第九話 名前のない風
台地に出た。
トレントの空間を抜けて、岩の傷を越えて、獣道すらなくなった斜面を登り切った先に、それはあった。
開けている。森が途切れて、岩と草だけの平らな場所が広がっている。風が強い。下界とは別の風が吹いている。冷たくて、乾いていて、高い。
台地の奥に、いた。
銀灰色の体。四本足。角が一本、頭の真ん中から天に向かって伸びている。
——大きい!
レオンが「牛くらい」と言っていたが、それでも控えめだった。牛より大きいかもしれない。体毛が風に揺れている。銀色に光っている。角は真っ白で、先端が空の色と混じって見えなくなるくらい高い。
あいつだ。
村の稜線に立っていたあの影。あの匂い。あの一瞬。体の真ん中を、知らない風が通り抜けたあの——。
『——だれ だれ だれだ ここ どこ どこだ つながり ない ない ない ない こえ きこえない かみ かみ どこ どこにいる さむい くらい ひとり ひとり ひとり——』
声で殴られた。頭が割れそうになる。
声の量が、今まで聞いたどの魔物とも違う。モスリンの途切れ途切れでもない。虫系の短い断片でもない。トレントの三十分に一文でもない。
滝だった。声の滝。言葉が整理されないまま、感情ごと押し寄せてくる。
恐怖。孤独。混乱。怒りではない。悲しみですらない。
もっと手前の、もっと原始的な——迷子だ。迷子の感覚。自分がどこにいるのかわからない。繋がっていたものが切れて、何も聞こえなくなって、ただ叫んでいる。
『かみ かみ こたえて こたえてくれ なぜ きこえない なぜ いない ずっと いたのに ずっと つながっていたのに——』
立っていられなくて膝をついた。
声が止まらない。耳を塞いでも聞こえる。頭の中に直接来るから。対話術が拾ってしまう。拾わないという選択肢がない。
——これが、「気性が荒い」の正体……!
怒っているんじゃない。暴れているんじゃない。叫んでいるだけだ。助けを求めている。でも誰にも聞こえないから、声がどんどん大きくなる。大きくなるほど周りの魔物が怖がって逃げる。逃げるから、もっと孤独になる。もっと叫ぶ。
——悪循環だ。
立ち上がった。足が震えている。声の圧で体が重い。でも、立った。
いつもの手順を思い出した。動かない。息をゆっくりにする。相手が来るのを待つ。
——待てない。
待っていたら、あいつはずっと叫び続ける。
七年前のムックとは違う。ムックは怖がっていたけれど、静かだった。こいつは静かになれない。繋がりを失って、壊れかけている。
待つのが俺のやり方だった。ずっとそうしてきた。座って、息をゆっくりにして、相手が出てくるのを待つ。
でも今、目の前にいるあいつは、待っていたら間に合わない。
声の滝の中に、一歩ずつ踏み込んだ。
『だれ だれだ ちかづくな ちかづくな あぶない わたし あぶない こわい こわい——』
「大丈夫だよ」
声が出た。震えていた。でも出た。
「大丈夫。怖くない」
あの日と同じ言葉だ。隣村のベンチの下で怯えていたモスリンに言った言葉。蝙蝠の洞窟で最初に言った言葉。ムックの隣に座って、何も言わずに伝えた気持ち。
怖くない。
『ちかづくな にんげん にんげん わたしのこえ きこえるのか なぜ きこえるのか——』
「聞こえてるよ。全部聞こえてる」
十歩。もう十歩。単角獣の体が見えた。近くで見ると、毛が逆立っている。ヴィルドボアのときと似ている。痩せているんじゃない。全身が緊張しているんだ。一本一本の毛が恐怖で立っている。
目が見えた。大きい。金色だ。金色の目が、こっちを見ている。瞳孔が揺れている。焦点が合っていない。
あと五歩。
足元の岩が揺れた。単角獣が前足を踏み鳴らした。警告だ。これ以上近づくなという合図。レオンがいたら「止まれ」と言っただろう。
止まらなかった。
『こわい こわい ひとり ひとり——』
「一人じゃないよ」
最後の二歩を踏み出して、銀灰色の首に、腕を回した。
---
硬かった。
毛は針金みたいで、肌に刺さりそうだった。体温は——高い。熱いくらいに高い。心臓の音が聞こえた。速い。ドクドクドクドク、と、壊れた時計みたいに速い。
腕に力を入れる。首を振ってくるが、離さなかった。
声がまだ来ている。滝のように。でも、さっきより少しだけ——ほんの少しだけ——水量が減った気がした。
『にんげん なぜ にげない なぜ こわくない わたし おおきい わたし あぶない なぜ——』
「うん。大きいね。でも怖くない」
首筋に顔を押し付けた。匂いが来た。鉄と、土と、それから——名前のない何か。あの匂い。稜線で嗅いだ匂い。レオンの布包みに残っていた匂い。ずっと追いかけてきた匂い。
今、ここにある。腕の中にある。
『…………にんげん…………あたたかい……………………』
声が変わった。
滝が止まった。言葉が一つずつ、ゆっくり落ちてくるようになった。モスリンの速度に近い。途切れ途切れの、壊れかけた言葉。
『…………さむかった…………ずっと…………さむかった……………………ひとりで……………………』
「うん」
『…………こえ…………きこえなく…………なって………………なにも…………きこえなく…………なって……………………』
「うん。聞いてるよ」
腕の中で、単角獣の心臓が少しずつ遅くなっていった。壊れた時計の針が、正しいリズムを思い出すように。
---
どれくらいそうしていたかわからない。
気がつくと、台地の周りに気配があった。
森の縁に、小さな影がいくつか見える。モスリンだ。焦げ茶色の。北部の。岩の隙間から顔を出して、こっちを見ている。
その奥に、虫系の気配もある。甲虫系が三匹、岩の上に並んでいる。触角がこっちを向いている。
さらに奥の木の上に——蝙蝠だ。昼間なのに。洞窟の蝙蝠が、木の枝にぶら下がって、こっちを見ている。
声が聞こえた。小さくて、遠くて、でも確かに。
『……がんばれ……あかい、み、の、ひと……』
蝙蝠の声だ。跳ねている。
モスリンからも。
『……もす、におい。あの、ひと。だいじょうぶ。だいじょうぶ……』
虫系の早い声。
『あぶなくない、ひと。しってる。しってる。しってる』
——お前たち。
逃げていたはずだ。単角獣の気配が怖くて、Dランク帯の奥から小型の魔物は消えていた。それなのに、今、戻ってきている。
見守っている。俺と単角獣を。
---
腕の中で、単角獣の呼吸が落ち着いていった。
毛の逆立ちが収まっていく。一本一本が、ゆっくりと寝ていく。体温が下がっていく。熱かったのが、温かいくらいに変わった。
金色の目が、こっちを見た。
今度は焦点が合っているみたいだ。瞳孔が安定している。俺だけを見ている。
そして——声が来た。今までとは全く違う声だった。
『——汝は、何者であるか』
流暢だった。途切れていない。一つの文が、一つの流れとして届いた。言葉の一つ一つに重みがある。古い。ものすごく古い言葉遣いだ。モスリンの片言とも、虫系の断片とも、トレントの一文三十分とも違う。
これが、本来のこいつの声だ。
「……フリッツっていいます。人間です」
『フリッツ。人の子よ。汝の声が、我を繋ぎ止めたようだ』
「繋ぎ止めた?」
『我は長きに渡り、天とつながりし者。されど、その糸が絶えた。声が消えた。何も聞こえぬ闇の中で、我は我を見失った。汝が来るまで』
天とのつながり。神との接続のことだろうか。俺にはわからない。わからないけれど、こいつが「切れた」と言っているものが、ずっと苦しみの原因だったことはわかる。
『汝に触れたとき、我の内を何かが通った。古い道が、ふたたび開いた。微かに——されど確かに。天の声が、遠くに聞こえる』
「……俺、何もしてないよ。抱きついただけだ」
『それで十分であった』
単角獣が首を下げた。角の先端が、俺のすぐ横を通った。白い角。近くで見ると、表面に細かい模様が走っている。文字のようにも見えるし、木の年輪のようにも見える。
額に、冷たいものが触れた。
単角獣の鼻先だ。俺の額に、鼻先を押し付けている。
——ムックと同じだ。
鼻先を押し付ける。それが、こいつの「ありがとう」なのかもしれない。
『フリッツ。我が名はまだ汝に告げられぬ。名は天とのつながりの中にある。されど、汝が繋ぎ止めたこの身は、汝と共にありたいと願う』
「……一緒に来るってこと?」
『汝が許すならば』
許すも何も、俺はこいつの声を聞きたくてここまで来た。稜線であの一瞬を感じてから、ずっと。
「いいよ。行こう」
単角獣が目を細めた。金色の瞳に、夕方の光が差していた。
台地の周りで、モスリンがもぞもぞ動いた。虫系の触角が揺れた。蝙蝠の声が跳ねた。
『…………やった……あかい、み、の、ひと……やった!』
赤い実の人。それが蝙蝠たちの間での俺の呼び名らしい。
帳面を出した。今日の日付。場所。そして。
「名前、まだないんだよな。仮でいいから何か——」
『好きに呼ぶがよい』
「……じゃあ、帰ったら考える」
銀灰色の獣が隣に立っている。牛よりも大きい。角が空に向かって伸びている。俺が見上げないと顔が見えない。
その隣に、俺が立っている。小刀一本と帳面と干し魚しか持っていない、Dランクの十三歳が。
——なんだか、すごい絵面だと思う。
帰り道、トレントの前を通った。
『………………おおきい……の……つれてる……………………』
一文三十分の感想だった。




