第七話 洞窟の先客
Dランクになった。
レオンがギルドに単角獣の報告書を出した翌日、受付に呼び止められた。
「フリッツ・アルトハウス——」
姓を呼ばれて、一瞬、誰のことかわからなかった。アルトハウス。ああ、そういえば俺の姓だった。村では姓を使う習慣がほとんどないから、自分の姓だという実感がない。
「あ、はい。フリッツで大丈夫です」
「フリッツ。ランク審査の件でお話があります」
カウンターの奥の小部屋に通された。受付の人と、グスタフがいた。テーブルの上に書類が何枚か広げてある。
「単刀直入に言うわね。あなたのDランク昇格を推薦します」
「……Eを飛ばしてですか?」
「飛ばします。実績が条件を満たしている」
グスタフが書類を指した。
「登録から一週間でFランク素材の納品十二件。すべて依頼の満額、もしくはそれ以上の品質。採取手法は群生地を保全する方式で、持続的な採取が可能。加えて、Eランク相当の案件——ヴィルドボアの件を非討伐で解決した実績がある」
非討伐で解決した実績。あれは依頼通りの「討伐」ではないから、怒られるかと思っていた。
「あれ、大丈夫だったんですか」
「農家から感謝の報告が来てるわ。ニガヨモギの害獣避け、効いてるそうよ。ヴィルドボアはその後も農地には近づいていない」
そうか。よかった。
「ま、半分はこのギルドのメリットを取ったのもある」
「というと?」
「Dランクに上がると、行動範囲が北部山岳地帯の入り口付近まで広がります。現在、Dランク帯の採取依頼がいくつか滞っているの。キバナコウソウやアカツキタケより希少度の高い素材が、あのあたりには多い」
グスタフが続けた。
「お前の採取の腕なら、Dランク帯でも通用するだろう。ただし日帰りは無理だ。泊まりがけになる」
泊まりがけ。
宿に帰れない。朝スープも、手引書も、灰色のやかん亭の硬いベッドもない。
「装備は?」
「小刀と、採取用の布袋と、干し肉です」
「……野営の経験は」
「ないです」
グスタフと受付の人が顔を見合わせた。
「野営の基本は——火を焚いて、魔物避けの煙を出して、交代で見張りを立てるのが標準よ。一人なら……」
「あの、魔物避けはたぶんいらないです」
「……理由を聞いてもいいかしら」
「話しかければ大丈夫なので」
二人の間に、少し長い沈黙が流れた。グスタフが先に口を開いた。
「……まあ、こいつの場合はそうだろうな」
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Dランクの冒険者証をもらった。カードの表面に浮かぶ文字が変わっている。
ランク:D
スキル:対話術(+++)
Fのときと同じく、スキル欄は対話術だけだ。戦闘スキルは相変わらずない。
掲示板でDランク帯の採取依頼を確認した。北部方面の山道沿いに、いくつか指定された素材がある。手引書に載っていないものもあった。
受付の人に頼んで、手引書をもう一度借りた。Dランク帯の素材の項は薄い。情報が少ないのだ。あまり人が行かないから、データが溜まっていない。
——そうか。ここからは手引書に頼れないのか。
荷物の中から、白紙の帳面を出した。隣村で馬車を待っている間に、雑貨屋で買ったものだ。何に使うか決めていなかったが、ここで使うことにした。
手引書のDランク帯の項を書き写した。わかっていることだけ。場所、素材名、特徴、買取額。空欄が多い。これを自分で埋めていくことになる。
それから、ここまでの自分の経験もメモした。虫系への聞き方のコツ。モスリンが苔の匂いで人間を判別すること。植物系は声が遅いので急かさないこと。ヴィルドボアの声の聞こえ方。キバナコウソウの蕾の見分け。アカツキタケの軸の色。ルリゴケの保存方法。
字はきれいではない。母さんに教わった字だ。絵はもっと下手だ。アカツキタケの絵を描こうとしたが、傘が四角くなった。キノコは四角くない。
まあ、自分が読めればいい。
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翌朝、東門ではなく北門から出た。
北門の門番は東門のおじさんとは別の人で、俺を知らなかった。冒険者証を見せたら通してくれた。
北に向かう道は、東の沢沿いの道よりも細くて、傾斜がある。街道からすぐに外れて、林の中に入る。木の種類が変わった。エルスト周辺は広葉樹が多かったが、北に行くにつれて針葉樹が増える。空気が変わった。冷たくて、薄い。
半日歩いた。
道中、何度か魔物に話しかけた。虫系が二回、モスリンが一回。このあたりの虫系はエルスト周辺のやつより声がゆっくりだった。気温が低いからかもしれない。帳面にメモした。「北部の虫系:声がゆっくり。寒いせいか。質問は短く区切って、返事を待つ」。
モスリンは毛の色がさらに濃くて、ほとんど焦げ茶だった。「北部のモスリン:毛色が濃い。村=茶、エルスト=濃茶、北部=焦げ茶。標高と関係?」。帳面に書いた。
指定された素材のうち一つ、シロツメコケという白い苔を見つけた。岩壁の北面に、手のひらくらいの群落が三つ。モスリンに場所を教えてもらった。採取して布で包んだ。ルリゴケと同じく湿った状態で持ち帰る必要がある。
日が傾いてきた。帰るには遅すぎる。
——泊まりだ。
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野営の場所を探した。手引書には「風が当たらない岩陰、水が近い場所」とある。でもそれより先に、このあたりの魔物に聞いたほうが早い。
近くにいた虫系に聞いた。
「この先に、雨風がしのげる場所ってある?」
『……いわ。あな。おく。こうもり、いる。あぶなくない。こうもり、おとなしい』
岩の穴。奥に蝙蝠がいる。おとなしい。
虫系が示した方向に歩くと、岩壁に横穴があった。人がかがんで入れるくらいの大きさ。中は暗い。入り口に少しだけ光が差していて、その先は闇。
穴の入り口に立って、中に向かって話しかけた。
「すみません。今晩だけ泊めてもらえませんか」
しばらく沈黙。暗闇の奥で、かさかさという音がした。羽の音だ。
声が来た。
『……だれ。ひと? ひと、はいる、あぶない。おちる。あな、ふかい』
蝙蝠系の声は虫系に近い。短くて早いが、虫系よりもう少し丸い。語尾が柔らかい。
「入り口の近くだけ使わせてもらえたら。奥には行かない」
『いりぐち。ちかく。……いい。しずか、なら。いい』
「静かにします。ありがとう」
穴の入り口から二歩分だけ中に入った。地面は乾いていて、思ったより平らだった。岩壁に背中を預けて座った。天井が低い。でも風は入ってこない。
干し肉を一切れかじった。暗闇に目が慣れてくると、天井に小さな影がぶら下がっているのが見えた。逆さまにぶら下がっている。五匹か六匹。動かない。寝ているのか、こっちを見ているのか。
『ひと、たべる。にく?』
「干し肉です。すみません、匂いますか?」
『におう。でも、いい。こうもり、にく、たべない。むし、たべる』
蝙蝠は虫を食べる。そうか。虫系の魔物の声が聞こえる俺としては、なんだか複雑な気持ちになる。
「あの、お礼に何か——」
『おれい?』
「泊めてもらったから。何かお返ししたい」
蝙蝠が少し揺れた。考えているらしい。天井からぶら下がったまま、小さな顔がこっちを向いた。
『……あかい、み。いわ、うえ。たかい、とこ。ぼくたち、とれない。つばさ、あたる。ほしい』
赤い実。岩の上の高いところに生っていて、翼が当たるから蝙蝠には取れない。
「明日、明るくなったら探してくる」
『ほんと? ほんと?』
声が跳ねた。蝙蝠系の声は跳ねるのか。帳面にメモしたかったが暗くて書けない。頭に入れておく。「蝙蝠系:声は虫系に近いが語尾が丸い。嬉しいとき声が跳ねる」。
岩壁に背を預けたまま、目を閉じた。
風の音が遠い。洞窟の中は静かで、温かくはないけれど、冷たくもない。天井で蝙蝠たちが時々もぞもぞ動いている。その音が、切り株の周りでリッケルがかさかさやっている音に少し似ている。
苔の匂いはしない。代わりに、岩と土と、少しだけ蝙蝠の匂いがする。
灰色のやかん亭のベッドよりは硬い。でも、悪くない。
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朝、目が覚めたら洞窟の入り口が白く光っていた。
蝙蝠たちはまだ寝ている。静かに立ち上がって、外に出た。
岩壁を見上げた。高い位置に、確かに赤い実がなっている。低木が岩の割れ目に根を張っていて、枝の先に小さな実が房になってついている。蝙蝠が飛ぶと翼が岩壁に当たる位置だ。人間の手なら、足場を見つけて登れば届く。
村の裏山で木登りや崖登りはさんざんやった。岩のほうが手がかりが硬くて掴みやすい。
赤い実を三房もいだ。降りて、洞窟の入り口に置いた。
「置いておきます。赤い実、三房」
暗闇の奥から、かさかさと音がした。
『……ほんとに、とった。ありがとう。また、きて。いい。いつでも、きて』
「ありがとう。また通ったときに寄ります」
荷物を背負って、洞窟を出た。
帳面を開いて、メモした。「北部岩壁の洞窟:蝙蝠系5〜6匹。おとなしい。入り口付近なら一泊可。お礼は岩壁上部の赤い実。翼が当たって取れないのを代わりに取ってやると喜ぶ。声が跳ねる」。
自分の字を見た。相変わらず下手だ。蝙蝠の絵も描いてみたが、鳥に見える。蝙蝠は鳥じゃない。
まあ、自分が読めればいい。
帳面を荷物に戻して、歩き出した。シロツメコケを持ってギルドに帰る。帰ったらこの苔のことも帳面に書き足す。白い色、北面の岩壁、群落のサイズ、モスリンが教えてくれたこと。
手引書の空欄を、少しずつ埋めていく。俺だけの手引書を。




