第百二十話 『悲劇発生前の生活を定着させます。』
翌朝、日記帳を開くと、昨日の続きが一行だけ増えていた。
『悲劇発生前の生活を定着させます。』
「……言い方」
もう何が起きるか隠す気すらない。アーデル。エルシア。ヴェラ。フィリア。ノエル。昨日知り合ったばかりの五人だ。日記にとっては、もう「悲劇発生前」だった。
『目的。各人物が現在保有する生活、人間関係、将来予定を読者が認識可能な状態まで具体化します。重大事件は発生させません。』
重大事件は。
今日は。
起こさない。
俺はそれだけ確認して、店へ降りた。
*
アーデルは約束通り、朝一番で五十個のパンを取りに来た。今日は夫と娘も一緒だった。
「お母さん、この店?」
「そう」
「パンいっぱい!」
七歳の娘は店へ入るなり棚を見て走り出し、アーデルに襟を掴まれた。
「走るな」
「はーい」
「返事だけじゃなく止まれ」
夫はその様子を見て笑っている。
「隊長より母親の方が大変そう」
俺が言うと、アーデルが真顔で頷いた。
「敵は命令を聞くことがあります」
「娘は?」
「聞きません」
「聞いてるもん!」
「昨日、寝ろと言った後に一時間起きてただろ」
「寝ようとはしてた!」
普通の家族だった。
帰り際、娘がアーデルの手を握る。
「今日、早く帰る?」
「帰る」
「絶対?」
「絶対」
「約束?」
「約束」
アーデルは笑っていた。
俺には。
その約束が。
嫌なほど。
耳に残った。
*
昼にはエルシアが書類を抱えてやってきた。
「休憩」
「その量持って休憩って言う?」
「置く場所がないんです」
パンを食べながら、昨日の続きみたいに愚痴を言う。
「今日もセリナ系統が来ました」
「何人?」
「五人」
「増えてる」
「一人が『昨日の私は別の窓口で申請した』と言うので、記録を探したら別名でした」
「セリア?」
「ヤリアでした」
「もう無理じゃない?」
「無理です」
即答だった。
それでも仕事は辞めないらしい。
「嫌にならない?」
「なります」
「じゃあ何で続けるの?」
「誰かがやらないと、もっと酷くなるので」
食べ終わると、時計を確認した。
「今日は早く帰らないと」
「お母さん?」
「誕生日なんです」
「何か買った?」
「花」
「普通だ」
「普通でいいんです」
エルシアは少し笑った。
「父が料理するって言ってるので、それだけが心配です」
「料理下手?」
「壊滅的です」
帰ったら母親の誕生日。
家族三人で食事。
明日も戸籍局へ。
そういう。
普通の予定が。
ちゃんと。
あった。
*
ヴェラは午後、レナと一緒に来た。
「珍しい組み合わせ」
「話し合いです」
ヴェラが固い顔で言う。
レナは笑っていた。
「この人、私たちの運動に反対なんです」
「反対というより、線引きが必要だと言っています」
「でも今日は来た」
「話を聞かずに判断するのは職務上問題なので」
「真面目だね」
「よく言われます」
二人は同じテーブルへ座った。
「機械人形にも土地所有を認めるべきです」
「自己判断能力が確認できるなら検討対象です」
「情報生命体は?」
「一個体ごとの本人性をどう確認するかが先です」
「触手系の子供は?」
「出生時点で人格主体なら保護対象です」
「じゃあ結構認めるじゃない」
「無条件ではありません」
対立している。
でも。
話している。
ヴェラは新人類を怖がっている。
それでも。
職務として。
排除だけを。
選んでいない。
「今度、公開討論に出ません?」
「嫌です」
「即答」
「人前が苦手です」
「取締官なのに?」
「関係ありません」
レナが笑う。
ヴェラまで。
少しだけ。
笑った。
*
夕方にはフィリアが弟子三人を連れてきた。
「今日は五個だけ!」
「減ったね」
「怒られました!」
「誰に?」
「この三人に!」
後ろの弟子たちが揃って頷く。
「先生、甘いもの食べすぎです」
「疲れてるんだからいいでしょ!」
「患者に食生活指導してる人が言わないでください」
「私は治療師だから!」
「だからです」
女将が笑いながらパンを包んだ。
フィリアは弟子たちへ一つずつ渡す。
「明日の症例検討、遅刻しないでよ」
「先生こそ」
「私はしない」
「昨日しました」
「五分は遅刻じゃない」
「遅刻です」
騒がしい。
でも。
フィリアは一人ずつ。
弟子の名前を呼んでいた。
昨日言っていた。
患者の名前を覚えろ。
人として扱え。
弟子のことも。
ちゃんと。
覚えている。
「治療って、結局何なんです?」
一人の弟子が聞いた。
フィリアは少し考えた。
「その人が、自分の生活へ帰れるようにすること」
「身体を治すだけじゃなく?」
「それだけなら修理よ」
笑って言った。
「私は人間を治したいの」
俺は。
聞かなかったことに。
できなかった。
*
最後に来たのはノエルだった。
「これ、故郷から届きました」
小さな包み。
中には焼き菓子。
「交換です」
「パン屋に焼き菓子持ってきてどうするのさ」
女将は文句を言いながら食べた。
「美味しい」
「でしょう?」
ノエルが嬉しそうに笑う。
「母のです」
「店出せるよ」
「本人にも言ってます」
「帰ったら手伝うの?」
「神殿があるので毎日は無理ですけど」
故郷の話がまた始まった。
春になると川沿いに花が咲く。
父親は朝が早い。
母親は焼き菓子を作る。
兄は結婚して別の家に住んでいる。
幼なじみが神殿の鐘を鳴らす。
町の外には古い橋がある。
「来月の何日に帰るの?」
「十二日です」
「決まってるんだ」
「もう馬車も予約しました」
「楽しみ?」
「はい」
即答だった。
「王都でいろいろ勉強しました。でも、帰ったらまず町を一周したいです」
「一周?」
「変わってないか見るんです」
「一ヶ月くらいで変わらないでしょ」
「分かってます」
ノエルが笑う。
「でも、帰るたびにやるんです」
帰る場所。
帰る日。
帰った後に。
やることまで。
決まっている。
*
夜。
日記帳を。
開いた。
『悲劇発生前の生活定着――完了。』
やっぱり。
そう。
書く。
『アーデル。夫、娘、家庭、帰宅約束。』
『エルシア。両親、母親の誕生日、戸籍官としての職務継続意思。』
『ヴェラ。新人類への警戒、職務倫理、レナとの対話関係。』
『フィリア。弟子三名、治療理念、患者を人として扱う価値観。』
『ノエル。故郷、家族、友人、帰郷日、帰郷後予定。』
「……全部」
今日の。
会話。
全部。
使うために。
覚えている。
『各人物について、現在生活と悲劇発生後を比較可能な状態になりました。』
「比較するなよ」
返事はない。
『五名とも死亡させる必要はありません。』
安心。
できない。
『生存したまま、現在定着した要素の一部を失わせる方が、変化を継続利用できます。』
「……」
『次工程。個別悲劇。』
五つ。
名前が。
並んだ。
『アーデル。』
『エルシア。』
『ヴェラ。』
『フィリア。』
『ノエル。』
そして。
一番下。
『一話につき一名を使用します。』
俺は。
日記帳を。
閉じた。
今日。
アーデルは。
娘に早く帰ると約束した。
エルシアは。
母親の誕生日を祝う。
ヴェラは。
嫌いな相手とも話し合った。
フィリアは。
人を修理するんじゃなく。
治したいと言った。
ノエルは。
帰る日まで決めていた。
全部。
普通のことだった。
でも。
日記にとっては。
普通であるほど。
この後が。
分かりやすくなる。
明日。
誰から。
始まるのか。
俺は。
見たくなかった。




