第百十一話 花嫁は帰ってきました
レナが目を覚ましたのは、見つけてから二日後だった。
神殿から呼び出され、俺が治療室へ着いた時には、ディーンが寝台の横に座っていた。レナは目を開けている。顔色は悪い。でも、生きている。俺を見ると、少しだけ笑った。
「ルークさん」
「……分かる?」
「分かりますよ」
声も。
話し方も。
同じだった。
「女将さんに、焼き菓子のこと……」
「そんなの今どうでもいい」
「でも、結婚式」
「それも今はいい」
俺が言うより先に、ディーンがレナの手を握った。
「生きてればいい」
「ディーン」
「式なんか何度でもやれる」
「一回でいいわよ」
「だったら元気になってから一回やろう」
「うん」
二人とも泣いていた。
俺も。
少しだけ。
安心した。
だから。
治療師の顔が暗いことに。
すぐには気づかなかった。
「……説明があります」
治療師が言った。
レナもディーンもそちらを見る。
「先に言っておきます。命に関わる状態ではありません」
その言葉を聞いて。
嫌な予感がした。
日記が。
そういう残し方をすることを。
もう知っている。
「繭を作っていた生物は、除去できませんでした」
「まだ身体についてるってことですか?」
ディーンが聞く。
「ついている、というより」
治療師が言葉を選ぶ。
「もう、分けられません」
レナの身体へ掛けられた布が少しだけめくられた。
腕。
一見すると普通だった。
でも。
皮膚の下に。
細い白い筋が何本も走っている。
血管みたいに。
指先から。
腕。
肩。
胸の方へ。
続いている。
「繭の内部にあった糸状組織です」
「取れないんですか?」
「試しました」
治療師が首を振った。
「一本を切断しただけで、レナさんの呼吸と脈が急激に低下しました」
「……」
「現在、その組織は血液循環、呼吸、体温維持、傷の修復に関与しています」
「じゃあ」
レナが自分の腕を見る。
「これも、私?」
「医学的には……判断できません」
治療師は正直だった。
「あなた自身の身体と、繭を作った生物の組織が、完全に一つの生命活動をしています」
レナは。
しばらく。
白い筋を見ていた。
それから。
ディーンを見た。
「気持ち悪い?」
「何が?」
「これ」
「別に」
「本当に?」
「レナだろ」
即答だった。
「だったらレナだ」
レナが泣いた。
俺は。
壁を見た。
日記が。
婚約者は拒絶しないと。
書いていた。
その通りだった。
*
さらに三日。
レナは歩けるようになった。
食事もできた。
記憶にも大きな欠落はない。
商会の帳簿を渡すと、普通に数字を確認できた。
「ここ間違ってます」
「病み上がりで仕事するな」
父親に怒られた。
「でも間違ってるから」
「今は寝てろ!」
家族も。
変わらなかった。
母親は泣きながら抱きしめた。
父親は治療費を全部払うと言った。
ディーンは毎日来た。
新居も。
そのまま。
待っている。
誰も。
レナを捨てなかった。
なのに。
変わったことは。
確かにあった。
最初に分かったのは。
レナが指を切った時だった。
「あ」
果物を切っていた小刀が指先へ触れた。
ほんの小さな傷。
血が出る。
その直後。
皮膚の下の白い筋が動いた。
「……え?」
細い糸が。
傷口から。
ほんの少しだけ伸びた。
裂けた皮膚を寄せる。
そして。
数秒で。
傷が閉じた。
「……治った」
レナ本人が。
一番驚いていた。
治療師が調べた。
『外傷修復速度――通常人類を大幅に上回る。』
そんな文章を。
俺は。
その夜。
日記で見た。
『繭状生物との不可逆的共生――成立。』
「……」
『人格――維持。』
『記憶――維持。』
『婚約関係――維持。』
『家族関係――維持。』
『職業復帰――可能。』
『日常生活――可能。』
全部。
助かっている。
『旧状態への復元――不成立。』
そこだけ。
残った。
*
結婚式の日は。
予定より十日遅らせることになった。
「たった十日?」
女将が聞いた。
「もっと休みな」
「もう元気です」
レナは笑った。
本当に。
元気そうだった。
「それに、これ以上延期したら、ディーンが新居で一人暮らしに慣れちゃうので」
「慣れない」
「三日前、一人で料理したって」
「卵を焼いただけだ」
「成長してる」
「馬鹿にしてるだろ」
いつも通りだった。
パン屋でも。
婚礼用の焼き菓子を。
また作り始めた。
俺は。
少しだけ。
期待した。
もしかしたら。
このまま。
終われるんじゃないか。
身体は変わった。
でも。
生きている。
婚約者もいる。
家族もいる。
仕事もある。
だったら。
それで。
いいじゃないか。
*
結婚式の四日前。
ディーンが。
パン屋へ来た。
一人だった。
「ルーク」
「どうした?」
顔が。
酷かった。
「婚姻届が受理されなかった」
「……何で?」
聞いた瞬間。
分かった。
でも。
聞いた。
「神殿で生命鑑定を受けた」
結婚前に。
本人確認と。
血縁確認をする。
珍しいことじゃない。
「レナの結果が」
ディーンが。
紙を出した。
読めなかった。
専門用語ばかり。
でも。
一番下。
そこだけ。
分かった。
『種族判定――不能。』
「不能って何だよ」
「俺も聞いた!」
ディーンが。
初めて。
声を荒げた。
「レナはレナだって言った! 名前も! 生まれた日も! 親も! 全部記録がある!」
「それで?」
「生命反応が二種類あるって」
繭の。
生き物。
「人間一名として登録できないって」
「……」
「二人とも一つの身体にいるのか、一つになったのか、それすら分からないから、婚姻の当事者数を確定できないって言われた」
「当事者数?」
頭に血が上った。
「馬鹿じゃないのか!?」
「俺もそう言った!」
ディーンが。
机を叩いた。
「俺が結婚したいのはレナ一人だ!」
厨房から。
女将が出てきた。
「何があったんだい」
説明すると。
女将の顔まで。
険しくなった。
「本人が本人だって言ってんだろ?」
「そうです」
「親もそう言ってる」
「はい」
「婚約者もそう言ってる」
「はい」
「だったら結婚させりゃいいじゃないか!」
「俺もそう言いました!」
でも。
通らない。
法律が。
ない。
前例が。
ない。
人間と。
未分類の生物が。
一つになった人間。
そんなものを。
想定していない。
*
その夜。
日記帳には。
もう。
文章があった。
『ミレア型成功構造の再現性検証。』
「……成功って言うな」
『第一段階。幸福な将来の具体化――完了。』
『第二段階。誘拐・失踪――完了。』
『第三段階。主人公による発見――完了。』
『第四段階。死亡回避――完了。』
『第五段階。人格・記憶・主要人間関係維持――完了。』
『第六段階。不可逆変化――完了。』
『第七段階。日常生活復帰――進行中。』
『第八段階。社会制度との衝突――開始。』
人の。
結婚が。
段階になっている。
『ミレアとの差別化――成立。』
『ミレアは婚約関係を喪失。』
『レナは婚約関係を維持。』
『従って、レナ本人の幸福を破壊する主体を婚約者へ配置する必要はありません。』
『制度そのものを障害とします。』
「……」
『当事者双方の意思が一致しているほど、制度上の矛盾を明確化できます。』
冷たい。
やっぱり。
冷たい。
ディーンが。
レナを捨てなかったことさえ。
この日記にとっては。
話を面白くするための条件だ。
『次の展開を検討します。』
俺は。
嫌だった。
でも。
読んだ。
『婚姻制度改正要求。』
『人間以外との婚姻。』
『複合生命体の法的人格。』
『身体を共有する複数生命の権利。』
『相続。』
『出産時の子の種族判定。』
『商会契約における本人性。』
『死亡判定。』
『生命保険。』
『犯罪時の責任主体。』
「……待て」
また。
広がる。
一人の女が。
結婚できない。
それだけじゃ。
終わらない。
『レナ一名の事例を解決するために法改正を行った場合、既存の新規人類系統へ適用可能。』
セリナ。
サラ。
エリナ。
ティナ。
カーナ。
マルタ。
全部。
頭に浮かんだ。
『新たな人類の社会参加を促進する制度改正へ接続できます。』
そこまで。
読んで。
分かった。
日記は。
レナを。
新しいヒロインとして。
壊しただけじゃない。
レナを。
入口にする気だ。
人間だけを。
人間として扱っていた。
今までの社会を。
変えるための。
『ミレア型構造の再利用結果。』
『個人的悲劇から社会制度変更への接続――成功見込み高。』
俺は。
日記帳を閉じた。
明日。
ディーンと。
レナと。
神殿へ行く。
婚姻届を。
もう一度。
出す。
日記が。
何を狙っているとしても。
あの二人は。
結婚したい。
だったら。
俺は。
それを。
手伝う。
でも。
少しだけ。
怖かった。
俺が。
あの二人を。
助ければ助けるほど。
日記が。
書いた通りに。
新しい世界が。
出来上がっていく気がした。




