第百十四話 パン屋の日常。
翌朝。パン屋はいつも通り開いた。女将がパンを焼き、俺が棚へ並べ、ミレアが魔導義肢で小麦袋を運ぶ。
「ルーク、これ奥?」
「うん」
「ミレア! 袋を引きずるんじゃないよ!」
「引きずってないって」
「床に跡がついてる!」
「義足の方!」
「もっと悪いじゃないか!」
女将が怒鳴り、ミレアが言い返す。
普通の朝だった。
最初に来たのはリサだった。
「六個」
「何が?」
「パン」
「今日もスライム?」
「うん」
「毎日行ってない?」
「いるから」
パンを受け取ると、そのままスライムを殺しに行った。以前より顔色はいい。何かが治ったわけじゃない。ただ、怒りを向ける先が毎日いる。
次に三人の女が入ってきた。
「おはよう」
「おはようございます」
「これ、昨日食べた」
「……セリナ?」
「セリナ」
「セリア」
「ヤリア」
三人が順番に名乗った。
「また増えた?」
「分かれただけ」
「それを増えたって言うんだよ」
セリナは甘いパン、セリアは固いパン、ヤリアは香草入りを選んだ。食べ終わる前に三人が手を触れ合わせる。
「あ、分かった」
「何が?」
「セリアが昨日覚えた帳簿の付け方」
「私はヤリアが昨日会った人を思い出せる」
「私はセリナのパンの味」
「店の中で情報交換するなよ」
「何で?」
「何となく怖いから」
女将は気にしなかった。
「食べ終わったなら皿持ってきな!」
「はーい」
三人が同時に返事をした。
昼前にはレナとディーンが来た。新婚だった。レナの皮膚の下には白い筋が残っている。
「女将さん、お返しです」
「そんなのいいのに」
「父が持っていけって」
「商人だねえ」
レナはセリナたちを見ると声をかけた。
「今度、集まりに来ませんか?」
「何の?」
「人間と認められない人たちの権利について」
「私たちは人間?」
「それも話し合ってます」
「そこからなんだ」
俺が言うと、ディーンが笑った。
「毎回こんな感じだぞ」
レナも笑っていた。
結婚できなかった女が。
今は。
自分と同じような誰かを結婚させようとしている。
その次に来たのはエリナだった。後ろに知らない女を一人連れている。
「新しい機械人形」
「……普通の人間にしか見えない」
「改良した」
手を握らせてもらった。
温かい。
「体温まで?」
「ある」
「食事は?」
「不要」
後ろの機械人形がパンを一つ取った。
「でも食べるの?」
「人間は食べる」
「だから?」
「人間らしい」
「……そう」
聞きたいことはあった。
どうやってそこまで人間に近づいたのか。
何を調べたのか。
どこから材料を得たのか。
でも。
今日は。
パン屋の日常だった。
聞かなかった。
午後には花の香りが店へ入ってきた。
「こんにちは」
「サラ」
サラの後ろには、身体に同じ花を咲かせた男女が四人いた。
「また増えた?」
「友達」
一人の女が笑った。
「私からお願いしたんです」
「寄生を?」
「はい」
嬉しそうだった。
「すごく楽になりました。母にも勧めてます」
「お母さんにも?」
「最近ずっと落ち込んでるから」
女将がパンを多めに袋へ入れた。
「花に栄養持っていかれるんだろ? ちゃんと食べな」
「ありがとうございます!」
それで終わった。
寄生植物に寄生された人間へ。
女将は。
普通に。
パンを売った。
夕方にはマルタが帰ってきた。
「ただいま」
「風呂!」
「入るって!」
「変なの全部外へ置いてきただろうね!」
「置いてきた!」
普通の旅服。普通の顔。腰の剣。
「北にいたの?」
「ああ」
「戦場?」
「ああ」
「後ろの肉鎧、今何体?」
マルタは少し考えた。
「知らん」
「知らない?」
「数えてない」
「増えすぎて?」
「別に数える必要ないだろ」
そう言って。
いつもの椅子に座った。
「肉入りのパン」
「最初からそう言いな!」
「まだ何も言ってないだろ!」
女将と喧嘩して。
普通に。
食べ始めた。
しばらくして。
床下から。
こつ。
こつ。
音がした。
「……何?」
「ああ、地下の客だよ」
「客?」
女将は慣れた様子で裏口へ向かった。
排水路の格子から細い触手が一本出ている。
先端に小銭の入った袋。
「今日は?」
女将が聞く。
暗い地下から。
人間に近い声が返った。
「甘いの、四つ」
「四つね」
「あと固いの二つ」
「増えたじゃないか」
「子供が食べる」
「じゃあ固すぎない方がいいね」
「うん」
女将がパンを包む。
触手が受け取る。
「ありがと」
「またね」
格子の向こうへ消えていった。
「……前から来てたの?」
「最近ね」
「何で言わなかったの?」
「金払ってパン買ってる客の何を報告するんだい」
「いや……」
何も。
言えなかった。
店内を見る。
ミレアがいる。
マルタがいる。
セリナ、セリア、ヤリアがいる。
エリナと機械人形がいる。
サラと花に寄生された人たちがいる。
レナとディーンがまだ女将と話している。
リサはもういない。
地下には触手生命体と暮らす誰かがいる。
「ルーク!」
「何?」
「皿!」
「あ」
「さっきからぼーっとして! 忙しいんだから働きな!」
「ごめん!」
皿を持つ。
洗う。
次の客が入る。
「いらっしゃい!」
俺も。
普通に。
声を出した。
*
夜。
店を閉めた。
売れ残ったパンを数える。
「今日はよく売れたね」
女将が満足そうだった。
「そうだね」
「明日はもう少し多く焼くか」
「うん」
何も。
起きなかった。
殺人も。
誘拐も。
大怪我も。
なかった。
ただ。
みんなが。
パンを買いに来た。
部屋へ戻り、日記帳を開いた。
『第百十四話 パン屋の日常。』
その下には。
一行だけ。
書かれていた。
『日常描写――成立。』
それだけだった。
「……」
俺は日記帳を閉じた。
世界は。
変わった。
でも。
パン屋は。
今日も。
普通に営業した。




