第四話
※
「はぁっ……はぁっ……うぅぐぅっ」
アリシアは動かなかった足を気力だけで無理矢理動かし、洞窟の中へ逃げる。
背後から洞窟の端々が崩される音と地響きがアリシアの足の傷に鋭く響いた。
運がいいのか悪いのか。蟲を前に腰を抜かし、動けなくなっていたアリシアを駆り立てたのは、肉を裂くあの鋭利な爪だった。
見れば、アリシアの細い足は鮮血に染まり、裂けた衣類の隙間から白い肉が覗いている。
しかしーーー逆に言うと、その程度で済んでいた。
叫び出したくなるような、意識を手放したくなるような、そんな激痛に襲われながらも、致命傷には至っていない。
血に染まる足を引きずりながら、痛みによる高揚と脳内をこだまする精霊の悲鳴に駆られ、アリシアはさらに洞窟の奥へと歩を進めていた。
(だれか……だれか、助けて……わたくしを、助けて……ッ)
痛みと恐怖で朦朧とする頭の中、アリシアは存在しない誰かへと必死に救いを求める。
すでにアリシアの喉は嗚咽を吐き出すことしかできず、助けを求める声は声にならない。
「え……」
ふと、アリシアの思考が止まる。
それはこの場でアリシアが見るはずの無いものだった。
※
アリシアの目の前に現れたのは、淡い光の粒子だった。
光は一つ、また一つと、日の落ちた暗い洞窟の中をぼんやりと照らし、アリシアの傷ついた左足に群がるようにして優雅に舞う。
その幻想的な輝き。
それはある意味現実離れしたような、この世の物とは思えないようなそんな光。
多くの人間であれば、ただその光景の美しさに目を奪われるだろう。
しかし、アリシアにはその光に見覚えがあった。
アリシアだからこそ、その光を知っていた。
(これは……精霊……!?)
それは、精霊使いの儀式を知っており、普段から体の中に精霊を飼っているアリシアには嫌というほど見覚えのある光。
精霊の光そのものだった。
「でも……どうしてこんなところに、“野良の”精霊が……」
精霊が蟲に捕食されるようになった世界において、野良の精霊は限りなく絶滅に瀕していた。アリシア自身、城の外で野良の精霊など一度も見たことがなかった。
アリシアはその幻想的な光を前に、自分の中の精霊へと答えを求める。しかし、蟲の接近に狂ったように騒ぎ立てている精霊たちは、変わらずアリシアの脳内を揺さぶるだけだ。
(この精霊達は……いったいなんですの……)
死の間近に見る幻影か、そんな懸念が頭をよぎる。
その光景に、アリシアは自信の息を飲み込む。しかし、血に滲む左足が現実であることを残酷に知らせていた。
一瞬ーーー困惑するアリシアは背後に迫る巨大な『暴力』への警戒が、一瞬だけ、本当に一瞬だけ遅れてしまった。
『ギ……ジジジッイ!!!』
「はっ……もう、ここまで……つ!」
振り返り、蟲を視界に捉えようとしたアリシアの耳に、突如、蟲の方向ではない、笛のような人工的で甲高い音が響き渡っていた。
『ピュゥイィィィィッ!!!』
その音が何かを認識する前に、アリシアの視界の端を、眩い何かが音を立てて駆け抜ける。
それは、光の粒子の塊。
先ほどまで足元でおとなしく舞っていた光たちが、一斉に蟲の顔面へと群がる様子だった。
『グィァ! グゥルアアア……ッ!』
突如、蟲が苦悶の声を上げて仰け反った。
さっきまでの淡い輝きではない。目を灼くほどの光を放つ精霊たち。
無数の光の粒子が蟲の複眼にとりつくように覆い尽くし、強烈な発光とその光が持つ熱によって蟲の感覚器官を完全に麻痺させていく。
目に見えない光の壁に阻まれたかのように暴れる蟲は、自身の目の前を煩わしく舞う光を、狂ったようにかみ砕き、捕食する。
「みんな……ごめん。君たちの女王は俺が守るから……」
眩い光の渦の向こうから、場違いなほど静かで、けれど決意に満ちた声が聞こえた。
「だ、誰……?」
(それに今……女王って……)
混乱するアリシアが霞む視界を必死に凝らすと、その光の中に一人の少年が立っていた。
「別に誰でもないよ。そうだな……」
少し迷ったように、困ったようにして少年は呟く。
「ただの……セイレイ、ツカイ……かな」
自身のことを『セイレイツカイ』、と名乗り、その少年は、アリシアへその瞳を向けるのだった。




