第五十話 『新規成人女性キャラクターを配置しました。』
「これ、二つください」
「はい。銅貨六枚です」
昼前。
店に来た女は、焼きたての丸パンを二つ買った。
それだけだった。
「あと、この固いやつも一つ」
「保存用ですか?」
「ううん。弟に」
「弟さん、固いパン好きなんです?」
「噛み応えがある方が腹に溜まるとか言って。二十二にもなって食べ方が子供なのよ」
女は笑いながら銅貨を追加した。
二十代半ばくらい。
栗色の髪を後ろでまとめ、袖を肘まで捲っている。腰には小さな革袋と、細長い金属製の道具が何本か差してあった。
冒険者じゃない。
でも。
どこかで見たことがある気がする。
「あれ?」
「何?」
「前にも来ました?」
「何度も来てるわよ」
「ごめんなさい!」
「いいって。いつも女将さんから買ってたし」
女将が厨房から顔を出した。
「ルーク、その子はティナだよ。南区の水道屋」
「水道屋?」
「水道屋じゃない」
ティナがすぐ訂正した。
「水路管理組合の点検員」
「同じようなもんじゃないかい」
「全然違いますって!」
言い返しながら笑っている。
普通。
本当に。
それだけ。
だった。
胸元が熱くなるまでは。
*
嫌な予感がして。
ティナが店を出たあと、日記帳を開いた。
『新規成人女性キャラクターを配置しました。』
「……今の人?」
もちろん。
何も返ってこない。
文字だけが続く。
『ティナ・ローヴェル。』
『二十六歳。』
『王都南区水路管理組合所属。』
『職歴――八年。』
『未婚。』
『交際相手あり。』
『同居家族――母、弟。』
『生活状態――安定。』
『職業上の評価――良好。』
『家族関係――良好。』
『将来計画――あり。』
「……やっぱり」
さっきまで。
ただ。
パンを買いに来た人だった。
日記帳に名前を書かれた瞬間。
違って見える。
『破滅前の日常を開始します。』
「やめろよ」
文字は止まらない。
『現時点では破滅させません。』
『まず、本人にとって現在の生活が通常であり、今後も継続すると認識できる状態を描写します。』
嫌な。
書き方。
だった。
今。
幸せだから。
そのまま。
幸せで。
いればいい。
なのに。
日記帳にとっては。
破滅前。
もう。
そういう扱い。
*
「ティナなら昔から来てるよ」
昼飯の時。
女将が何でもないことみたいに言った。
「俺、覚えてなかった」
「あんた最近まで店に立ってなかっただろ」
「そうでした」
「南区の水路を見て回ってる子だよ。親父さんも同じ仕事だった」
「へえ」
「亡くなってから、あの子が家を支えてる」
「お父さん亡くなってるんですか?」
「何年も前さ。病気だよ」
ミレアが横から言う。
「ティナさん、よく店に来るよ。弟さんも時々」
「弟も水路関係?」
「いや」
女将。
「弟は石工の見習い。母親は家で繕い物」
「じゃあティナさんが一番稼いでる?」
「今はね。でも弟ももうすぐ一人前になるらしいよ」
普通の家族。
父親を亡くして。
姉が働いた。
弟も育った。
母親もいる。
ようやく。
少し。
楽になるところ。
嫌な予感しかしない。
「何だい、その顔」
「いや」
「人んちの家計聞いて変な顔するんじゃないよ」
「ごめんなさい」
*
夕方。
ギルドへ行く途中。
またティナを見た。
「そこ踏まないで!」
「え?」
危うく足を止める。
石畳の一部が外されていた。
その横でティナがしゃがみ込み、地面の下へ細い棒を差し込んでいる。
「ごめん。店の子よね?」
「ルークです」
「ティナ」
「さっき聞きました」
「あ、そっか」
穴の下。
水の音。
「何してるんです?」
「詰まりの確認」
「こんなところから?」
「そう」
ティナは細長い金属棒を抜いた。
先に泥。
「ここじゃないな」
「分かるんです?」
「音で」
「音?」
「水の流れ方。詰まってると響きが違うの」
「すご」
「八年やってればね」
別の場所へ。
棒。
差す。
耳。
近づける。
「こっち」
迷わない。
「本当に分かるんだ」
「失礼ね」
「いや、褒めてます」
「ならよし」
笑う。
そこへ別の作業員が走ってきた。
「ティナ!」
「何?」
「南三番、また水位上がってる!」
「昨日直したでしょ!」
「上流から何か流れてきた!」
「最悪!」
道具をまとめる。
「じゃ、またね」
「はい」
「パン美味しかった!」
走っていく。
普通に。
働いてる。
人。
だった。
*
胸元。
熱。
日記帳。
『対象の固有価値を確認。』
『ティナは水路内部の流水音から、閉塞、漏水、逆流等を高精度で推測できます。』
『魔法ではありません。』
『八年間の実務経験による技能です。』
「そこは普通なんだ」
『同職種内でも精度は高い。』
『本人の職業的自己評価における重要要素。』
『本人は自身を特別な存在とは認識していません。』
それも。
普通。
『本人が現在失いたくないものを整理します。』
「……来た」
『第一。』
『家族の日常。』
『第二。』
『水路管理の仕事。』
『第三。』
『自身の身体的自立。』
『第四。』
『交際相手との将来。』
『第五。』
『他者の役に立てるという自己認識。』
「多いな」
でも。
どれも。
特別じゃない。
家族。
仕事。
恋人。
自分で歩く。
働く。
役に立つ。
普通。
『全項目を喪失させる必要はありません。』
前回。
参考例。
思い出す。
全部。
奪わない。
一番。
大事なもの。
残す。
『破滅後にも複数項目を維持します。』
「……」
やっぱり。
*
二日後。
ティナがまたパン屋へ来た。
「今日は柔らかいやつ四つ」
「増えた」
「弟が給金もらったから」
「それでティナさんが買うんです?」
「今日はあいつが払う」
銅貨を置く。
「じゃあ弟さんのおごり?」
「家族全員にね。初めてまともな給金もらったから」
「おお」
「今夜ちょっといい肉も買う」
嬉しそう。
本当に。
嬉しそう。
「一人前になったんです?」
「まだ。でも親方が、あと半年くらいで職人扱いにしてくれるって」
「じゃあティナさんも楽になる」
「そうなのよ!」
声。
大きい。
「八年!」
「はい?」
「八年、私が家で一番稼いでたの。ようやくあいつにも家賃半分出させられる!」
「そこ?」
「大事でしょ!」
「大事ですね」
笑う。
女将まで。
奥で。
笑ってる。
「それで」
俺。
「恋人もいるんですよね」
「何で知ってるの?」
「え」
まずい。
「女将!」
「私かい!?」
女将。
睨む。
「余計なこと言ったね」
「家族の話の流れで!」
「まあいいけど」
ティナは。
少し。
顔。
赤い。
「来年くらいには一緒に住む予定」
「結婚?」
「……多分」
「おお」
「まだ決めてないから!」
でも。
嬉しそう。
「相手は?」
「北区の家具職人」
「いい人?」
「普通」
「一番いいやつ」
「そう?」
「多分ね」
照れる。
パン。
抱える。
「じゃあ帰る。肉も買わないと」
「はい」
「またね」
出ていく。
扉。
閉まる。
俺。
しばらく。
見る。
「ルーク」
女将。
「何だい」
「……いい人ですね」
「ティナ?」
「はい」
「そうだね」
「普通に幸せそう」
「何だ、その言い方」
「いや」
本当に。
そのまま。
で。
いい。
*
夜。
日記帳。
『破滅前の日常描写――進行。』
『対象ティナ。』
『弟の収入安定により家計負担低下予定。』
『母親――健康状態安定。』
『交際相手――関係良好。』
『同居計画――約一年以内。』
『職業――本人が継続希望。』
『現在の本人認識。』
『今後、生活は徐々に楽になる。』
「……」
そこ。
一番。
嫌。
だった。
苦しい。
時期。
じゃない。
抜ける。
ところ。
『破滅前幸福度――適正。』
「適正って言うなよ」
日記帳は何も返さない。
『過度な幸福ではありません。』
『父親死亡歴あり。』
『家計を長期間支えた経験あり。』
『職業上の危険あり。』
『生活に小規模な不満あり。』
『その上で、本人は現在を概ね肯定。』
『将来への期待――上昇中。』
つまり。
完璧な人生。
じゃない。
だからこそ。
普通。
『対象が最も失いたくないものを暫定決定。』
見る。
『「自分の仕事によって、人の普通の生活を守れること」。』
「仕事?」
『水路管理は目立たない。』
『本人も英雄願望なし。』
『しかし、正常に水が流れ、住民がそれを当然に使用できる状態へ職業的誇りを持つ。』
今日。
あの穴。
見た。
泥。
詰まり。
直す。
誰にも。
褒められない。
水。
出る。
それが。
普通。
その普通を。
守る。
仕事。
『第二の重要要素。』
『自身の身体で現場へ赴き、自身の手で問題を解決できること。』
「……」
嫌。
な。
組み合わせ。
『破滅後にも、上記価値観の一部を残します。』
やめろ。
『完全に仕事不能とはしません。』
「……」
『完全に他者を救えない状態にも設定しません。』
前回。
調べていた。
参考例。
思い出す。
能力。
残す。
使命。
残す。
大切なもの。
残す。
残したまま。
人生だけ。
変える。
*
『事件開始条件を設定します。』
来た。
読む。
嫌。
でも。
目。
離せない。
『王都南区。』
『地下水路。』
『通常の閉塞事故として開始。』
『ティナを含む水路管理員が対応。』
『当初、魔物事件とは認識されません。』
「……」
『第一段階では死者を出しません。』
『ティナも負傷させません。』
『本人は通常業務として帰宅します。』
まだ。
何も。
起きない。
『異常の存在のみを提示します。』
「異常」
最後。
『水路内で、本来存在しない脈動音が確認されます。』
脈動。
水。
じゃない。
音。
『第五十一話候補。』
『水路の奥で、何かが脈打っています』
「……」
ティナ。
二十六歳。
水路管理員。
母。
弟。
恋人。
来年。
一緒に住む。
弟も。
もうすぐ。
一人前。
今まで。
八年。
頑張って。
ようやく。
生活が。
少し。
楽になる。
その。
タイミング。
日記帳は。
選んだ。
何も。
壊れてない。
まだ。
ティナは。
明日も。
普通に。
仕事へ行く。
水が。
流れてるか。
確かめる。
そして。
地下で。
水じゃない何かの。
音を。
聞く。
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