第四話 『明日、道で銅貨一枚を拾う。』
パン屋の倅になって三日ほど経ったころ、俺はもう一度日記を開いた。
村が滅びた原因が本当に日記だったのか、それはいまだに分からない。ただ、あれ以来、大きなことを書く気にはなれなかった。だから今度は、どう考えても誰も死なず、何も壊れそうにないことを試す。
『明日、道で銅貨一枚を拾う。』
これなら大丈夫だろう。
銅貨一枚ならパン一つにもならない程度の小銭だ。誰かが落として、それを俺が拾う。それだけで条件を満たせる。村一つ滅ぼす必要なんて、どう考えてもない。
文字が淡く光り、その下に『改稿を開始します』と浮かんだ。
「……頼むぞ。本当に普通でいいからな」
日記に言っても仕方がないが、念のため言っておいた。
翌朝、女将に頼まれて小麦粉を取りに行った帰りだった。大通りを歩いていると、前を行く男が腰の革袋から金を取り出し、露店で果物を買った。袋を戻すとき、銅貨が一枚こぼれた。
ちゃりん。
俺の足元まで転がってきた。
「……え?」
あまりにも普通だった。
俺は周囲を見回した。魔物も出ない。馬車も暴走しない。建物も倒れない。ただ男が銅貨を一枚落としただけだ。
しゃがんで拾う。
「本当に、これだけ?」
少し拍子抜けした。
だが、これでいい。これが正常なのだ。銅貨一枚を拾うために必要な世界の変化なんて、せいぜい誰かの指先が少し滑るくらいでいい。
俺は手の中の銅貨を眺めた。
「……じゃあ、これは俺のものか?」
その瞬間、前を歩いていた男が腰の袋を触り、足を止めた。
「あれ? 一枚落としたか?」
「あ」
俺はすぐに追いかけた。
「これ、落としましたよ」
「おお、悪いな」
男は銅貨を受け取り、そのまま歩いていった。
俺の手には何も残らなかった。
「…………」
パン屋へ戻って日記を開く。
『明日、道で銅貨一枚を拾う。』
その下には、きっちりと書かれていた。
『完了』
「いや、そうだけどさ」
確かに拾った。
俺は「銅貨一枚を手に入れる」とは書いていない。「拾う」としか書かなかった。
「……前世のAIでもあったな、こういうの」
条件は満たしている。
でも、こっちが期待していたものとは少し違う。
ただ今回は、むしろ安心した。
銅貨一枚を拾う程度なら、世界も銅貨一枚分しか動かなかった。男が一枚落とし、俺が拾った。それだけだ。
問題なのは日記そのものではない。
何を書くか。
どれだけ無茶を書くか。
そして、どう書くか。
俺は新しいページを開いた。
「だったら次は……もう少しだけ、条件をちゃんと書いてみるか」
世界を壊さずに、欲しい結果だけを得る。
どうやらこの日記は、願い事を書く道具というより、文章を書く道具らしかった。




