第百六話 『一ヶ月後、僕の周りにいるヒロイン達には、それぞれ救いがある。』
日記帳を開いて、俺はしばらく何も書けなかった。女将。リサ。セリナ。ミレア。マルタ。サラ。エリナ。ティナ。クラリッサ。助けたつもりだった人もいる。間に合わなかった部分が残った人もいる。それでも日記は、残った傷も、変わった身体も、壊れた価値観も、そのまま次の物語へ使おうとする。このままなら、何度でも何かが起きる。だから細かいことは書かなかった。何を治せとも、何を元へ戻せとも書かなかった。ただ、一行だけ書いた。
『一ヶ月後、僕の周りにいるヒロイン達には、それぞれ救いがある。』
これならいいと思った。元へ戻ることが救いなのかは、もう俺にも分からない。サラは今の自分を幸せだと言う。エリナは機械人形である自分を受け入れ始めている。セリナだって、吸収したものを全部消したら今のセリナまで変わってしまうかもしれない。だったら、救いだけあればいい。少しでも楽になればいい。俺は日記帳を閉じた。日記は何も書かなかった。
*
その数日後、クラリッサがパン屋へ来た。俺が棚へパンを並べている横を通り抜けようとして、振り返った拍子に肩がぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
「大丈夫ですよ」
本当に、それだけだった。パンは落ちなかった。俺も怪我をしていない。クラリッサも一度振り返って謝っただけで、そのまま店を出た。俺はすぐに仕事へ戻った。
その後、クラリッサは姿を消した。以前の商会勤めや契約関係を調べられ、かなりまずいことが出てきたらしい。衛兵が探し始めた頃には、もう住んでいた場所にもいなかった。それから何日かして、地下下水道の出口近くで遺体が見つかった。右手側の一肢だけが残され、それ以外を失っていた。片手殺しだった。
「……クラリッサ」
葬儀には俺たちも出た。女将も、リサも、セリナも、ミレアもいた。棺は閉じられていた。ミレアは静かだった。泣きもしなかったし、笑ってもいなかった。クラリッサが何をして片手殺しに狙われたのか、誰にも分からなかった。そもそも最近の片手殺しには、もう分かりやすい理由すらない。クラリッサは埋葬された。俺は墓の前で手を合わせた。それで終わったと思っていた。
*
一ヶ月が経った。
朝、日記帳を開くと、新しい文章が始まっていた。
『一ヶ月後。女将は以前よりルークと過ごす時間が増えていた。クラリッサがいなくなったことで、店と生活の中で一人分の調整や気遣いが消えたためだった。仕事が終われば二人で食事をし、以前なら誰かの予定を気にしていた時間も、今は二人で使える。』
「……それを、救いって」
俺の言葉に返事はなかった。その下に、物語が続いていく。
『女将は満足していた。「最近、あんたと一緒にいる時間が増えたね」と笑った。失ったものではなく、増えた時間を見ていた。』
次。
『リサは以前よりルークと過ごす時間が減った。その代わり、スライムを探し、殲滅する時間が増えた。消えなかった恨みも怒りも、抱えて眠れない夜もなくなったわけではない。ただ、それらをぶつけられる相手を見つけた。』
『「今日も行くの?」とルークが聞く。「行く」「スライム?」「スライム」。リサは迷わない。見つけ、殺し、また探す。怒りを持て余す時間が減った。本人は以前より安定していた。』
「それ、治ったんじゃないだろ……」
返事はない。
『ミレアは幸福を感じていた。』
短かった。
『悪人が一人、この世から減ったからだった。』
「……」
『誰が悪人であるかについて、ミレアは迷わなくなっていた。自分が悪いと思った。それで十分だった。悪人が減れば、世界は少し良くなる。ミレアはそう信じている。』
俺は葬儀で見たミレアの顔を思い出した。でも、それ以上は何も書かれていない。誰のことなのかも、何をしたのかも、日記には書かれなかった。
*
『マルタは新鮮な皮を得た。』
「……皮?」
『長く探していた素材だった。古い墓から得られるものより状態が良く、死体漁りとして使う鎧の一部を更新できた。獣皮、魔物皮、人皮、骨、毛皮。本人にとって重要なのは由来ではなく性能だった。新しい鎧は以前より軽く、身体へ馴染んだ。』
どこで手に入れた。
そう思った。
日記には書かれていない。
『町へ戻る時には鎧を隠した。パン屋へは持ち込まない。女将にもルークにも迷惑をかけない。その線引きを維持したまま、自分が望む鎧を完成へ近づけられたことを、マルタは喜んだ。』
次の文章。
『エリナは、人間へ近づく研究に使える良質な部品を得た。』
また。
由来がない。
『エリナだけではなく、エリナが作った機械人形たちも人間を研究している。皮膚の感触。関節の動き。目の反応。指の細かな操作。体温。表情。新しい部品を調べるたび、機械人形は人間へ近づいた。』
『一体の機械人形が笑った。以前より自然だった。エリナは何度もその顔を見て、「次はもっと人間みたいにできる」と喜んだ。研究は進んでいる。』
部品。
どこから。
その疑問だけが残った。
*
『サラの幸せの花は、十分な栄養を得た。』
今度は花だった。
『新しい株がよく育ち、原種である寄生植物の性質を強く残す種類も増えた。人間へ根を伸ばし、身体へ寄生する。それでも宿主は苦しまない。むしろ幸福感を得る場合が多かった。』
『「別にいいじゃない。幸せなんだから」と寄生された女は笑った。その隣では、まだ花を持たない男が「自分にも寄生できるか」と尋ねていた。寄生を治す者より、受け入れる者が増え始めていた。サラは、自分と同じものを恐れない人間が増えたことを喜んだ。』
植物は森だけを広げているんじゃない。
人間自身が。
運ぶようになっている。
『ティナのいる地下では、触手生命体が新しい餌を得た。』
「……」
『餌不足で共食いする個体が減り、人間との共存区域は以前より安定した。触手生命体を排除しようとする社会は縮小し、触手生命体と生活する人間が増えた。』
『長い共存の結果、触手生命体そのものも変化している。人間と離れて生きる個体は減り、人間と一体の生活環を持つ存在が増加した。ティナは、それらを触手生命体とも従来の人間とも呼ばなかった。』
『「新しい人」』
『旧来型の触手生命体は、共存の進行とともに減少している。廃絶へ向かう一方で、その性質を受け継いだ新しい人類が増えていた。ティナは、自分たちが排除される未来ではなく、次の人間へ続く未来を得た。』
*
『セリナは、新しい定義を得た。』
嫌な予感がした。
『ルークを知る人物の記憶だった。パン屋。帳簿。商会。契約。値段。取引先。そしてルーク本人。』
「誰だ……?」
日記は答えない。
『その人物が持っていた記憶は、セリナの中でセリナ自身の知識へ変わった。ただし以前とは違う。セリナは、それが元から自分の人生だったとは考えなかった。』
『「これは私の記憶じゃなかった。でも今は私の中にある」』
『他人由来の定義を持ちながら、自分はセリナであると区別できるようになった。吸収すればするほど自分が分からなくなる状態から、吸収したものを抱えたまま自分を選べる状態へ近づいた。』
女将。
リサ。
ミレア。
マルタ。
サラ。
エリナ。
ティナ。
セリナ。
みんな。
何かを得ていた。
日記は、それぞれ別の物語として書いているだけだった。皮がどこから来たのか。部品がどこから来たのか。花の栄養は何だったのか。地下の餌は何だったのか。セリナが誰の記憶を得たのか。
何も書かれていない。
*
最後に。
クラリッサの名前が出た。
『クラリッサは、これから先、この世界で新しい悲劇に遭わない。』
「……」
『身体狩りに遭うこともない。寄生植物に身体を変えられることもない。機械人形へ改造されることもない。未知の生物に生活圏を奪われることもない。崩れていく社会の中で、さらに何かを失うこともない。』
理由は。
分かっている。
もう。
死んでいる。
『クラリッサに残された苦痛は増加しない。』
それだけだった。
救われた、とは書いていない。
でも。
俺が書いた文章は。
『一ヶ月後、僕の周りにいるヒロイン達には、それぞれ救いがある。』
だった。
「……これも、救いなのか」
もちろん。
返事はない。
*
ページはそのまま続いた。
『女将は、ルークとの時間を得た。』
『リサは、怒りをぶつけられる相手を得た。』
『ミレアは、悪人が一人減った世界を得た。』
『マルタは、新鮮な皮を得た。』
『サラは、幸せの花を受け入れる人間と、新しく育つ花を得た。』
『エリナは、人間へ近づく研究材料と、共に研究する機械人形を得た。』
『ティナは、触手生命体が消えた先にも続く、新しい人類を得た。』
『セリナは、他者の定義を抱えたまま自分でいる方法を得た。』
『クラリッサは、これ以上この世界から何かを奪われる可能性を失った。』
俺は。
何度も。
読み返した。
願った通りだった。
全員に。
何かしら。
救いがある。
でも。
誰も。
元には戻っていない。
むしろ。
救いが成立するほど。
今まで生まれた異常が。
本人の生活へ。
しっかり。
根を張っている。
俺は一ヶ月前の自分の文字を見た。
『一ヶ月後、僕の周りにいるヒロイン達には、それぞれ救いがある。』
消したかった。
でも。
もう。
一ヶ月後だった。
全部。
成立した後だった。




