時的な保護指定を提案しています」
「それ、何が変わるんですか?」
「住居は研究院側で用意します。生活費も国が負担する。外出についても――」
「待って」
カーナの声が変わった。
「私、家に帰れないんですか?」
「禁止ではありません。ただ、安全確保のため当面は――」
「それを帰れないって言うんじゃないんですか?」
誰もすぐには答えなかった。
昨日までは治療を受けた元魔術師だった。
今日は。
国が保護するほど貴重な人間になった。
本人が望んだわけでもないのに。
「私、魔力が戻ったら仕事に復帰するつもりだったんです」
「もちろん、将来的には――」
「将来じゃなくて」
カーナは机を見た。
「私、治ったんですよね?」
「魔力機能については大幅に改善しています」
「だったら、何で帰れないんですか?」
治ったから。
だった。
治療が失敗していれば、ただの患者だった。
成功した。
しかも。
成功しすぎた。
だから。
研究対象になった。
*
その夜、日記帳の記載は短かった。
『キメラ母体運用条件を整理します。』
「運用するなよ」
『対象を死亡させる必要はありません。』
『身体を大規模に損壊する必要もありません。』
『魔物との直接融合処置も不要です。』
『黒色石状物質を介した形質移送により、安全かつ段階的な複合化が可能です。』
参考例二。
最初に見た時はもっと酷かった。
魔物と融合させる。
繁殖に利用する。
見るからに地獄。
だから。
そのままは不採用になった。
でも日記帳は、そこから一番酷いところだけ抜き出した。
対象を生かす。
人格も残す。
元の自分も覚えさせる。
そして。
『キメラ製造における最大の技術的問題であった異種形質の拒絶反応――解決。』
『母体死亡リスク――大幅低下。』
『複数種形質の同時保持――可能。』
『残課題。』
見たくない。
でも文字は増える。
『次世代への形質継承を実証する必要があります。』
「必要ない!」
何も返らない。
次話候補だけが、その下へ現れた。
『第五十七話 子供に受け継がれるか確認が必要だそうです』
「確認しなくていいんだよ!」
階下から女将の声が飛んできた。
「ルーク! 夜中に何騒いでるんだい!」
「すみません!」
俺は日記帳を閉じた。
昨日。
全部成功した。
誰も死ななかった。
カーナも元気になった。
だから俺は。
本当に安心した。
失敗したから地獄になったんじゃない。
今回。
全部成功したから。
ここまで来た。
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