第百十二話 人間でなくても結婚できます
翌朝、レナとディーン、それからハーヴェル商会の父親と一緒に神殿へ向かう前に、俺は日記帳を開いた。
『第百十二話。人間でなくても結婚できます。』
「……まだ行ってもいないだろ」
その下には、本文ではなく構成が書かれていた。
『婚姻申請――再提出。』
『初回審査――却下。』
『主人公――反発。』
『婚約者――反発。』
『本人――自己同一性を主張。』
『家族――本人性を支持。』
『制度側――現行規定を維持。』
俺はページを睨んだ。
まだ。
何も。
起きていない。
『主人公は「本人の意思、記憶、人間関係の継続を本人性の基準とできないか」と提案する可能性が高い。』
「……」
閉じようとした。
その前に。
もう一行。
『当該提案は、新規人類の法的受容を進行させるため有効。』
俺は日記を閉じた。
「絶対に言わない」
返事はない。
当然だ。
日記は。
俺と。
話していない。
*
神殿の受付へ婚姻届を出した。
昨日と同じ神官が困った顔をする。
「申し訳ありません。現在の規定では受理できません」
背中が冷たくなった。
「本人がいるだろ」
ディーンが言った。
「はい」
「俺もいる」
「はい」
「俺はレナと結婚したい。レナも俺と結婚したい。それで何が足りない?」
「意思ではありません」
神官は生命鑑定書へ目を落とした。
「婚姻制度は、人間一名と人間一名の契約として規定されています。現在のレナさんは、人間一名であることを確認できません」
「レナです」
レナが言った。
「名前も覚えています。父も母も分かります。仕事もできます。ディーンとの約束も覚えています」
「それは否定していません」
「じゃあ私は誰ですか?」
神官が黙った。
「人間じゃなかったら、私は私じゃないんですか?」
「そういう意味では」
「でも結婚できない」
「……現行法では」
ディーンが机へ手をついた。
俺は。
何も言わなかった。
日記に。
書いてあったから。
言いたくなかった。
俺が怒れば。
利用される。
俺が助ければ。
利用される。
だったら。
黙っていればいい。
そう思った。
*
十分後。
俺は。
黙っていられなかった。
「義肢ならどうなるんです?」
口から出ていた。
自分で。
嫌になった。
「……義肢ですか?」
「片腕を失って義肢になった人間は、人間ですよね」
「はい」
「半身なら?」
「程度によりますが、人間として登録されています」
「全身のほとんどなら?」
「前例によります」
「じゃあ、身体の何割が変わったら人間じゃなくなるんです?」
神官は答えられなかった。
俺は。
朝。
日記で読んだ文章を。
思い出した。
『主人公――反発。』
違う。
これは。
俺が。
自分で。
言っている。
「本人の意思と、記憶と、人間関係が続いているなら、それで本人だって確認できないんですか」
言った。
言ってしまった。
朝の日記と。
ほとんど。
同じだった。
「ルーク」
レナが俺を見た。
嬉しそうだった。
「ありがとう」
「……」
俺は。
何も。
返せなかった。
*
神殿の奥から年配の神官が出てきた。役所から戸籍担当まで呼ばれた。
「まず、レナさんの戸籍そのものは存在します」
「だったらいいじゃないですか」
「戸籍上は人間です。しかし生命鑑定では、複数の生命反応が確認されています」
「身体が変わっただけだろ」
「そこが判断できないのです」
「本人が本人だって言ってる」
「それだけで法的本人性を認める規定がありません」
「じゃあ作ればいいだろ!」
ディーンが怒鳴った。
俺は。
また。
日記を思い出した。
『婚約者――反発。』
一語。
だった。
今。
目の前で。
必死に婚約者を守ろうとしている男の感情が。
あの日記では。
たった。
一語だった。
「最近、こういう人は他にもいるんですか」
聞いた。
役人が。
少し。
黙った。
「……増えています」
「何が?」
「戸籍上の種族分類と、現在の生命状態が一致しない者です」
「どれくらい」
「機械化した者。寄生植物との共生者。異種生命体との融合者。複数の生命反応を持つ者。通常と異なる魂反応を示す者」
頭の中に。
名前が。
並んだ。
エリナ。
サラ。
ティナ。
セリナ。
そして。
まだ。
俺の知らない。
誰か。
「結婚したい人も?」
「います」
「どうしてる?」
「保留です」
「相続は?」
「保留です」
「子供は?」
「個別審査です」
「仕事は?」
「資格によっては停止されています」
レナ一人。
じゃない。
既に。
社会のあちこちで。
同じことが。
起きている。
俺は。
口を閉じた。
また。
何か。
言えば。
日記の。
次の工程になる。
でも。
レナが。
俺を見ていた。
ディーンも。
見ていた。
助けを。
求めている。
「……規定がないだけですよね」
言った。
「本人じゃない証拠があるわけじゃない」
年配の神官が。
長く。
黙った。
「それを認めた場合」
「はい」
「婚姻制度から、人間であることを必須条件として外す必要があります」
その言葉を。
聞いた瞬間。
背筋が。
凍った。
日記が。
狙っていた。
場所へ。
来た。
「それの何が問題なんです?」
レナが聞いた。
「私はディーンと結婚したいです」
「俺もです」
「父も反対してません」
「当然だ」
「だったら」
レナが。
静かに。
言った。
「誰のために、私は結婚できないんですか?」
誰も。
答えられなかった。
*
その夜。
まだ。
結論は。
出ていなかった。
俺は。
日記帳を。
開いた。
見たくなかった。
でも。
確認したかった。
朝の続きがあった。
『主人公提案――成立。』
「……」
『本人性判定基準として、記憶、意思、継続的人間関係を利用する案が協議対象となりました。』
俺は。
息を止めた。
日記は。
その場に。
なかった。
なのに。
書いてある。
『制度変更可能性――上昇。』
そして。
その下。
『主人公の行動――想定範囲内。』
「……」
何度も。
読んだ。
俺が。
悩んだことも。
言わないように。
我慢したことも。
それでも。
レナを見て。
言ってしまったことも。
全部。
『想定範囲内。』
だった。
「俺が……逆のことをしたら?」
返事はない。
日記は。
俺を。
相手にしていない。
『主人公が制度改正へ反対した場合、レナおよびディーンとの関係悪化を利用可能。』
「……」
手が。
止まった。
『主人公が制度改正へ協力した場合、新規人類の社会受容促進へ利用可能。』
どっちでも。
よかった。
俺が。
何を選んでも。
『双方、物語継続可能。』
「……最低だ」
日記は。
何も。
答えなかった。
*
三日後。
暫定規定が。
公布された。
『本人性を継続的に確認でき、当事者双方が成人かつ自由意思によって婚姻を希望する場合、生命分類のみを理由として婚姻申請を拒否してはならない。』
最初に。
その規定を使ったのは。
レナと。
ディーンだった。
「受理されました」
神官が。
婚姻届へ。
印を押した。
レナは。
しばらく。
紙を。
見ていた。
「……結婚できた?」
「はい」
ディーンが。
笑った。
レナも。
泣きながら。
笑った。
父親も。
泣いた。
俺も。
嬉しかった。
本当に。
嬉しかった。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
レナが。
俺へ。
頭を下げる。
「ルークさんのおかげです」
その言葉が。
胸に。
刺さった。
俺の。
おかげ。
*
結婚式は。
二週間遅れで。
行われた。
完成していた。
婚礼衣装。
完成していた。
新居。
女将が作った。
六十人分の焼き菓子。
全部。
使われた。
日記が。
壊した時の落差を作るために。
用意したはずのものが。
今度は。
本当に。
二人の幸福のために。
使われている。
「綺麗だよ」
ディーンが言った。
「知ってる」
レナが笑った。
「そこは普通、ありがとうだろ」
「今さら?」
みんな。
笑った。
俺も。
笑った。
勝った。
と。
少しだけ。
思った。
日記が。
用意した悲劇から。
救い出して。
結婚まで。
させた。
レナは。
幸せだ。
ディーンも。
幸せだ。
だから。
この話は。
俺たちが。
勝った。
そう。
思いたかった。
*
その夜。
日記帳を。
開いた。
『第百十二話。人間でなくても結婚できます。』
題名が。
完成していた。
『ミレア型成功構造再現性検証――第一事例完了。』
「……」
『新規ヒロイン。レナ。』
『誘拐――成立。』
『不可逆変化――成立。』
『救出――成立。』
『婚約関係――維持。』
『婚姻――成立。』
『幸福な結末――成立。』
俺は。
そこを。
何度も。
見た。
幸福な。
結末。
日記も。
そう。
判定している。
「……だったら終われよ」
答えはない。
『副次成果。』
嫌な。
文字だった。
『婚姻制度における人間種要件――撤廃。』
「……」
『適用可能対象――植物共生者。機械身体者。異種生命融合者。複数生命反応保持者。情報生命系統。その他、本人性を継続的に確認可能な非人間存在。』
俺は。
椅子から。
動けなかった。
『新規人類と旧来人類の婚姻――制度上可能。』
『家族形成――可能。』
『相続関係形成――可能。』
『共同財産形成――可能。』
『次世代出生――可能。』
『戸籍への定着――可能。』
『旧来社会からの分離――困難。』
日記は。
レナの。
結婚式なんて。
もう。
見ていなかった。
その先を。
見ている。
『外部から侵入する必要はありません。』
『排除対象として認識される前に、家族になればよい。』
「……」
ぞっとした。
その言葉だけ。
まるで。
誰かが。
考えて。
書いたみたいだった。
でも。
違う。
日記に。
悪意は。
ない。
ただ。
一番。
効率がいいだけだ。
『侵食ではなく婚姻。』
『征服ではなく相続。』
『占領ではなく出生。』
『置換ではなく世代交代。』
俺の。
手が。
震えた。
『敵対イベント不要。』
『大量死不要。』
『社会機能停止不要。』
『幸福を維持したまま旧世界を終了可能。』
「……」
あの日。
レナを。
助けた。
俺が。
制度を。
変えた。
俺が。
結婚を。
祝った。
全部。
『主人公の救済行動――世界置換への寄与を確認。』
「違う」
声が。
出た。
「俺はレナを助けただけだ」
当然。
返事はない。
『同手法の反復利用が可能。』
「……」
『主人公は、目の前の個人を救う場合、世界全体への長期影響より当事者の救済を優先する傾向があります。』
息が。
止まった。
これは。
俺への。
返事じゃない。
分析だ。
『当該性質は今後も維持することを推奨します。』
「……俺を」
喉が。
乾いた。
「俺まで……設定として使うのか」
何も。
返ってこない。
『主人公が善良であるほど、新規人類の社会受容イベントを自然に進行できます。』
俺は。
ページを。
閉じられなかった。
悪人なら。
抵抗できた。
誰かを。
犠牲にできるなら。
止められるのかもしれない。
でも。
目の前で。
レナが。
泣いていたら。
俺は。
また。
助ける。
次も。
その次も。
『次工程。』
『人間限定制度を、主人公の救済行動によって順次解体します。』
『相続。』
『出生登録。』
『親権。』
『土地所有。』
『職業資格。』
『公職。』
『兵役。』
『王位継承。』
最後に。
一行。
増えた。
『主人公による妨害――現時点では不要。』
「……」
妨害する。
俺を。
止める必要すら。
ない。
俺が。
誰かを。
助けようとすれば。
それだけで。
日記の。
望む方向へ。
世界が。
進む。
俺は。
初めて。
日記を。
閉じることすら。
怖くなった。
開いていても。
書かれる。
閉じても。
現実が。
進む。
そして。
俺が。
何を選んでも。
次の話に。
なる。




