第三話
※
アリシア・アン・フォーミシア。
フォーミシア国の王女である彼女は、自身の持つ立場が嫌いだった。
ーーー精霊使いの儀式。
それこそが、アリシアが自身の立場を嫌う最大の理由であった。
女王の血を介し、大いなる精霊の加護を授かる輝かしい栄誉。
国民や一般の兵士たちは、それを神聖なる救済の儀式だと信じて疑わない。
しかし、その本質はあまりにもおぞましい。
王族の女性、すなわち次代の女王となる者の体内には、数千に及ぶ精霊が飼われている。その女王の血を血を介して、精霊を他者の体へと「株分け」する行為にすぎない。
それがこの儀式の本質だった。
女王の体の中にいる数千の精霊。
つまり、精霊は女王の体を苗床として寄生している。
この事実は、王族の中でも一部のみしか知りえない精霊の禁忌。
精霊使いの儀式を受ける者たちは、神聖なフォーミシアの血によって精霊の加護を得られると思い込んでいる。
自身の体の中を精霊によって蝕まれていることすら知らずに。
そして現在、次代の女王たるアリシアの体内には、すでに数百の精霊が巣喰ている。否、蝕まれているのだった。
絶え間なく体力を吸い上げられるような倦怠感。頭の中では精霊の声が響き渡る。
そんな状況にアリシアは限界を感じ、たびたび城を抜け出しては、街の外まで逃げ出していたのであった。
その日は気まぐれだった。
いつもであれば町中で遊んだり、町はずれまでしか行かないところを、こっそりと馬を持ち出し、遠出した。
(お馬さんなら少し遠くまで行っても、すぐに帰ってこれるわよね!)
そう自分に言い訳をして、彼女が足を踏み入れたのは、王都から離れた南の山林。
ーーーそれが、すべての過ちだった。
『ゴゴゴ……ミシミシミシィ……ッ!』
「……ひぅっ」
離れた所から地鳴りと木々を押し倒す重低音が響く。アリシアは薄暗い洞窟の中で息を潜め、体を縮めた。
アリシアはかれこれ2時間、怪物から逃げては隠れることを繰り返し、この洞窟に行き着いたのだった。
今、一緒に来たはずの愛馬は隣にいない。
「どうして……どうしてわたくしがこんな目にぃ……」
そうアリシアは呟くが、理由はわかっている。自分の役割に嫌気が差し、無責任にも逃げてしまった。その天罰なのだと。
少なくともアリシア自身ではそう考えていた。
※
怪物ーーー姿は見ていないがおそらく『蟲』だろう。
これまで複数回城を抜け出し、街の外に出かけることはあったが、一度も蟲に会ったことはなかった。
あの山の麓。馬の背では進めぬほどの草木をよけるように、手綱を引いて歩いてた時のことだ。
突如、森の奥で不審な物音が響いたかと思うと、賢い愛馬が異常なまでに怯えだし、急に手綱を振り切ってアリシアを置き去りにしたまま、来た道を駆け出してしまった。
残されたアリシアは元の道へと戻ろうとするも、近づいてくる物音から逃げるため闇雲に森の中を歩き回るしかなかった。
気がついた時には、完全に退路を見失っていた。
自分がどこにいるのかもわからなくなり。来るかもわからない助けを待ち、ただ洞窟で息を潜めているのだった。
あの愛馬であれば、賢いからきっとひとりでも王都へ帰ることができるだろう。そうすれば騎士団がアリシアの来た方向を知ることができるかも知れない。そんな現実逃避のよう希望にすがることしかできなかった。
アリシアは薄々気がついていた。
「わたくしの中にいるたくさんの精霊、それが目当てですわよね……」
精霊について詳しいわけではないが、仮にも自分の体のことである。
闇雲に森を彷徨うアリシアを、見えざる怪物が確実に、執拗に追い詰めてくる。その間、アリシアの体内を巣食う数百の精霊たちが、彼女の血管を内側から激しく脈打たせていた。
「私も精霊の加護を使うことができたら……蟲にも立ち向かえる、かもしれませんのに……」
と呟いてみるが、実際に力があって蟲と対峙しても動けないだろうと、案外冷静にアリシアは考えてた。
どうしようもない現状から逃避するために、そんなことを考えていた。
精霊の苗床たる王族の女性は、精霊の力を外へ引き出す加護を使えない。寄生され、吸い尽くされるだけの存在ーーーそれもまた残酷なる精霊の原則だった。
「助け……くるのかしら……」
狼煙を上げて助けを呼ぶべきか。いや、火のおこし方すら知らない。万が一煙が上がったとしても、騎士団よりも先にあの怪物を呼び寄せる目印となるだけだ。
何もできない。
ただ、怪物の這い回る地響きが、確実に洞窟へと近づいている。
アリシアは冷え切った自分の体を抱きしめ、声も出さず、ただ涙を流していた。
そんな洞窟の奥。
もう一つ、微かに響く羽音があることに、アリシアはまだ気づいていなかったーーー
※
いったいどのくらい時間が経ったろうか。
洞窟に隠れた時は日が明るかった陽光も、気づくと空はわずかにあかね色に変わっている。
アリシアの胸は、激しい焦燥に支配されていた。
(日が落ちてしまったら……本当に、助けも来れなく……ッ)
それともう一つ、アリシアが懸念していることがあった。
『蟲』はーーー夜行性である。
蟲の生態に詳しくないアリシアでも知っている。フォーミシア国に限らず、この世界では、子どもの躾として「夜ふかしすると蟲が来る」と脅すものだ。
日中は鈍い蟲の熱感知機関が、夜の訪れとともに覚醒する。闇に紛れ、人間の体温を感知し、音もなく襲いかかってくるのだ。
アリシアはそのメカニズムまでは知らない。
ただ、本能が夜をここで迎えてはならないと告げていた。
日が沈みきる前に、ここから動かなければ。
アリシアは長い時間をかけ決死の覚悟を決め、洞窟の外へと足を踏み出そうとーーーその時だった。
それは単なる偶然か、はたまた狭い洞窟を嫌い待ち伏せていたのか。
理由はわからない。
洞窟の外、夕闇の境界線。
それはーーーいた。
「……っぁ」
声にならない、悲鳴。
アリシアの体は、脳が思考をする前に、本能的な恐怖によって金縛りにあっていた。
それは、本の中にいる空想上の怪物なんかではない。
そこにいたのは、彼女の想像を絶する『暴力』そのものであった。
体長は優に三メートルを超えているだろう。外郭を覆う漆黒は、夕暮れの微かな光を鈍く反射している。幾本もの間接が不気味に曲がった脚、およそその巨躯を浮かせることが不可能に思える歪な四枚の翅。
そして、何より恐怖を煽ったのは、その顔面であった。
数え切れないほどの複眼、その全てが今、アリシアタダ一人を凝視している。
(あ、あああ……いや……こ、ないで)
アリシアの体内に巣食う、数百の精霊たちが恐怖に狂う。
アリシアの脳内は精霊たちの悲鳴で満たされ、彼女の意識を震わせる。
ただ、圧倒的な死を前にアリシアは何もすることができなかった。
瞬間、その巨大な『暴力』が凄まじい速度でアリシアの体を貫いたーーー




