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世界改稿日記 ~なろうによる世界破綻~  作者: 黒瀬 量衡


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第百九話 まず幸福な未来を用意します

 階段を降りきる前に、女の声が聞こえた。


「突然すみません。こちらで新しい焼き菓子を扱っていると聞きまして」


 足が止まった。


 若い声だった。


 成人女性。


 商会。


 俺は手すりを握ったまま、一階を覗いた。


 店の前に女が立っている。年は二十代前半くらい。質のいい服を着ているが、貴族ほど派手ではない。商家の娘らしい、動きやすさを残した服装だった。隣には年の近い男がいる。男は荷物を持ち、女が女将と話している間も自然に横へ立っている。


 そして。


 女の左手には。


 指輪があった。


「……」


 やっぱり。


 そう思った瞬間、吐き気がした。


「ルーク?」


 女将が俺に気づいた。


「何してるんだい。降りてきたなら手伝いな」


「あ、うん」


 いつも通り。


 いつもの店。


 いつもの仕事。


 俺だけが。


 これから何か酷いことが始まるのを知っている。


「こちら、レナさん。ハーヴェル商会の娘さんだってさ」


「レナです。よろしくお願いします」


「……ルークです」


 普通に挨拶された。


 俺も。


 普通に返した。


 それだけで。


 胸が苦しくなった。


「こっちは婚約者のディーン」


「よろしく」


 男が軽く頭を下げた。


 婚約者。


 日記に書いてあった通りだった。


「結婚は来月なんだって」


 女将が笑った。


「女将さん!」


 レナが少し恥ずかしそうに抗議する。


「いいじゃないか。めでたい話なんだから」


「まだ準備が全然終わってなくて」


「終わってないって言いながら、昨日も新居の家具を三つ買っただろ」


 ディーンが言った。


「必要だったでしょ」


「椅子は八脚もいらない」


「お客さんが来るかもしれないじゃない」


「二人暮らしだぞ」


「だからこそ最初に揃えておくの」


 二人が笑った。


 俺は。


 笑えなかった。


 来月。


 結婚。


 新居。


 家具。


 全部。


 日記が。


 昨日。


 書いていた。


     *


 レナたちが来た理由は、本当にただの商談だった。


 ハーヴェル商会が王都周辺の保存食や焼き菓子を扱う新しい売り場を作るらしく、この店の商品を置けないか相談に来たという。


「うちは大量には作れないよ」


 女将が腕を組んだ。


「分かっています。大量販売ではなく、少量の高品質品を置く棚を作る予定なんです」


「高級品扱いかい?」


「そうなります」


「うちのパンを?」


「美味しいので」


 即答だった。


 女将が嬉しそうな顔をする。


「見る目があるね」


「女将」


「何だい」


「顔」


「普通だよ」


 普通じゃない。


 完全に喜んでいる。


 レナも笑っていた。


 ディーンも。


 誰も。


 何も知らない。


 商談はそのまま進んだ。値段。納品数。保存期間。運搬。返品条件。俺も途中から帳簿を持ってこさせられた。


 レナは仕事ができた。


 値段だけを下げようとはしない。店側の利益も計算している。包装の費用まで確認する。


「結婚したら商会を辞めるんですか?」


 女将が聞いた。


「いえ」


 レナは首を振った。


「続けます」


「旦那は?」


「むしろ働けって言ってます」


「言い方」


 ディーンが苦笑した。


「レナが仕事を辞めたら三日で暇だって騒ぐから」


「失礼ね」


「事実だろ」


「家事もします」


「料理できたっけ?」


「練習してます」


「昨日、鍋を焦がした」


「黙って」


 また。


 二人で笑う。


 俺は帳簿の数字を見るふりをした。


 やめてくれ。


 そんな話をするな。


 結婚した後も。


 仕事を続ける。


 新しい家で。


 二人で暮らす。


 料理をする。


 失敗する。


 笑う。


 そんな。


 具体的な未来を。


 増やすな。


     *


 帰る時。


 レナが店先で振り返った。


「では、三日後に正式な契約書を持ってきます」


「分かったよ」


「それと」


 少し迷って。


 女将を見る。


「結婚式の焼き菓子もお願いできますか?」


「もちろんだよ!」


 女将は即答した。


「数は?」


「六十人くらい」


「多いね」


「父が呼びすぎるんです」


「商会だからな」


 ディーンが肩をすくめる。


「じゃあ特別なのを考えないとね」


「お願いします」


 レナが嬉しそうに頭を下げる。


 俺は。


 それを。


 見ていた。


 結婚式。


 日取り。


 客。


 菓子。


 もう。


 ほとんど完成している。


 幸せになるための準備が。


 全部。


 進んでいる。


「ルークさんも、よかったら来てください」


「……え?」


「女将さんだけだと店がありますよね。でも、どちらかだけでも」


「いや」


 言葉が詰まった。


「その……」


 行きたくない。


 違う。


 行きたい。


 普通なら。


 普通なら。


 結婚式に行けばいい。


 祝えばいい。


 でも。


 この女が。


 一ヶ月後。


 ちゃんと結婚式を挙げられると。


 俺は。


 信じられない。


「都合が合えば」


 それしか言えなかった。


「はい」


 レナは普通に笑った。


 二人が店を出る。


 ディーンが外で荷物を持ち直し、レナが何か言って笑う。


 そのまま。


 二人で歩いていった。


     *


 俺はすぐに二階へ戻った。


 日記帳を開く。


 新しい文章があった。


『新規ヒロイン。レナ。成人女性。商家の娘。』


「……」


『婚約者ディーン。成人男性。幼少期からの知人。』


『婚礼予定日――二十八日後。』


『新居――準備進行中。』


『家業――婚姻後も継続予定。』


『家族関係――良好。』


『主人公との接点――パン屋の商品取引および婚礼用焼き菓子。』


 俺は歯を食いしばった。


『幸福な将来の具体化――開始。』


「開始って……」


 声が震えた。


『第一段階では事件を発生させません。』


 俺は。


 一瞬。


 安心しかけた。


 その次。


『幸福描写を優先します。』


 安心が。


 全部。


 消えた。


『婚礼衣装選定。』


『新居完成。』


『婚約者との食事。』


『家族との会話。』


『商会での仕事。』


『婚礼用焼き菓子の試作。』


『主人公およびパン屋との関係形成。』


『婚礼直前まで生活上の重大な不安要素を配置しません。』


「……何で」


 分かっている。


 昨日。


 もう。


 読んだ。


『幸福状態を安定させることで、その後の変化を明確化できます。』


 俺はページを殴りそうになった。


「変化って言うな」


 返事はない。


『なお、婚約者ディーンについても好感度の低い人物には設定しません。』


「……」


『暴力、浮気、金銭問題、家族対立等を付加した場合、事件後の婚約関係維持に対する読者期待が低下します。』


 つまり。


 いい男にする。


 その方が。


 後で効くから。


『ディーンはレナを尊重し、婚姻後の就労継続を支持します。』


『レナの家族とも良好な関係を維持。』


『事件後も婚約解消を希望しません。』


「もう事件後の話をするなよ……」


 まだ。


 何も起きていない。


 さっきまで。


 店で。


 笑っていた。


『新居についても完成させます。』


 俺は。


 息を止めた。


『未完成のまま事件を発生させるより、生活可能な状態まで完成させた方が、帰還後に「帰る場所が既に存在する」という要素を利用できます。』


「……」


『婚礼衣装も完成させます。』


「やめろ」


『結婚式用焼き菓子も完成させます。』


「やめろって」


『招待客への案内も完了させます。』


「やめろ!」


 閉じた。


 日記を。


 叩きつけるように。


 閉じた。


 何も。


 壊していない。


 まだ。


 何一つ。


 酷いことをしていない。


 むしろ。


 全部。


 良くしている。


 結婚相手は優しい。


 家族とも仲がいい。


 仕事も順調。


 新居も完成する。


 結婚式の準備も進む。


 幸せしか。


 ない。


 なのに。


 前より。


 怖かった。


     *


 三日後。


 レナは契約書を持ってきた。


 五日後。


 婚礼用の焼き菓子の試作をした。


 七日後。


 ディーンも一緒に来て、二人で味を選んだ。


「これがいい」


「私はこっち」


「じゃあ半分ずつ」


「最初からそう言えばよかったじゃない」


「揉めた意味ないな」


 十日後。


 レナが新居の話をした。


「やっと寝台が入ったんです」


「大きいやつ?」


 女将が聞く。


「はい」


 レナが少し恥ずかしそうに笑う。


「ディーンが大きすぎるって言ったんですけど」


「必要だろ」


「そうだけど」


 二人。


 また笑う。


 十五日後。


 婚礼衣装が完成した。


 なぜか女将まで見に行った。


 帰ってきてから、


「綺麗だったよ」


 と。


 嬉しそうに言った。


 二十日後。


 招待状を全部出したと聞いた。


 二十三日後。


 菓子の最終数が決まった。


 二十五日後。


 レナが。


 一人で。


 パン屋へ来た。


「今日はディーンは?」


 女将が聞いた。


「新居の最後の片付けです」


「働かせてるねえ」


「自分からやってるんです」


「尻に敷いてるだけじゃないのかい?」


「違います!」


 笑う。


 俺は。


 その笑顔を。


 まともに見られなかった。


 あと。


 三日。


 日記が。


 何も起こさないと書いた期間が。


 もう。


 ほとんど。


 終わっている。


「ルークさん?」


「……何?」


「顔色悪いですよ」


「大丈夫」


「本当に?」


「ああ」


 心配そうに。


 見られた。


 俺を。


 これから。


 酷い目に遭うかもしれない人間に。


 心配された。


 レナは帰った。


 俺は。


 二階へ走った。


 日記を開いた。


 文字が。


 あった。


『幸福な将来の具体化――十分。』


「……」


『読者が喪失前後を比較するために必要な要素は揃いました。』


「やめろ」


 手が。


 震えた。


『新居――完成。』


『婚礼衣装――完成。』


『婚約関係――良好。』


『家族関係――良好。』


『職業――安定。』


『主人公との接点――成立。』


『帰還後に戻る場所――確保済み。』


「やめろよ」


『次段階へ移行可能。』


「やめろ!」


 返事はない。


 その下へ。


 新しい題名が。


 ゆっくり。


 書かれた。


『次話。花嫁が消えました。』


 俺は。


 立ち上がった。


 日記を。


 置いたまま。


 階段へ走った。


 まだ。


 消えていない。


 さっきまで。


 ここにいた。


 だったら。


 今なら。


 間に合う。


 店を飛び出した。


「ルーク!?」


 女将の声がした。


 無視した。


 レナが帰った方向へ走る。


 人を避ける。


 馬車を避ける。


 走る。


 走る。


 走る。


「レナ!」


 名前を叫ぶ。


 知らない人間が振り返る。


 でも。


 あの服は。


 見えない。


 道を曲がる。


 また。


 叫ぶ。


「レナ!」


 いない。


 まだ。


 三日。


 結婚式まで。


 三日。


 新居も。


 婚礼衣装も。


 菓子も。


 婚約者も。


 全部。


 待っている。


 だから。


 日記は。


 今。


 消す。


 俺は。


 走った。


 まだ。


 間に合うと。


 思いながら。

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