第八話 ゆったりとした会話
シロツメコケを納品したら、銅貨二十五枚になった。
Dランク帯の素材は、やはり値がいい。グスタフは苔の状態を確認しながら「湿度の維持が完璧だな」と言った。グスタフと薬屋のおばさんに教わった通りにしただけなんだけども。
灰色のやかん亭に戻って、風呂に入って、ベッドに横になった。天井の石を見ながら考えた。
蝙蝠の洞窟。あの先に、まだ道がある。道というか、獣道というか、木の隙間というか。Dランク帯の入り口までは行った。あの先にはもっと大きな魔物がいるはずだ。虫系もモスリンもいない、静かな領域。
あの先に、あいつがいる。
翌日、ギルドでDランク帯の依頼を二件受けた。シロツメコケの追加発注と、もう一つ——「北部山岳地帯の植生調査」という変わった依頼。指定された区域の植物の種類と分布を記録して報告する、というもの。報酬は銀貨一枚。
「この依頼、ずいぶん長く残ってますね」
「Dランク帯の奥まで行かないと調査できないから。泊まりがけが必要だし、戦闘向きの冒険者は採取や調査に興味がないのよ」
俺にはぴったりだ。
街の乾物屋で保存食を買い足した。塩漬けの干し魚、硬いビスケット、ドライフルーツ。三日分。水筒も一本追加した。前回の遠征で水の減りが思ったより早かったから。
帳面を確認した。前回のメモ。蝙蝠の洞窟の場所、赤い実の位置、シロツメコケの群落。そしてページの端に書いた走り書き——「この先にまだ道がある」。
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翌朝、北門を出た。
前回と同じ道を辿る。街道を北に一刻、針葉樹の林に入る。蝙蝠の洞窟は東に少し入ったところだ。
洞窟の入り口に着いたら、中から声が聞こえた。
『……きた。あかい、み、の、ひと』
「おはよう。通りがかりです」
『また、とまる?』
「帰りに寄るかも。今日はもっと奥に行ってくる」
『おく。おおきい、いる。きをつけて』
奥に大きいのがいる。気をつけて。虫系も蝙蝠も同じことを言う。Dランク帯の奥には何かがいる。
「ありがとう。気をつける」
赤い実を一房、入り口に置いた。来るときに岩壁で摘んできた。蝙蝠の声が跳ねた。
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洞窟を過ぎて、さらに北に進んだ。
前回はこのあたりで引き返した。シロツメコケを見つけた岩壁のすぐ先。ここから先は未踏だ。
空気が変わった。
エルスト周辺とは違う。冷たいだけじゃない。重い。木が密集していて、光が地面まで届かない。苔が分厚い。足を踏み出すたびに、靴の下で苔がじわっと沈む。水を含んでいる。
音も違う。前回の入り口周辺では虫系の気配がまだあったが、ここには何もない。高いところで枝が風に揺れるざわめきだけ。地面は静かだ。
——静かすぎる。
小型の魔物の気配がない。大きいやつの縄張りの中では、小さいやつは息を潜めている。これがDランク帯の奥か。
帳面を出してメモした。「Dランク帯の奥:虫系・モスリンの気配なし。静か。大型の縄張りに入った印」。
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さらに歩くと、林の中にぽっかりと空間が開けた。
木が生えていない場所。直径は二十歩くらい。地面に苔が生えていて、中央に大きな何かがある。
岩じゃない。 木だ。
木なんだけど、形がおかしい。幹が太すぎる。俺が三人で手を繋いでも一周できないくらい太い。樹皮がごつごつしていて、表面に苔と蔦が絡みついている。枝は上の方でかろうじて広がっているが、ほとんど幹だけがそこにある。
そして、動いた。
ゆっくりと。幹の一部が、ずるり、と横にずれた。地面が揺れて、足元の苔が波打った。
幹の上の方に、二つの窪みがある。暗くて深い窪み。
トレントだ。
手引書には詳しく載っていなかった。Dランク帯の情報は薄い。でも、村の爺ちゃんが話してくれたことがある。「木の形をした魔物がいる。動くのが遅くて、怒らせなければ何もしない。ただし怒らせると森ごと潰される」。
怒らせない。それは得意だ。
動かなかった。息をゆっくりにした。
トレントの窪み——目が、こっちを向いている。ゆっくりと。木が首を回すくらいの速度で、こっちを見た。
声が来た。
『…………』
唸るような、低い波。とても遅い。
シュリンガが遅いと思っていたが、比じゃない。声が来ているのはわかる。何かが届こうとしている。でも、まだ言葉になっていない。音の手前の、振動のようなもの。地面を通じて、靴の裏から伝わってくる。
待った。
立ったまま、じっと待った。木漏れ日が移動した。風が何度か変わった。
——来た。
『………………ちいさい………………いきもの…………ここ…………なに……』
小さい生き物が、ここにいる。何だ。
「フリッツっていいます。人間です。通りがかりです」
返事を待った。風が何度も変わった。日が傾き始めた。
『…………にんげん………………とおく…………きた…………めずらしい……』
人間が遠くから来た。珍しい。——一文に三十分くらいかかっている。
「ここを通らせてもらっていいですか」
待った。
『…………とおる…………いい………………しずか…………なら……』
蝙蝠と同じだ。静かなら通っていい。ただ、蝙蝠は数秒で返事をくれた。トレントは一文に三十分かかる。
お礼を言おうとして、ふと気づいた。幹の下の方、根元に近い部分に、樹皮がめくれている場所がある。めくれた隙間に何かが挟まっている。石か、枝か——いや、別の植物の根だ。樹皮の下に潜り込んで、トレントの幹を圧迫している。
「……ここ、痛くないですか」
返事を待った。長かった。
『…………いたい………………ずっと…………いたい………………とれ…………ない……』
ずっと痛い。取れない。
「取りますね」
近づいた。樹皮のめくれた部分をよく見た。寄生植物の根が三本、樹皮の下に入り込んでいる。細いが、しっかり食い込んでいる。
小刀を出した。寄生植物の根を一本ずつ、トレントの樹皮を傷つけないように切っていった。シュリンガの蔦をほどいたときと同じ要領だ。根が太いところは力がいった。手が汚れた。樹液がべたべたする。
三本目を切り終えたとき、トレントの幹がかすかに震えた。
樹皮が、ゆっくりと元の位置に戻っていく。めくれていた部分が、閉じていく。
足元の苔が、ふわっと膨らんだ。トレントの根が地面の下で動いたのかもしれない。
声が来た。今度は少しだけ——ほんの少しだけ早かった。
『………いたくない……もう…………いたくない…………ありがとう……』
帳面にメモした。
Dランク帯のトレント:幹が非常に太い。声はシュリンガよりさらに遅い。一文に約三十分。樹皮の下に寄生植物の根が入り込んでいた。除去したら少し声が早くなった。痛みがなくなると声が変わる? 要観察。
トレントの絵も描いた。太い幹と、上の方の目の窪み。描き終えたら棒に丸が二つ乗っている絵になった。トレントは棒じゃない。
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トレントの空間を抜けて、さらに奥に進んだ。
道と呼べるものはもうない。獣道すらまばらだ。木の根を跨いで、岩を回り込んで、苔の上を歩く。植生調査の依頼のために、目につく植物を帳面にメモしていった。針葉樹の種類、苔の色、キノコの有無、地面の湿り具合。
ふと、足が止まった。 岩の表面に、傷がある。
横一筋の、深い傷。岩の表面が削られている。何かが強い力で擦りつけた跡。傷は新しい。苔が生えていない。
しゃがんで、傷を見た。幅がある。爪じゃない。もっと硬いもの。角のようなもの。
匂いを嗅いだ。
——鉄と、土と、それから。
心臓が跳ねた。
あの匂いだ。稜線で嗅いだ匂い。レオンが持ち帰った毛の塊に残っていた匂い。指先にかすかに残っていた、あの匂い。
単角獣が、ここを通った。
周囲を見回した。岩の傷は一つだけ。地面に蹄の跡はない——苔が厚いから残らなかったのだろう。でもこの岩の傷は確かだ。角を岩に擦りつけた。レオンが台地で見たのと同じ痕跡。
ここを通った。最近。
帳面を開いた。日付と場所を書いた。
Dランク帯、トレントの空間から北に約半刻。岩に単角獣の擦り跡。匂い:鉄、土、名前のない何か。苔なし。鮮度高い。
あいつはこの先にいる。
日が傾いてきていた。もう少し進みたかった。でも、ここから蝙蝠の洞窟まで戻るのに一刻はかかる。暗くなる前に着けるぎりぎりの時間だ。
——明日、またここから先に進む。
岩の傷にもう一度手を触れた。冷たい。でも匂いは確かに残っている。
来た道を戻った。トレントの前を通ったとき、声が届いた。
『…………また…………くる……?……』
さっきより少し早い。痛くなくなったからか。
「また来ます。明日も通りますね」
『………………うん……』
返事を聞き届けてから、歩き出した。
蝙蝠の洞窟に着く頃には、空が暗くなりかけていた。入り口に荷物を下ろして座った。朝置いた赤い実はなくなっていた。
『かえった。おかえり』
「ただいま。もう一晩泊めてもらっていいですか」
『いい。しずか、なら』
「静かにします」
塩漬けの干し魚をかじりながら、帳面を開いた。今日のメモを読み返した。トレントのこと。声の遅さ。寄生植物。痛みがなくなると声が変わること。そして単角獣の痕跡。
今日のページは昨日より長い。字は相変わらず下手だ。トレントの絵は棒だ。でも、一日ごとにこの帳面は厚くなっている。
目を閉じた。明日、あの岩の先に進む。




