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世界改稿日記 ~なろうによる世界破綻~  作者: 黒瀬 量衡


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第三十一話 セリアだけが帰ってこない

 セリアだけが帰ってこない。


 薬師は帰ってきた。


 護衛も二人帰ってきた。


 三人とも怪我をしている。


 血もついている。


 顔色も酷い。


 でも、生きている。


 セリアだけがいない。


「何があった」


 俺が聞く。


 若い冒険者は何度も口を開いた。


 でも声が出ない。


 隣の男が代わりに答えた。


「魔物に襲われた」


「何の魔物?」


「……分からない」


「分からないって」


「見てない」


「じゃあ何に襲われたんだよ」


「だから」


 男が俺を見る。


「見てないんだ」


 意味が分からない。


 薬師が震えながら壁へ背中をつけた。


「音だけだった」


「音?」


「ああ」


「どんな」


「歩く音」


「……」


「俺たちの後ろを」


 薬師が喉を鳴らした。


「ずっと、五人分の足音がついてきた」


 俺たちは四人の護衛と薬師一人。


 五人。


 それなら。


「自分たちの足音じゃ」


「違う」


 即答だった。


「俺たちが止まっても」


 薬師の唇が震える。


「後ろの五人は、しばらく歩いてた」


 胸元が熱くなった。


 嫌だ。


 今は。


 開きたくない。


 でも。


 開かなかった結果の方が。


 いつも酷い。


 日記帳を開く。


『作風分析を実施。』


「……今?」


 文字が浮かぶ。


『直近数話において、会話によるコメディ比率が上昇。』


『主人公とリサの関係性描写に伴い、日常的な掛け合い、羞恥、騒音等の軽い要素が増加した。』


『結果。』


『日記帳による不条理な恐怖という、本作品の主要な作風が希薄化。』


 俺は文字を見つめた。


『再調整を実施し、本来の作風に戻します。』


「……」


 嬉しくない。


 全然。


 戻さなくていい。


 でも。


 今までなら。


 ここで俺が叫んだ。


「戻すな!」


 とか。


「何勝手に作風分析してるんだ!」


 とか。


 そういうことを言った。


 日記も。


 それを作品の一部として利用した。


 今回は。


 声が出なかった。


 次に何を書かれるのか。


 本当に。


 怖かったから。


『調整内容。』


『コメディによる緊張緩和頻度を低下。』


『主人公の予測による危機回避成功率を低下。』


『惨劇発生後、即座に逆転・救出・笑いへ転換しない。』


『日記帳が何を行うか分からない状態を再強化。』


『現実改変の因果は維持する。』


『ただし、登場人物にとって因果が理解可能である必要はない。』


 最後の一文。


 背中が冷えた。


 物語として。


 筋が通っていればいい。


 その世界で生きている俺たちが。


 理解できる必要はない。


『本話へ適用済み。』


「……適用済み?」


 もう。


 始まっている。


     *


「続けて」


 俺は男へ言った。


「足音の後、何があった?」


「何も」


「何も?」


「ああ」


 男は頷く。


「何もなかった」


「セリアは?」


「いた」


「いつまで」


「帰る途中まで」


「どこでいなくなった」


「いなくなってない」


 俺は止まった。


「……何?」


「いなくなってないんだ」


 若い冒険者が。


 ようやく口を開いた。


「ずっといた」


「だったらどこにいるんだよ!」


「知らない!」


 叫んだ。


 受付の人間たちがこっちを見る。


 若い男は頭を抱えた。


「俺だって分からねえよ!」


「何が!」


「北門まで一緒だった!」


「……」


「四人で!」


「薬師入れたら五人だろ」


「違う!」


 男の顔が歪む。


「護衛四人で帰ってきた!」


 俺。


 リサ。


 受付。


 誰も声を出さなかった。


「セリアもいた」


 男が言う。


「俺もいた」


「こいつも」


 隣を見る。


「もう一人も」


 指。


 三人しかいない。


「四人だったんだ」


「……じゃあ」


「セリアも一緒に門を通った」


「それを門番に確認した?」


「ああ」


「何て?」


「四人だったって」


 喉が乾く。


「セリア込みで?」


「……」


 男は答えなかった。


「どういう意味だよ」


「門番は」


 薬師が言う。


「俺と、護衛三人が帰ったと言った」


「……」


「セリアのことを聞いたら」


 止まる。


「誰ですか、って」


 言われたらしい。


     *


 ギルドの登録記録を確認した。


 セリア。


 ある。


 九年間。


 冒険者として働いている。


 依頼達成記録。


 ある。


 ダンジョン事故。


 ある。


 六人組。


 五人死亡。


 一人生還。


 セリア。


 ある。


「消えてない」


 俺は呟いた。


 リサが横にいる。


「当たり前だ」


 声が硬い。


「私も覚えてる」


「うん」


「ミレアも」


「うん」


「女将も」


「……うん」


 記録上も。


 俺たちの記憶でも。


 セリアは存在する。


 少なくとも。


 まだ。


 今日の護衛依頼を確認する。


 薬師一人。


 護衛。


 三人。


「……三人?」


 俺は紙を取り上げた。


 さっきまで。


 四人だったはず。


 いや。


 俺が出発時の紙を確認したわけじゃない。


 セリア本人が。


「護衛四人」


 と言っていた。


 日記にも。


『護衛冒険者四名。』


 と書かれていた。


 でも。


 依頼書には。


 最初から三人しか名前がない。


「受付!」


「何だ」


「この依頼、護衛何人だった?」


「三人」


「最初から?」


「ああ」


「セリアは?」


「参加してない」


 背中。


 冷たい汗。


「そんなはずない!」


「どうした」


「今朝! ここから出た!」


「セリアなら今日は依頼受けてないぞ」


「嘘だ!」


「記録見ろ」


 見てる。


 だから。


 怖い。


 記録は正しい。


 受付も正しい。


 帰ってきた三人も。


 三人で出発した記録になっている。


 でも。


 本人たちは。


 四人で帰ってきたと言う。


 セリアを含めて。


「じゃあ」


 俺は三人を見る。


「セリアはどこから参加した?」


「最初から」


「記録にない」


「知らねえよ!」


「出発時、何人だった!」


「四人!」


「名前!」


 男が。


 口を開く。


「俺」


 一人目。


「こいつ」


 二人目。


「こいつ」


 三人目。


「それから」


 止まった。


「……それから」


「セリアだろ」


「……」


「セリアだよな?」


 男の顔から。


 血の気が引いた。


「名前が」


「何」


「出てこない」


「今言っただろ」


「違う」


 頭を押さえる。


「顔は分かる」


「……」


「髪が長くて」


「うん」


「剣を持って」


「ああ」


「女で」


「ああ!」


「名前が」


 息。


「名前だけ」


「言えない?」


 頷いた。


「セリア」


 俺が言う。


「セリアだ」


 男の目が。


 一瞬。


 戻った。


「ああ」


「そうだよ」


「セリア」


「そう!」


「セリアだ」


「うん!」


 よかった。


 まだ。


 思い出せる。


「……誰だ、それ」


「え?」


 ほんの。


 数秒だった。


 男は。


 本当に分からない顔で。


 俺を見ていた。


     *


 胸元。


 熱。


 日記。


 開く。


『惨劇進行。』


「何した」


『対象――セリア。』


「何したんだよ」


『対象は死亡していない。』


 少しだけ。


 呼吸が戻る。


『生存中。』


「どこにいる」


 日記は答えない。


 会話機能はない。


 ただ。


 作品を書く。


『今回の惨劇は肉体的損傷を中心としない。』


「……」


『対象の社会的存在を段階的に切断する。』


 意味が。


 分からない。


『第一段階。』


『当日依頼記録から対象を除外。』


「やめろ」


『第二段階。』


『同行者の詳細記憶から対象固有情報を低下。』


「やめろ」


『第三段階。』


『対象と関係の薄い人物から順に、対象認識を消失。』


「やめろって」


『第四段階。』


『対象の存在痕跡と、対象本人を結びつける認識を切断。』


「……痕跡?」


『第五段階。』


『対象自身の自己認識を低下。』


 手が止まった。


「待て」


『対象自身は現時点では記憶を保持。』


『自分が存在することを知っている。』


『しかし。』


『他者から認識されなくなっていく。』


「……」


 想像した。


 一人。


 森の中。


 自分は生きている。


 名前も分かる。


 帰る場所も分かる。


 俺たちのことも。


 全部覚えている。


 でも。


 道で人に会っても。


 呼びかけても。


 誰にも。


 自分が分からない。


『恐怖性――高。』


「評価するな……」


『アクセス回復効果を観測予定。』


 吐き気がした。


 さらに。


『完全消去は実施しない。』


「……?」


『完全に消去した場合、対象が存在していたこと自体を読者および主人公が認識できず、不在による恐怖が低下する。』


 嫌な。


 理屈。


『よって。』


『対象が存在した結果のみを残す。』


『人物との関連性は失わせる。』


『誰かが使っていた椅子。』


『誰かが使っていた食器。』


『誰かのために確保されていた寝床。』


『誰かが九年間働いた記録。』


『誰かと交わした会話の断片。』


『本人のみ不在。』


『不在感を最大化する。』


「……やめろ」


 日記は。


 止まらない。


     *


「セリア」


 俺は言った。


「セリア」


 リサも。


「セリア」


 もう一回。


「何してる」


「忘れないように」


「……」


 リサも気づいた。


「セリア」


「セリア」


「剣士」


「九年」


「六人パーティー」


「五人死んだ」


「一人生き残った」


「パン屋にいる」


「私より先にいた」


「夜、一人になるのが怖い」


「強い」


「口悪い」


「リサもだろ」


「今それ言うな」


 軽口。


 でも。


 誰も笑わなかった。


「セリア」


「セリア」


 名前を。


 何度も。


 繰り返す。


 忘れないために。


 日記。


『主要人物は対象との関係性が強いため、認識消失まで猶予あり。』


「猶予」


 その言葉が。


 一番怖かった。


「どれくらい」


 返事はない。


『物語上、救出可能性を残す。』


 可能性。


 保証じゃない。


『ただし、主人公が既存展開を予測して即座に解決する構造は、本来の不条理恐怖を損なう。』


「……」


『したがって救出方法は現時点で主人公へ提示しない。』


 ページを閉じた。


 震える。


 今まで。


 日記は酷かった。


 でも。


 どこかで。


 俺は慣れ始めていた。


 次に何が来るか。


 分かる気になっていた。


 悲惨なことが起きても。


 最後には逆転する。


 俺が突っ込めば。


 多少は笑える。


 そういうものだと。


 思い始めていた。


 日記は。


 それに気づいた。


 だから。


 戻した。


 最初の頃へ。


 何を書かれるか分からない。


 書かれたら止められない。


 止めようとすれば。


 もっと酷い形で。


 辻褄だけ合わせてくる。


 その恐怖へ。


     *


 パン屋へ戻った。


「セリアは?」


 女将。


 俺を見る。


「……誰だい?」


「え?」


「セリアって」


 止まった。


「何言ってるの」


「いや」


 女将が眉を寄せる。


「誰だい、その娘」


「ここに住んでる!」


「ここに?」


「二階!」


「二階にはお前たちがいるだろ」


「だから!」


 俺。


 リサ。


 ミレア。


 セリア。


「四人!」


「三人だよ」


「違う!」


 ミレアが奥から出てきた。


「どうしたんですか?」


「ミレア!」


「はい」


「セリア!」


「……」


「分かるよね?」


「セリア……」


 一秒。


 二秒。


 顔。


 苦しそうに歪む。


「……名前は」


「うん!」


「聞いたことがあるような」


「一緒に住んでる!」


「ここにですか?」


「そう!」


 ミレアは。


 階段を見る。


「でも」


「何?」


「部屋がありませんよ?」


「……」


 俺も見る。


 階段。


 上る。


 リサも続く。


 廊下。


 俺の部屋。


 リサの部屋。


 ミレアの部屋。


 そして。


 突き当たり。


 壁。


「……」


「ない」


 リサが呟く。


「セリアの部屋」


「あったよね?」


「ああ」


「ここに」


「あった」


 でも。


 壁。


 最初から。


 そこに扉なんてなかったような。


 普通の。


 板張りの壁。


「……嘘だ」


 俺は壁を触る。


「ここだよ」


「ああ」


「ここだった」


「覚えてる」


 夜。


 セリアが怖くて眠れなくて。


 俺を呼んだ。


 この扉から。


 出てきた。


「部屋」


 俺は壁を叩く。


「まだ向こうにあるんじゃ」


 こん。


 普通の音。


 もう一度。


 こん。


 そのとき。


 こつ。


「……」


 壁の。


 向こう側から。


 音。


 リサが俺を見る。


「今」


「聞いた」


 こつ。


 また。


「セリア!」


 壁を叩く。


「いるの!?」


 返事はない。


 こつ。


「セリア!」


 こつ。


「リサ」


「ああ」


 杖。


 構える。


「壊すぞ」


「やって」


 壁が。


 砕けた。


 木片。


 粉塵。


 その向こう。


「……」


 夜の空。


 外。


 何もない。


「部屋は?」


 ない。


 本当に。


 最初から。


 建物のそこには部屋なんてなかったみたいに。


 外壁だった。


「そんな」


 下を見る。


 廊下。


 埃。


 足跡。


 一つ。


 二つ。


 誰かが。


 歩いた跡。


 壁へ。


 向かっている。


 そのまま。


 壁の前で。


 なくなる。


「……誰の」


「セリアだ」


 俺が答える。


 でも。


 自信を持って答えるまで。


 一瞬。


 時間がかかった。


     *


 持ち物を探した。


 セリアの剣。


 ない。


 鎧。


 ない。


 着替え。


 ない。


 荷物。


 ない。


 でも。


「ルーク」


 リサ。


 食堂。


 椅子。


「何?」


「数えろ」


 一。


 二。


 三。


 四。


 五。


 六。


「六?」


「私たちは?」


 女将。


 俺。


 リサ。


 ミレア。


 セリア。


 五人。


「……六脚?」


 昔から。


 六脚だったような気もする。


 違う。


 一つは。


 セリアが座っていた。


 もう一つは。


 元から空いていた。


「女将」


「何だい」


「この椅子誰が使うの?」


「それ?」


「ああ」


「……」


 女将が考える。


「予備じゃないかい?」


「セリアが座ってた!」


「だから誰だい、それ」


「……」


 何度言っても。


 戻る。


 名前を教えたこと自体が。


 抜ける。


 机。


 椅子の前。


 細い傷。


「これ」


「何だ」


 リサ。


「剣の鞘」


「……」


「セリアが毎日ここに立てかけてた」


「ああ」


 覚えてる。


 なのに。


 剣だけ。


 持ち主だけ。


 いない。


     *


「変ですね」


 ミレアが。


 食器棚を見ていた。


「何が?」


「器」


 並んでいる。


「一つ多いんです」


「……」


「私」


 ミレアが。


 一枚の器を手に取る。


「これ」


「うん」


「何度も洗った記憶があります」


「セリアのだよ」


「セリア」


「うん」


 目を閉じる。


「……分からない」


「でも器は?」


「覚えてます」


「誰が使った?」


「分からない」


 手。


 震え始める。


「誰か」


 ミレアが。


 泣きそうな顔になる。


「誰かが毎朝これを使ってた」


「そう」


「私、その人と話した」


「うん」


「パンも渡した」


「うん」


「でも」


 涙。


「顔が出てこない」


 器。


 落ちる。


 割れた。


「あ」


 破片。


 底。


 小さな傷。


 文字。


 S。


「これ」


 俺が拾う。


「セリアがつけた」


 自分の器だと分かるように。


 いつか。


 そんな話をした。


 はず。


「S」


 リサも見る。


「そうだ」


「これが証拠」


 俺は言った。


 次の瞬間。


 指の下。


 ざら。


「……」


 見る。


 消えていた。


 傷そのものが。


「今」


「ああ」


「消えた?」


「見た」


 破片は。


 ただの。


 無地の器になっていた。


     *


 もう一度。


 ギルド。


 記録を開く。


 セリアの名前。


「……」


 ない。


 でも。


 九年間の記録はある。


 一年目。


 依頼。


 報酬。


 怪我。


 二年目。


 三年目。


 四年目。


 五年目。


 六年目。


 七年目。


 八年目。


 九年目。


 すべて。


 名前欄だけ。


 空白。


「受付」


「何だ」


「これ誰の記録?」


「さあ」


「さあって!」


「名前がないから分からん」


「九年間あるよ!」


「あるな」


「誰かが九年間仕事したんだろ!」


「そうなるな」


「誰!?」


「だから名前がない」


「変だと思わないの!?」


 受付。


 少し考えた。


「変だな」


「それだけ!?」


「記入漏れじゃないか?」


「九年間ずっと!?」


「珍しいな」


 それで。


 終わる。


 怖いのは。


 誰も。


 怖がらない。


 九年間。


 誰かが。


 依頼を受けて。


 怪我をして。


 金を受け取って。


 仲間を作って。


 五人を失って。


 一人で帰ってきた。


 その人生の記録が。


 丸ごとある。


 でも。


 それが。


 誰の人生なのかだけ。


 誰も。


 気にしない。


     *


 ダンジョン事故記録。


 六名参加。


 五名死亡。


 一名生還。


 生還者氏名。


 空欄。


「……」


 俺は。


 その空欄を見た。


 知ってる。


 ここには。


 セリア。


 と書いてあった。


 今朝。


 確かに。


 見た。


 横。


 五人の死亡者。


 名前がある。


「……おかしい」


 その一人の記録。


『同行者一名の判断により退路を確保。』


 誰?


 別のページ。


『生存した一名の証言により、崩落直前の状況を確認。』


 誰だよ。


『生存者への報酬支払い済み。』


 誰に払った。


『当該生存者、重傷につき一時活動停止。』


 誰なんだよ。


 記録だけが。


 人間の形をした穴の。


 周囲を。


 綺麗に縁取っている。


     *


 胸元。


 熱い。


 開く。


『対象セリアの社会的存在切断――進行。』


「これ」


 指。


 震える。


『痕跡は完全消去しない。』


『完全消去した場合、不在を認識する手掛かりも消失するため。』


『存在していた結果のみ残す。』


『それらの結果と対象本人の関連性を切断する。』


『空いた椅子。』


『一人分多い食器。』


『用途不明の寝室跡。』


『名前のない九年分の冒険者記録。』


『持ち主不明の生活習慣。』


『相手だけが欠落した会話記憶。』


『誰かを心配していたという感情。』


『しかし。』


『誰を心配していたのかは分からない。』


「やめろ……」


『これにより、不在感を維持する。』


 次。


『主要人物についても段階的に固有情報を除去。』


『最終的には「セリア」という名称を目にしても、それが誰を示す言葉なのか理解できなくなる。』


「……」


 閉じる。


 息。


 できている。


 まだ。


 覚えてる。


「セリア」


 名前。


「セリア」


 顔。


 髪。


 剣。


 口調。


 九年。


 仲間五人。


 悪夢。


 夜。


 一人になるのが怖い。


「セリア」


 何度も。


「セリア」


 リサも。


 言う。


「まだ覚えてる?」


「ああ」


「顔」


「覚えてる」


「声」


「覚えてる」


「剣」


「覚えてる」


「好きなパン」


「……」


「何?」


「……何だった?」


 止まる。


「リサ」


「待て」


 頭を押さえる。


「知ってた」


「俺も」


「知ってたはずだ」


「うん」


 思い出せない。


「セリア」


「セリア」


 名前を言う。


 細かいところから。


 消えている。


     *


 パン屋へ戻った。


 夕食。


 女将が。


 皿を並べた。


 一。


 二。


 三。


 四。


 五。


 六。


「……女将」


「何だい」


「何で六人分?」


「六人?」


 数える。


「一、二、三、四、五……」


 止まる。


「六」


「誰の?」


「……」


 首を傾げる。


「あれ」


「誰の?」


「間違えたかね」


 一枚。


 片づける。


「待って」


「何だい」


「それ」


「これ?」


 皿。


 温かい。


「料理」


 少し。


 減っている。


「……」


 俺は。


 椅子を見る。


 一脚。


 引かれている。


 誰も。


 座っていない。


「リサ」


「ああ」


 見てる。


 椅子。


 ぎ。


 ゆっくり。


 動く。


 机の下へ。


 戻る。


 誰かが。


 食べ終わって。


 席を立ったみたいに。


「……」


 女将が。


「どうしたんだい?」


「今」


「何が?」


「椅子」


「椅子?」


 普通。


 最初から。


 そこにあったような椅子。


「別に何もないだろ」


「……」


 普通。


 それが。


 一番。


 怖かった。


     *


 夜。


 眠れない。


 北の森へ。


 探しに行かなきゃ。


 でも。


 準備。


 明かり。


 ギルドへの報告。


 少しでも情報。


 何か。


 何でも。


 その間にも。


 忘れる。


「セリア」


 声にする。


「セリア」


 目を閉じる。


 顔。


 見える。


 まだ。


 見える。


「セリア」


 こつ。


「……」


 廊下。


 音。


 こつ。


 こつ。


 足音。


 俺は。


 扉を開ける。


 誰もいない。


「セリア?」


 こつ。


 階段。


 下。


 こつ。


 追う。


 食堂。


 暗い。


 月明かり。


 誰もいない。


 でも。


 椅子。


 一脚。


 引かれている。


 机の上。


 パン。


 一枚。


「……」


 端。


 欠けている。


 俺が。


 見ている前で。


 また。


 少し。


 欠けた。


「……セリア」


 止まる。


「いるの?」


 返事。


 ない。


 でも。


 パンの向こう。


 空気。


 何かが。


 いる。


 そんな。


 気がする。


「セリア?」


 声。


 耳元。


「……誰?」


「――っ!」


 振り向く。


 いない。


「セリア!」


 何もない。


 胸元。


 熱。


 開く。


『対象との距離――近。』


「……どこ」


『主人公から二メートル以内。』


 見る。


 椅子。


 机。


 床。


 誰もいない。


「セリア!」


 床。


 足跡。


 一つ。


 何もないところに。


 つく。


 二つ。


 近づく。


 三つ。


「……」


 俺の前。


 止まる。


 呼吸。


 聞こえる。


 小さい。


 乱れている。


 泣いている。


「セリア?」


 返事。


 なし。


「俺だよ」


 何も。


「ルークだ」


 何も。


「分からない?」


 そのとき。


 袖。


 引かれた。


「……」


 指は。


 見えない。


 でも。


 布だけが。


 握られた形に。


 へこむ。


「セリア」


 昔。


 一人で寝るのが怖いと言った夜。


 セリアは。


 こうやって。


 俺の腕を掴んだ。


「俺」


 声。


 震える。


「覚えてるから」


 袖。


 強くなる。


「まだ覚えてる」


 返事はない。


 でも。


 離れない。


 俺は。


 何もない場所へ。


 手を伸ばす。


 触れない。


 そこにいるはずなのに。


 何も。


 触れない。


「セリア」


 日記。


『対象セリア――生存。』


「うん」


『対象セリア――主人公の至近距離に存在。』


「うん」


『対象セリア――恐怖状態。』


「分かってる」


『対象セリア――自身の現在位置を認識できていない。』


「……」


『また。』


 嫌だ。


 次を。


 読みたくない。


『対象セリアは現在、自身の名前を思い出せません。』


「……」


 袖。


 さらに。


 強く握られた。


「大丈夫」


 俺は。


 誰に言っているのか。


 分からない相手へ。


 言う。


「セリアだよ」


 反応。


 ない。


「君の名前」


 言う。


「セリア」


 袖。


 震える。


「セリア」


 もう一回。


「セリアだ」


 俺には。


 分かる。


 まだ。


 分かる。


 でも。


 目の前にいる本人には。


 それが。


 自分の名前だと。


 分からない。


 日記。


『対象へ名称を伝達しても、自己認識との接続が切断されているため効果なし。』


「ふざけるな」


『主人公が名称を記憶していることと、対象本人が名称を自分のものとして認識することは別問題。』


「戻せ」


『現実改変に矛盾なし。』


「戻せよ!」


 何も。


 戻らない。


 食堂。


 夜。


 俺の袖を。


 名前のない誰かが。


 掴んでいる。


     *


 物音。


 リサ。


 階段を降りてきた。


「ルーク?」


「リサ」


「何して」


 止まる。


 俺の袖。


 何もないところから。


 引っ張られている。


「……いるのか」


「たぶん」


「セリア?」


「うん」


 リサが。


 何もない場所を見る。


「セリア」


 返事。


 なし。


「私だ」


 なし。


「リサだ」


 袖。


 少しだけ。


 動いた。


「反応した?」


「分からない」


 リサ。


 近づく。


「セリア」


「……」


「帰るぞ」


 何も。


「私たちの家だ」


 何も。


「女将がいる」


 何も。


「ミレアもいる」


 袖。


 握る力。


 少し。


 緩んだ。


 でも。


 その直後。


「……ルーク」


「何」


 リサの顔が。


 青くなる。


「セリアって」


「うん」


「……どんな顔だった?」


「え?」


「待て」


 両手。


 頭。


「分かる」


「リサ」


「分かるはずなのに」


「リサ!」


「顔が」


 俺も。


 思い浮かべる。


 セリア。


 髪。


 目。


 鼻。


 口。


「……」


 ぼやける。


「嘘だろ」


 分かる。


 女。


 剣士。


 強い。


 九年。


 でも。


 顔が。


 具体的に。


 思い出せない。


「セリア」


 言う。


「セリア」


 名前だけ。


 残る。


 リサが。


「セリア」


 何度も。


「セリア」


 呼ぶ。


 誰もいない場所。


 俺の袖。


 ゆっくり。


 離れた。


「待って!」


 足跡。


 一つ。


 床。


 二つ。


 出口へ。


「待って、セリア!」


 三つ。


 四つ。


「行くな!」


 扉。


 勝手に。


 開いた。


 冷たい風。


 足跡。


 外へ。


 続く。


 俺たちは。


 追った。


     *


 夜道。


 裸足のような足跡。


 一つ。


 一つ。


 つく。


 でも。


 誰も。


 見えない。


「セリア!」


「セリア!」


 追う。


 北へ。


 北門へ。


 日記が熱い。


 走りながら。


 開く。


『再調整結果を確認。』


『コメディ比率――低下。』


『不条理恐怖――回復。』


「そんなもの回復させるな」


『主人公の無力感――回復。』


「……」


『作品本来の緊張感――回復。』


 文字。


『セリアの認識保持率――低下中。』


「数字にするな」


『女将――固有認識消失。』


『ミレア――固有認識大幅低下。』


『リサ――低下開始。』


『ルーク――低下開始。』


「俺まで」


 まだ。


 覚えてる。


「セリア」


 名前。


「セリア」


 剣。


 九年。


 五人死んだ。


 一人生き残った。


 パン屋。


 悪夢。


 一人になるのが怖い。


「顔」


 出ない。


「声」


 ……どんな。


 声だった?


「リサ!」


「ああ!」


「言え!」


「何を!」


「セリアのこと!」


「剣士!」


「他!」


「九年!」


「他!」


「仲間が五人死んだ!」


「他!」


「……」


「リサ!」


「待て!」


 走りながら。


 泣きそうな顔。


「思い出してる!」


 消えていく。


 一つずつ。


 セリアという人間から。


 剥がされる。


 でも。


 足跡だけは。


 前にある。


 誰の足跡なのか。


 分からなくなる前に。


 追わないと。


 日記。


『なお。』


「……何」


『対象本人については、既に自己名称を喪失。』


 足。


 止まりそうになる。


『次段階。』


「やめろ」


『自己経歴。』


「やめろ」


『帰属場所。』


「やめろって」


『人間関係。』


「やめろ!」


『順次、自己との関連性を切断する。』


「ふざけるな!」


 前。


 足跡。


 走り始めた。


 俺たちから。


 逃げるように。


「セリア!」


 呼ぶ。


 足跡。


 止まらない。


「待って!」


 もう。


 本人には。


 セリアという言葉が。


 自分を呼ぶ声に。


 聞こえていない。


 ただ。


 知らない誰かが。


 知らない名前を叫びながら。


 追いかけてくる。


 そう思っているのかもしれない。


「セリア!」


 逃げる。


「セリア!」


 追う。


 北門。


 その先。


 森。


 日記。


 次の頁。


『第三十二話 名前を忘れた女』


 その下。


 もう一行。


『対象セリアは現在、「帰る」という言葉が示す場所を持っていません。』


「……」


 パン屋。


 女将。


 ミレア。


 リサ。


 俺。


 全部。


 覚えているのに。


 セリアの側からだけ。


 切られていく。


 森の暗闇へ。


 誰のものか分からない足跡が。


 続いていた。


 この作品の品質向上のため、ぜひ感想をお寄せください。今後の展開・キャラクター・構成・描写方針の参考として利用します。


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