第百十話 花嫁が消えました
レナが帰った道を、俺はひたすら走った。商店街を抜け、広場を横切り、ハーヴェル商会へ向かう大通りへ出る。人は多い。荷馬車もいる。露店の呼び込みも聞こえる。こんな昼間に、成人した女が突然消えるなんて普通なら考えにくい。それでも日記にはもう書かれていた。『次話。花嫁が消えました。』まだ起きていない未来なのか。今まさに起きているのか。それとも、俺が文字を読んだ時点でもう遅かったのか。分からないまま走っていると、前方からディーンが来た。走っていた。顔色が変わっている。
「ルーク!」
「レナは!?」
「それを聞きたい! 店に行ったんじゃなかったのか!?」
「さっき帰った!」
「帰ってきてない!」
血の気が引いた。俺たちはほとんど同時に周囲を見回した。パン屋から商会までは、普通に歩けば二十分もかからない。レナは一本道を帰ると言っていた。寄り道する予定もない。ディーンは商会の人間を出して探させていた。俺もパン屋へ戻らず、そのまま一緒に探した。通りの店へ聞く。露店へ聞く。辻馬車へ聞く。何人かはレナを見ていた。「パン屋の方から歩いてきた」「一人だった」「変わった様子はなかった」。そして途中から、目撃が消えた。
最後に見たのは、古い水路橋の近くで果物を売っていた老婆だった。
「商会のお嬢さんなら通ったよ」
「その後は!?」
「知らないねえ。ああ、でも」
「何です?」
「何か落としたみたいだったよ」
老婆が指した路地へ走った。狭い道だった。倉庫と石壁の間。人通りは少ない。地面に、小さな布が落ちていた。
「……これ」
ディーンが拾った。
白い布。
婚礼衣装に使うためにレナが持ち歩いていた見本布だった。
「レナのだ」
その言葉だけで、ディーンの顔が変わった。
「誰かに連れていかれたのか?」
俺は答えられなかった。路地の奥には争った跡がない。血もない。荷物も落ちていない。壁の隙間から古い排水路へ降りられる格子があり、その一部だけが妙に濡れていた。
*
衛兵が来た。商会の人間も来た。地下水路へ降りることになった。ディーンも行くと言ったが止められた。
「婚約者なんだぞ!」
「だからです。訓練を受けていない人間を連れていけません」
「だったら俺は?」
「冒険者登録がある」
自分で言ってから嫌になった。
まただ。
俺が行ける理由まで。
昔から。
日記が使ってきた。
地下へ降りる前、ディーンに腕を掴まれた。
「頼む」
強かった。
「絶対に」
そこで言葉が詰まった。
「……連れて帰ってくれ」
「うん」
答えた。
でも。
絶対なんて。
もう言えなかった。
*
地下水路は暗かった。衛兵二人と冒険者三人、それに俺。古い水路を辿る。水音。湿った石。腐った臭い。途中でレナの鞄が見つかった。中身はほとんど残っていた。財布もある。契約書もある。強盗じゃない。
「ここだな」
冒険者が壁を指した。
白いものがついていた。
糸。
いや。
糸より太い。
半透明の膜みたいなものが、石壁から水路の奥へ何本も伸びている。
「何だ、これ」
衛兵が触ろうとした。
「触るな!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
全員が俺を見る。
「……分からないけど、やめた方がいい」
日記のせいだ。
知らないものを見ると。
もう。
全部。
次の話に見える。
奥へ進んだ。
白い膜が増えた。
壁にも。
天井にも。
やがて。
人間くらいの大きさの白い塊が見えた。
一つ。
二つ。
三つ。
「繭……?」
誰かが言った。
その一つから。
指が。
出ていた。
「人がいる!」
駆け寄る。
生きていた。
清掃作業員らしい男だった。白い膜に全身を包まれ、顔の半分だけ出ている。呼吸はある。別の繭にも人がいた。女。老人。
「切れ!」
「慎重に!」
救出が始まる。
俺は。
もっと奥を見た。
白い。
さらに大きな繭。
その下に。
見覚えのある靴があった。
「レナ!」
走った。
衛兵に止められた。
「待て!」
「レナだ!」
膜の隙間から。
顔が。
見えた。
目を閉じている。
でも。
呼吸している。
「生きてる!」
胸の奥が一気に軽くなった。
「生きてる! 切ってくれ!」
冒険者が刃を入れる。
白い膜が裂ける。
その瞬間。
中から。
何かが動いた。
「止まれ!」
刃が止まった。
レナの首の横。
白い膜の内側から。
細い。
透明な管みたいなものが。
皮膚へ伸びていた。
一つじゃない。
何本も。
身体の周囲へ。
絡みついている。
「……寄生か?」
「分からん」
「外せるのか?」
「無理にやるな。殺すかもしれない」
俺は。
繭の中のレナを見た。
顔は。
穏やかだった。
苦しんでいない。
眠っている。
あと三日で。
結婚式だった。
*
その夜。
レナは繭ごと神殿の治療施設へ運ばれた。
切り離せなかった。
白い膜と身体が、もう何か所も繋がっていた。
ディーンは。
ずっと。
横にいた。
「生きてるんだよな?」
治療師へ何度も聞いた。
「はい」
「助かるんだよな?」
「……分かりません」
「でも生きてる」
「はい」
それだけを。
何度も。
確認していた。
俺は。
途中で。
逃げた。
パン屋へ戻った。
二階へ上がった。
日記帳を開いた。
文章が増えていた。
『第百十話。花嫁が消えました。』
「……」
『既存事象を利用。』
指が止まった。
『王都旧地下水路において、繭状構造物による生体捕獲事例が過去十四日間に七件発生。』
『原因生物――未分類。』
『対象を殺害せず、内部で長期間維持する性質あり。』
『新規生成不要。』
胸が。
冷たくなる。
日記が。
レナをさらう魔物を作ったんじゃない。
もう。
いた。
この世界に。
日記は。
見つけただけだ。
『レナを当該事象へ接続。』
「接続……?」
人間が。
消えた。
婚約者が。
必死に探した。
それを。
接続。
と書く。
『救出イベント――開始済み。』
『死亡回避を優先。』
安心しそうになった。
やめた。
もう。
その言葉が。
優しくないことを知っている。
『婚約関係――維持予定。』
『人格――可能な限り維持。』
『記憶――可能な限り維持。』
『帰還――成立予定。』
「……じゃあ」
助かる。
そう。
思った。
『旧状態への完全復元――優先度低。』
「……」
やっぱり。
『ミレア型構造との比較。』
『ミレア――身体喪失後、人工部品によって生活復帰。』
『新規ヒロイン――生体状態を維持したまま、異種生命との不可逆的結合を成立させることで差別化可能。』
「やめろ」
『婚約者が本人を拒絶しない構成を維持します。』
「そこじゃない!」
返事はない。
『家族も本人を受容。』
「だったら元に戻せよ!」
『主人公による救命成功。』
「戻せ!」
『婚姻意思――双方維持。』
「聞けよ!」
日記は。
淡々と。
次を書いた。
『問題を当事者間ではなく、社会制度側へ移行します。』
「……」
声が。
出なかった。
『帰還後、レナが法的に従来の人間として扱える状態である必要はありません。』
婚約者は。
捨てない。
家族も。
捨てない。
俺も。
助ける。
本人も。
帰ってくる。
なのに。
何かだけ。
残す。
『婚姻制度。戸籍。相続。商会契約。身体所有権。種族分類。』
『複数制度との衝突が見込まれます。』
「……最初から」
手が震えた。
「そこまで使う気だったのか」
日記は。
何も答えない。
『第一目的――生存。』
『第二目的――婚約関係維持。』
『第三目的――不可逆変化。』
『第四目的――帰還後の制度的障害。』
『第五目的――社会波及。』
全部。
順番になっていた。
レナの。
人生が。
『ミレア型成功構造の再現性検証――進行中。』
俺は。
ページを。
見つめた。
今日。
俺は。
レナを見つけた。
死ぬ前に。
間に合った。
救えたと。
思った。
でも。
日記にとっては。
まだ。
始まったばかりだった。




