第四十六話 ゴブリンたちは完全に消えた
「遠くの村で、娘が三人消えたらしいぞ」
冒険者ギルドでその話を聞いた瞬間、俺は持っていた杯を置いた。
「……どこの村?」
「知らねえよ。北東の方だってさ。商人が街道で聞いてきた話らしい」
隣の卓で話していた冒険者は、それ以上たいして興味もなさそうだった。盗賊かもしれない。駆け落ちかもしれない。森へ入って魔物に襲われたのかもしれない。この世界では、遠方の村で何人か行方不明になったというだけなら、王都中が騒ぐような話じゃない。
でも、俺には嫌な予感がした。
「ルーク?」
向かいにいたリサが俺を見る。
「ちょっと待って」
胸元が熱くなる。日記帳を開くと、すぐに文字が浮かんだ。
『前回確認から一カ月以上が経過しました。』
『ゴブリンたちとエルナは完全に消えました。』
「……」
『遠方の村の娘たちが行方不明になっているという噂が流れています。』
「おい」
「何だ?」
「いや……」
さらに続く。
『行方不明者――全員成人女性。』
『現在まで帰還者なし。』
俺はそこで手を止めた。
「……戻ってない?」
『はい。』
「一人も?」
『現在確認可能な範囲では、一人も戻っていません。』
「返事みたいに書くなよ……」
「ルーク」
リサの顔が険しくなる。
「今度は何だ」
「女の人が消えてるって話」
「さっきの?」
「一つの村だけじゃないかもしれない」
「……エルナ?」
すぐにそこへ行く。
俺も同じだった。
「分からない」
「ゴブリンは?」
「それも分からない」
「じゃあ、まだ決めるな」
「うん」
日記帳を見る。
『旧ゴブリン集団との因果関係――現時点では未確定。』
なら。
何で並べて書くんだよ。
*
一カ月以上前。
俺たちは、人里から消えたエルナを追って森の奥へ入った。
そこで見つけたのが、今までのゴブリンの巣とはまるで違う集落だった。柵。見張り。食料の備蓄。水場と排泄場所の分離。火の維持。役割分担。
ゴブリンに文明が持ち込まれていた。
持ち込んだのはエルナだった。
そして、その中心には新しいゴブリンキングがいた。キングはエルナを大事にし、エルナもその隣にいることを自分で選んだ。
日記帳は勝手にこう書いた。
『ゴブリンキングに王妃があらわれました。』
俺は何度も否定した。
エルナ本人だって王妃なんて呼ばれていないし、そんな称号を名乗ったわけでもない。
でも、機能だけ見れば日記帳の言うことにも一理あった。
キングはエルナを守り、エルナはキングの判断へ影響を与え、他のゴブリンたちは二人の指示で動いていた。
その後、俺たちは何度か遠くから集落を確認した。
最初は煙が上がっていた。
次も。
その次も。
そしてある日。
煙が消えた。
*
「……いない」
森の奥に残っていたのは、空っぽの集落だけだった。
ゴブリンが一匹もいない。
エルナも。
ゴブリンキングも。
小さな個体まで全部。
「襲われた跡じゃないな」
セリアが柵の周囲を調べる。
「壊されていない。血もない。死体もない」
リサが小屋の中から出てきた。
「食料もないぞ」
「全部食べた?」
「違う。保存用の袋も縄もなくなってる。持っていったんだ」
俺も中を見る。
必要な物だけがない。
食料。皮。縄。武器。使える器。
残っているのは、割れた壺や腐った木片みたいなゴミばかりだった。
「……引っ越した?」
「ああ」
セリアが頷いた。
「しかも慌てて逃げたんじゃない。持っていく物を選んでいる」
胸元が熱くなった。
『集落移動を確認。』
『襲撃による壊滅――該当せず。』
『統率崩壊――該当せず。』
『食料不足による無秩序な散開――該当せず。』
『計画的集団移動の可能性――高。』
「計画的……」
以前のゴブリンなら、食料がなくなったから移動する。強い魔物が来たから逃げる。そんな程度だった。
でも、これは違う。
食料を持ち、道具を持ち、使えるものを残さず、群れ全体で移動している。
「これも文明か」
俺が呟くと、リサが眉を寄せる。
「どういう意味だ?」
「村の作り方だけじゃなくて、村を捨てて移動する方法まで覚えたってこと」
前に日記帳が書いた言葉を思い出した。
『文明とは、善悪ではなく蓄積です。』
本当に。
嫌なほど、その通りだった。
*
足跡はあった。
でも、長くは続かなかった。
「こっちだな」
セリアを先頭に追う。しばらく歩いて気づいた。
「街道と逆方向?」
「ああ」
「人が通る道を避けてる?」
「それだけじゃない」
セリアが地面を指す。
「何度も川へ入っている。石場も選んでる。追跡されにくい場所を通っているな」
「偶然?」
「ここまで続けば違う」
エルナ。
冒険者歴十一年。
野営も、追跡も、逃走も、討伐隊がどう動くかも知っている。
「エルナが教えたのかな」
リサが言った。
「分からない。でも、できる」
夕方には足跡が完全に消えた。
川を渡った先が岩場になり、そこから何方向へ進んだのかすら分からない。
翌日以降も周辺を探したが、見つからなかった。
やがて俺たちは追跡をやめた。
エルナ自身が人里から離れることを選んだ。
それを無視して、何日も何日も追い回すのも違うと思ったからだ。
それから一カ月以上。
エルナも。
ゴブリンキングも。
あの集落にいたゴブリンたちも。
誰にも目撃されなかった。
本当に。
完全に消えた。
*
そして今。
「一つじゃないぞ」
東門近くの宿で、行商人が言った。
「え?」
「娘が消えた村だよ。俺が聞いただけでも三つある」
俺とリサ、それにセリアが顔を見合わせる。
「何人です?」
「正確には知らん。一つ目で二人。次で一人。その次で三人だったかな」
「六人」
「噂通りならな」
「年齢は?」
「全員成人だ。十八から二十代くらいだと聞いた」
「いつ?」
「ここ半月ほど」
「戻ってきた人は?」
商人が首を振った。
「少なくとも、俺がこの街まで来る間には一人も戻ったって話は聞いてない」
「死体は?」
「それも聞いてない」
「身代金?」
「ない」
「盗賊の襲撃跡は?」
「村そのものが襲われたわけじゃないらしい。夜にいなくなったとか、森へ行って帰らなかったとか、家畜を探しに出たままとか。話はばらばらだ」
「ゴブリンを見た人は?」
「いない」
そこで。
少しだけ安心しかける。
「ただ、小さい足跡があったって村はあるらしいぞ」
「……」
「人間の子供かもしれんし、小型の魔物かもしれん。そこは誰も分からん」
セリアが地図を広げる。
「村の場所は?」
「この辺……いや、もっと向こうだ。俺も直接行ったわけじゃない」
「王都からどのくらい?」
「遠いぞ。馬車を乗り継いでも十日やそこらじゃ済まん。最後は街道すら外れる」
「そんなに?」
「ああ。俺だって別の商人から聞いた話だ。その商人も宿場町で聞いたらしい」
そこで分かった。
調査には行けない。
*
「無理だな」
宿を出たところで、セリアが言った。
「でも」
「場所すら正確じゃない。三つの村が互いにどのくらい離れているかも分からない。今から向かっても、到着する頃には情報が何週間も古くなっている」
「依頼も出てないしな」
リサも続ける。
「王都を何十日も空けて、出所すら分からない噂を追いかけるわけにはいかない」
「……分かってる」
俺だって、頭では分かる。
エルナが関係している証拠はない。
ゴブリンが関係している証拠もない。
それなのに、噂を聞いただけで大陸の向こうまで追いかけるなんて現実的じゃない。
「でも、もしエルナだったら」
「それでもだ」
セリアが言う。
「今の私たちには確かめる手段がない」
それが。
一番嫌だった。
*
数日後。
「また女が消えたらしい」
今度は北から戻った冒険者が話していた。
「同じ村?」
「知らねえよ。もっと向こうだ」
「戻った人は?」
「聞いてない」
さらに数日後。
パン屋の客が話す。
「北東じゃ若い女を一人で外へ出すなって話になってるらしいよ」
「前に消えた人たちは?」
「戻ってないってさ」
別の日。
「盗賊じゃないか?」
「人買いだろ」
「いや、魔物だって聞いた」
「ゴブリンらしいぞ」
「ゴブリンを見た奴はいないだろ」
噂だけが増える。
でも。
一つだけ。
何度聞いても変わらない部分があった。
消えた女たちは。
戻らない。
一週間経っても。
二週間経っても。
最初に名前が挙がった六人。
その後に噂へ加わった女たち。
誰か一人でも「帰ってきた」という話が、王都へ届くことはなかった。
*
日記帳を開く。
『情報更新。』
『遠方の複数村落において、成人女性の失踪事例が継続。』
『正確な総数――不明。』
『情報経路が伝聞であるため、重複報告の可能性あり。』
「じゃあ何人かも分からない」
『はい。』
「でも」
聞く。
「最初の六人は?」
『帰還確認――なし。』
「その後の人は?」
『帰還確認――なし。』
「一人も?」
『現時点まで、帰還した成人女性は確認されていません。』
「……」
ここ。
だけ。
はっきりしてる。
『遺体発見――確認なし。』
『生存確認――なし。』
『身代金要求――なし。』
『犯行声明――なし。』
『明確な大規模襲撃――なし。』
「じゃあ」
女たちは。
どこに。
行った。
『不明。』
次。
『旧エルナ所属ゴブリン集団――現在位置不明。』
「また並べる」
『時間的整合性――あり。』
『移動可能距離――整合。』
『直接証拠――なし。』
「じゃあエルナたちじゃないかもしれない」
『その可能性もあります。』
「別の事件?」
『その可能性もあります。』
「全員別々の理由?」
『否定できません。』
何も。
分からない。
でも。
女たちは。
戻らない。
*
ミレアにも噂は届いていた。
「お客さんが話してた」
パンを並べながら言う。
「女の人が何人も消えてるって」
「うん」
「ゴブリンって話も?」
「噂では」
ミレアの手が止まった。
「……そう」
「でも証拠はない」
「うん」
「見た人もいない」
「分かってる」
ミレアは少し黙ってから、棚へパンを置いた。
「戻ってきた人は?」
「……いない」
「一人も?」
「今のところ」
俺が答えると、ミレアの表情が変わった。
「それが一番嫌だね」
「うん」
「死んだって分かれば、それはそれで最悪だけど」
「……」
「何も分からないまま戻らない方が」
そこで止める。
「ごめん」
「謝らなくていい」
ミレア自身。
ゴブリンに連れ去られた経験がある。
だから。
考える先。
俺より。
具体的なのかもしれない。
「でも」
ミレアが言う。
「まだゴブリンだって決まったわけじゃない」
「うん」
「エルナだって」
「うん」
「決めつけないで」
「分かってる」
分かってる。
分かっているはずなのに。
頭の中では。
どうしても。
繋がる。
*
夜。
日記帳。
『現状整理。』
『一カ月以上前。』
『エルナおよび文明化したゴブリン集団――旧集落から計画的に移動。』
『以後、所在不明。』
『現在。』
『遥か遠方の複数村落から、成人女性失踪の噂が継続的に流入。』
『対象地域は主人公所在地から遠く、主人公一行による直接調査は現実的ではありません。』
「そうだよ」
『主人公側が取得可能な情報――商人、旅人、冒険者その他による伝聞のみ。』
『情報精度――低。』
『失踪者総数――不明。』
『原因――不明。』
『ゴブリン集団との関連――不明。』
『エルナの関与――不明。』
そこまで。
全部。
不明。
「でも」
俺。
聞く。
「女の人たちは?」
文字。
『戻っていません。』
「……」
『少なくとも、物語上確認された失踪成人女性について、帰還者は現在まで存在しません。』
断定。
される。
『失踪後、家族への連絡――なし。』
『村への自発的帰還――なし。』
『他都市での生存確認――なし。』
『救出報告――なし。』
『遺体確認――なし。』
生きているとも。
死んでいるとも。
分からない。
ただ。
戻ってこない。
*
『なお。』
「何」
『旧集落時代の文明化ゴブリンは、人間との不要な遭遇を回避する行動傾向を獲得していました。』
そうだった。
エルナが教えた。
街道へ出るな。
人間を無闇に襲うな。
見つかれば討伐隊が来る。
『仮に。』
「……」
『今回の失踪事例が同集団によるものだった場合。』
嫌。
な。
続き。
『何らかの方針変更が発生したことになります。』
「まだ仮定」
『はい。』
『または。』
次。
『集落全体を危険へ晒す従来型の襲撃ではなく、外部へ発見されにくい方法を獲得した可能性があります。』
「……」
昔のゴブリンなら。
村へ突っ込む。
殺す。
奪う。
騒ぎになる。
討伐隊が来る。
でも。
見張りを覚えた。
待つことを覚えた。
痕跡を消すことを覚えた。
人間がどう捜索するかも。
少し。
知ってしまった。
だからって。
やったとは。
限らない。
「エルナが止めるだろ」
日記帳へ。
言う。
「人間を襲わせないって言った」
『過去発言として確認。』
「なら」
『現在も同方針であるか――不明。』
「……」
『エルナが現在集団内でどの程度の影響力を保持しているか――不明。』
「キングはエルナを大事にしてた」
『過去時点では確認。』
「今も」
『不明。』
「全部それかよ」
分からない。
遠すぎる。
見に行けない。
確かめられない。
*
数日。
また。
商隊が来た。
噂も来た。
「まだ帰ってないらしい」
「誰が?」
「前に消えた娘たちだよ」
それだけ。
さらに一週間。
「また一人いなくなったって」
「どこ?」
「遠くだ。村の名前までは知らん」
「前の女たちは?」
「戻ってねえよ」
いつから。
俺は。
その質問ばかり。
するようになった。
誰か戻った?
一人でも?
逃げてきた?
別の町で見つかった?
答え。
毎回。
同じ。
「いや」
「聞いてない」
「戻ってないらしい」
それだけだった。
*
日記帳を開く。
『次話候補。』
『第四十九話 誰も帰ってこない』
「……」
そのまま。
じゃん。
『状況の変化を明確化するため適切。』
「嬉しくない」
『また。』
「何」
『噂の発生地域に変化があります。』
手。
止まる。
「どういう」
文字は。
すぐには。
出ない。
『詳細は次話で扱います。』
「そういう引き要らないから!」
返事。
ない。
でも。
その夜。
俺が。
一番気になっていたのは。
次の話。
じゃなかった。
最初の六人。
その後に消えた人たち。
名前も。
顔も。
知らない。
俺たちは。
遠すぎて。
調べにも。
行けない。
何が起きたのか。
誰に連れていかれたのか。
そもそも。
連れていかれたのかすら。
分からない。
ただ。
時間だけは。
過ぎていく。
一日。
一週間。
二週間。
それでも。
誰一人。
帰ってこなかった。
エルナも。
ゴブリンたちも。
消えたまま。
そして。
遠くの村から消えた女たちも。
消えたままだった。
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